第60話 海水浴 The Final~ビッグ・ウェンズデー~

文字数 2,599文字

「お前らーっ、上司にこんなことしてただで済むと思うなよ」

 水面に顔を出した久寿彦は、頭にカジメの葉っぱを貼り付けて、バンド時代の風貌が蘇ったかのよう。業務命令だ!、と松浦を指名すると、二人がかりで真一に襲いかかってきた。挟み撃ちにされた真一は、松浦に羽交い締めにされ、久寿彦には両足を持ち上げられて、巻き上がった波の前に放り投げられた。分厚い波の切っ先がギロチンのごとく迫ってくる。水の断頭台だ。仰向けの体を反転させてかわそうとしたが背中を直撃され、衝撃とともに水の中に引きずり込まれた。そこから先は、宇宙飛行士の訓練のごとく、でたらめに砂底を転がされた。頭をぶつけ、鼻から水を吸い、ぐるっと一回転して、また砂底で顔を擦る。

 平衡感覚がバカになりかけつつも、何とか立ち上がったとき、沖合で真帆が捕まっていた。手足をつかまれた真帆は、宙吊り状態でわーわー喚いている。波が迫って、松浦と久寿彦は容赦なく小柄な体をぶん投げた。大の字の真帆を波がキャッチし、ぐるんと簀巻きにする。ボディボードに乗っていたら、「エルロロ」 という技になっていたかもしれない。しかし、技は成功せず、水の壁に背中を打ち付けただけの真帆は、ひぶっ、と短い悲鳴を残して波に呑まれていった。

 そこから先はメチャクチャだった。西脇が岡崎を突き飛ばし、岡崎は益田を投げ飛ばす。真一は益田と組んで、松浦にツープラトンのバックドロップを食らわせた。体格のいい松浦でも、二対一で挑まれてはどうしようもない。ひっくり返ったところを波に襲われ、海番長はまたもや海の藻屑と化した。復讐心に燃える真帆が、久寿彦の海パンをずり下ろす。半ケツをさらして逃げ回る久寿彦だったが、足がもつれて転倒し、顔面に白波の直撃を食らってしまった。へぶしっ、と北斗の拳の小悪党のような叫び声が海原に木霊した。

 いつ、誰が、どこから襲ってくるかわからない。互いに相手の挙動を窺い、隙あらば誰もが誰かの標的になった。同盟を結んでも仲間を信用するのは禁物。盟友はすぐに裏切り、襲いかかってくる。プロレスのバトルロイヤルと同じ。ハラハラ、ドキドキの連続で、気が休まるヒマがない。それでも無性におかしくて、笑いが止まらなかった。海から上がったときには膝に力が入らず、体が鉛のように重たかった。

◇◇◇

「あんなことやってたら、いつか溺れるって」

 ベンチの下から立ち昇る煙が、弱い大気の流れに乗って、木柵の向こう側の沼へと傾いている。アシの茂みでは、相変わらずオオヨシキリの声が喧しい。ウッドデッキ周辺はさっきより蒸し暑くなった気がするが、蚊取り線香を焚いているおかげで、水辺でも蚊に刺されていない。

「家に帰って横になったら、鼻からドバドバ水が出てくるのな。いったいどれだけ鼻の中に入ってるんだって思うくらい」

 真一は足を組んで、煙草に火をつける。

「しょっぱいから鼻血かと思ったりして」
「あははっ、そうそう」

 パチパチと手を叩く音が、人気のないトンボ沼に響き渡る。

「タイムかけてるのに押してくる奴もいたな」
「あれ、最悪。俺もやられた」

 オオヨシキリの声にウシガエルの声が重なった。ヴォーヴォー、と腹に響く重低音。基本的に夜鳴くカエルだが、曇り空のためか、今日は日中でも鳴き声が盛んだ。一匹が鳴き始めると、すぐに数匹が追唱する。さっきからこの繰り返し。

「海って飽きないよな」

 ウシガエルの潜む南東のガマの茂みに目を向けて、真一はぽつりと言う。

 波と戯れていると、つい時間が経つのを忘れてしまう。一本乗り越えて、次の波を待って、また波を乗り越えて……。ただそれだけのことなのに、不思議と飽きることがない。何度波を乗り越えても次の波を期待している自分がいる。単純かつ終わりのない遊び。繰り返しているうちに、いつの間にか童心に返っている。

◇◇◇

 万人の万人に対する闘争は、その日一番の大波がやって来て終了した。

 沖合に波影を見つけたとき、ちらっと頭をよぎった。水曜日にやってくるという伝説の大波。昔、映画で見たことがある。

 確かに、その日は水曜だった。

◇◇◇

「ア、ア……」

 浜辺の音楽がふっつり途切れ、マイクの調子を確かめる声が入る。

「只今、沖合に大きい波が近づいております。ご遊泳中のお客様は十分ご注意下さい。繰り返します、只今……」

 今までのものとは明らかに異なる波のうねり。

 高さは通常の波の倍近くあるかもしれない。長さも然り。黒く翳った波面が、鱗のように細かい光を弾き返して、生き物のようだ。

 一目見て、竜だ、と思った。

 万里の波濤を乗り越えて、竜がやって来たのだ、と。

 浜辺にけたたましく笛の音が鳴り響く。遊泳中の海水浴客が、一斉に波打ち際のほうへ引き揚げていく。

 真一たちのいる位置は微妙。沖へ逃げるべきか、砂浜側へ逃げるべきか――。

 迷っている間に、沖合で波が崩れた。だらだらと白波が斜面を駆け下っている。

 これ以上、考えているヒマはない。真一は、とっさの判断で沖へ逃げると決めた。

 引き波の影響で、腕を掻くと楽に体が進んでくれた。浜側へ逃げていたら、この水の流れと戦うことになっていたから、いい判断だったはずだ。……そう思うことにする。

 やがて斜面の白波が消滅した。

 代わりに、角度を増した波の本体が迫ってくる。ラムネ色の水の壁の中を、三、四の黒っぽい魚影が横切っていくのが見えた。ボラの群れだろうか。

「ダメだー、戻れー」

 背後で松浦が叫んだ。真一は振り返らない。先頭の真一が今更引き返しても手遅れだ。前に進むしか道はない。

 分厚い水壁が目の前に立ちはだかる。間近で見た波は、一段と凄味を増して、ほとんど怪物じみていた。渾身の力で水を掻き、砂底を蹴る。伸び上がった体が、たわみ始めた波の斜面を駆け上がる。見上げた先で、波頭が白く飛沫いた。潮煙が波の裏へと棚引き、バチバチと水の礫が顔を叩く。しかし、腰の強い波は、屹立したまま倒れない。何とか間に合った。

 頂上まで上り詰めると、上昇の勢いのままに身を翻す。
 信じられないくらいの高さから、仲間たちを見下ろしていた。
 一心不乱に泳ぐ背中。恐怖で引きつる振り返った顔。

 波の上は天国、下は地獄。
 天国と地獄は背中合わせ。

 一人勝ちだった。

 砂浜側へ逃げていく仲間たちに向かって、真一は波の上から、バンザーイ、と両手を挙げて叫んでやった。
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