第28話 青い鳥

文字数 3,052文字

「おうっ……うえええっ」

 二つ目の石を投げようとしたとき、川下で激しい空えづきが聞こえた。振り返ると、小林がまたマサカズの背中をさすっている。

「全部出しちまえ。そうすりゃ楽になる」
「うげええっ、おうえっ」
「がんばれ、あと少しだ」

 真一も経験があるが、背中をさすってもらうと、確かに吐きやすい。

「いいぞ、その調子。もうひと踏ん張り」

 小林の声に熱がこもる。

「何だかあいつ、産婆みたいですねえ……」

 岡崎が煙草をふかしながら、他人事みたいに言った。

「生まれてくるのは、さっき食った駄菓子とアイスモナカだけどな」
「うわあ……想像しちまった」

 岡崎はべーっと舌を出して、真一のほうを見た。だが、すぐ表情を改め、

「今後どうします?」

 と訊いてきた。真一は手の中の石を弄びつつ、

「うーん、戻るにしても道が平らになるまでけっこうかかるし……。かといって、このまま進んでもなあ……」

 悩ましい問題だ。山に入ってからずっと対向車を見かけなかったので、道は行き止まりの可能性もある。仮にどこかへ抜けられるにしても、あとどれくらい走ればいいのか……。

「ですねえ……」

 岡崎もあぐらをかいたまま頭を垂れた。

 結局、最終的な判断はマサカズに任せるしかなさそうだ。ちなみに、携帯は圏外。誰か知り合いに頼んで、地図を見てもらうことはできない。

 気を取り直して、石を握り直す。さっきは一回しか石を弾ませることができなかったが、今度は川上に向かって投げてみることにする。

 川面の乱れが少ない瀞から平瀬のあたりを狙って腕を振り抜く。石は矢のように低空を疾駆し、青淵の表面を削って大きく跳ね上がった。石と流れの向きが逆になるため、反発力が大きい。長い滞空時間を経て再び川面に接触した石は、立て続けに跳ね跡を刻みつけて、最後は転がるように水中に吸い込まれていった。

 今度は水切りらしい光景になった。昔、友達と石が跳ねた回数を競い合ったことを思い出す。

 足元には、ちょうどいい大きさの石がまだまだたくさん転がっている。
 また一つ拾って川面と向き合う。

 浅瀬の水は澄んだ黄金色。深場へ向かうにつれ、鮮やかな浅葱色に取って代わられる。大物が潜んでいそうな思わせぶりな色だ。上流に管理釣り場があれば、丸々太った落ちマスが居着いている可能性もある。大きなニジマスなら、一匹で二人分、二匹ならちょうど四人分の胃袋を満たすことができるだろう。

 空腹ゆえ、ついそんな思考が働いてしまった。

 だが、残念ながら竿がない。普段から車に釣りの道具を積んでいることが多い小林だが、今日に限ってラゲッジは空っぽだった。

 仕方がないので、また石を投げることにする。体を動かしていれば、少しは空腹感が紛れるだろう。

 アンダースローで腕を振り抜くと、さっき以上に水面にたくさんの跳ね跡を刻みつけることに成功した。透明な忍者が水面でステップを踏んだみたいだ。忍法――何という術だったかは忘れてしまったけれど。

 また石を一つ拾って投げる。拾っては投げ、拾っては投げ……。

 無心に腕を振り続けていたら、上流から流れてくる丸っこい物体に気づいた。

 注視している間に、それはどんどん近づいてくる。
 大きさは夏みかんくらい。形は半球か。色は黒――ただ、瀬波に煽られるたび、ちらちらと赤い色も覗く。

 だいぶ手前に迫ったところで岩の狭間に吸い込まれ、直下の落ち込みに消えた。
 数秒後、泡立つ水面の中心に浮かび上がって、正体がわかった。

 ――何で、こんなところにお椀が?

 再び流れに乗ったそれを見つめ、真一は首をひねる。

 上流でキャンプでもやっているのか。あるいは、不法投棄されたゴミが流出したとか。

 だが、普通、キャンプにお椀なんか持ってくるだろうか。もっとふさわしい用具があるはず。不法投棄されたゴミだとしても、お椀一つだけというのはおかしい。

 それとも、古式に則ってナントカ汁を食す、といった催しでも開かれているとか……。

 お椀は、すーっと音もなく目の前を横切っていく。落ち込みの先の川面は、のっぺりしているように見えて、流芯の流れだけは速い。

 何の変哲もないお椀だった。目立った傷はないけれど、新品という感じでもなかった。ごく普通に家庭で使われているお椀。真一のアパートのキッチンにもある。ほどなく川下で白瀬に捕まり、もみくちゃにされながら視界の彼方へ消えていった。

 釈然としない思いが残ったが、まあいいか、と割り切って水切りを再開する。

 何度も石を投げたことによって、昔の勘が戻ってきた。コンスタントにたくさんの跳ね跡を刻むことができるようになっている。ならば、もっと跳ね跡の数を増やしてやろう――真一はそう思って、気合を入れる。

 無心の時間が過ぎていく。水切りに熱中していたら、空腹はあまり感じなくなった。火照った体に、渓谷の冷たい空気が心地いい。

 腕が重だるくなってきた頃、岡崎が真一の名を呼んだ。

 振り返ると、小林とマサカズが川原を歩いていた。マサカズは小林に寄り添われつつも、足取りはしっかりしている。真一の視線に気づいた小林が、頭の上でOKのサインを作ってよこす。どうやら大丈夫のようだ。真一は水切りの石を捨てると、岡崎のいる場所に戻った。

「すいませんでした。先を急ぎましょう」

 全員集まったところで、マサカズが頭を下げた。ハキハキした口調と裏腹に、顔はまだ白い。歩き方こそしっかりしていたが、本当に大丈夫なのか。ここで無理してまた具合が悪くなったら、元も子もない。今度こそ、昼食はお預けになってしまう。岡崎の機嫌の悪さにも、ますます拍車がかかる。

 だが、マサカズはきっぱり、大丈夫です、と言い切った。過去に車酔いになったときにも、吐いたら体調が良くなったという。今はもう気分もいいし、体も軽い。ほら、このとおり、とみんなの前でよくわからない体操をしてみせた。

 真一と岡崎がそれでも信用できずにいたら、一人で川原と道路を結ぶ小道へ向かい出した。何歩かの所で振り返り、ほかの三人がまだ同じ場所に留まっているのを見ると、やれやれ、と息をついて、挑発的に口の端を持ち上げた。

「おう、行くぞ、岡坊」
「こいつ!」

 岡崎が猛然と走り出し、マサカズが身を翻す。小道の入り口に二人の背中が吸い込まれ、浅い新緑に染まった谷斜面を、笑い声と怒鳴り声が駆け上っていく。

 軽口を叩けるくらいなら、本当に大丈夫なのだろう。小林に続いて、真一も歩き出す。

 新芽が萌え出づる坂道は、陽射しをよく通し、林床まで明るい。足元から立ち昇るひんやりした土の匂い。乾いた落ち葉の音。渓谷はまだ随所に冬の気配を残している。ただ、この時期ともなると、やはり山の中でも春の勢いが勝る。何気なく小林の車を見上げたら、ガードワイヤーの下に滴るヤマブキの花が見えた。さっき釣りのことを考えたが、釣り人にとってはシーズンの幕開けを告げる花だ。

 道が鋭角に折り返す場所で、渓水に冴え渡る鳥の声が聞こえた。自ずと足が止まって、落ち葉の吹き溜まりから周囲を見渡す。谷間に突き出した小枝の先に、青い小鳥が止まっていた。こちらの視線に気づいたのか、もう一度清らかな歌声を聞かせる。

 深い青色の翼と白い胸を持つこの鳥はオオルリ。見た目もさえずりも美しく、ウグイス、コマドリとともに日本三鳴鳥に数えられている。

 メーテルリンクの童話で、青い鳥は幸福の鳥だった。
 その青い小鳥は、川上側の梢に止まっている。

 マサカズの選択は正しいのかもしれない。
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