第45話 レストランHORAI

文字数 4,539文字

 タイル張りの歩道をつかつかと歩いて、電話ボックスの扉を乱暴に引き開けた。黄緑色の電話機から受話器をつかみ上げると、カード挿入口にテレホンカードを挿し込み、市外局番を省いた自宅の番号をプッシュした。久寿彦の携帯の番号は控えてあるが、財布からいちいちメモを取り出すのは面倒くさい。家にいることはわかっているのだ。

「はい、筒川です」

 数回の呼び出し音のあと、本人が電話に出た。能天気な声にイラッとし、真一はわざとらしく咳払いする。

「はい、じゃねえよ。お前んちに行く道、工事中じゃねえか」

 久寿彦の家は、蓬莱公園の近く。行くには公園の駐車場に入る道の一本手前で左折するのだが、その道に入った途端、赤い棒を持った警備員に停止を求められた。道端には 「工事中」 と書かれた看板。その先はアスファルトがはがされ、むき出しの地面に大きな水たまりが出来上がっていた。

 工事中なら、一言言ってほしかった。久寿彦には、こういうところがある。大事なことをうっかり忘れたり、肝心なところで気が利かなかったりするのだ。実際、今日は弟に車を貸したことを忘れた。公園下のレストランで一緒に働いていたときには、客の予約を直前まで忘れていて、周囲をヒヤヒヤさせたこともある――おっちょこちょいなのだ、ようするに。

「悪い悪い、うっかりしてた」

 言葉ほどには悪いと思ってなさそうな声――まあ、これだけの情報なら、そういう反応は仕方ない。

「で、今どこ?」

「時計塔広場の電話ボックス」
「は? 何でそんなとこにいるの。俺んちに来るなら、手前で曲がれよ」

 言うと思った。

「べつに今から行ってやってもいいぞ」

 真一は、わざと明るい声色を作る。

「うん、そうすれば?」
「ずぶ濡れだけどな」
「え……?」

 言われるまでもなく、真一も引き返そうとしたのだ。来た道を戻って、最初の信号を右に曲がれば、やや複雑な経路を辿ることになるが、久寿彦の家に行くことができる。ただ、目の前の道も、よく見ると、水たまりの脇にバイク一台くらいなら何とか通れそうな隙間があった。平坦ではないものの、慎重に走れば、タイヤを取られる心配はなさそうだった。どうしようかと迷っている間に、警備員が進めの合図を出し、反射的にスロットルを開けていた。だが、水たまりを避けようと路肩に寄ったところで、後続の車が追い越しをかけてきた。道を譲られたと勘違いしたらしい。ちょうど水たまりのところで並んでしまい、盛大に跳ね上がった泥水を、まともに浴びてしまった。スクーターを停めて体を見下ろしたら、右半身がずぶ濡れだった。

「……というわけだ。だから、お前も出てきてくれ。水場で落ち合おう。お前のほうが長い距離歩くけど、そこは我慢しろよな」

「……わかった」

 状況が理解できたらしい。今度は申し訳なさそうな声が返ってきた。

 受話器をフックに戻す。ピピーッ、という音と一緒に飛び出したカードを財布にしまい、電話ボックスのドアを押し開ける。

 すっきりしない天気のため、正面の駐車場に停まっている車はまばら。「四方四季の庭」 というコンセプトを掲げる蓬莱公園は、四季折々の花を楽しめることが売りだが、今はアジサイやハナショウブの時季にもまだ早い。

 薄い水色と灰色の柄タイルが敷き詰められた歩道を、銀の時計塔が聳え立つほうに歩いていく。広場の中心に来るまでの間に、つるつるした黒いタイルをいくつか見かけた。要所要所に埋め込まれたこのタイルには、金色で尾っぽに長い毛が生えた亀が描かれている。これは 「蓑亀」 という縁起の良い生き物で、常世野市の市章でもある。車を運転していて、道端に蓑亀のカントリーサインを見かけたら、そこから先からが常世野市だ。

 時計塔のある噴水池の脇を通り過ぎると、広場の突き当たりから、幅広の階段を上り始めた。踊り場をいくつか越えて、ようやく辿り着いた第一広場にも、人影はまばらだった。花見に来たときと違って、遊歩道沿いの桜並木は、すっかり衣替えを済ませている。たくさん並んでいた屋台も、今は一軒もない。緑のトンネルが続く道を、あの日と同じく龍神池を目指して歩いていく。

 しばらくして、池の畔に辿り着いた。沈んだ色合いの水面に、二羽の夏鴨が白っぽい筋を引いている。森閑とした空間に響くホトトギスの声とウグイスの谷渡り。池に迫る山の斜面では、常緑樹の明るい若葉と濃緑の古い葉が爆煙模様を形作っているが、十日ほど早く訪れていたら、クリーム色のシイの花も加わっていただろう。都会でこれだけ自然が豊かな場所は貴重だ。さっきまでスクーターで走っていた国道の喧騒が嘘みたいに思える。

 ヤマボウシやエゴノキの花が咲く道を辿りつつ、そういえば一年前もこの道を歩いていたな、と思い出した。正確には、一年と一ヶ月前。四月下旬のあの頃は、山の斜面に藤の紫が滴り、遊歩道沿いで見かけたのも、初夏の白い花ではなく、朱色のヤマツツジだった。

 ホテルを辞めたのは、四月半ば。中途半端な時期の退職になってしまったのは、仕事の引き継ぎがうまくいかなかったから。コスト削減の一環で、深夜のフロントに入ることになったバイトの学生が、なかなか仕事を覚えてくれなかったのだ。

 駅前大通りの一角を占める老舗のホテルだった。交代勤務は仕方ないにしても、人間関係が良く、働きやすい職場だった。だが、バブルが崩壊してほどなく、駅裏に百貨店が出店する話が立ち消えになると、空いた土地に、低価格を売りにしたホテルが進出してきた。真一が勤めるホテルの業績はたちまち悪化し、会社が募った希望退職に若手社員数名が応じた。数名の中には、真一も含まれていた。年配の社員は会社にしがみつく道を選んだが、真一には会社の未来が明るいとは思えなかった。危機の背後に、時代の大きなうねりのようなものを感じた。

 景気が悪いとき、客は安さを求める。しかし、景気が回復しても、一度安さに慣れてしまった客が戻ってくるとは限らない――休憩時間中、仲の良かった先輩が言っていたことだ。

  その先輩も、年明け早々に会社を辞めた。しばらく再就職先を探したものの、条件のいい会社は見つからず、故郷に帰って実家の果樹園を継ぐことにしたそうだ。花見の日に引っ越しの手伝いをしたというのはこの先輩。お礼に奢ってもらった食事の席で、結局、景気回復もなかったよ、と自嘲していた。

 歩いたせいで、だんだん暑くなってきた。トレーナーを脱いで腰に巻き付ける。手の甲で額をぬぐったら、ぬるっと汗の感触があった。

 あの日も、今日と同じくらい暑かった。木陰のベンチに寝そべっていた人が聴いていたラジオが、各地で夏日を記録した、と伝えていたことを覚えている。桜が終わった公園ではつつじ祭が開催中で、遊歩道もそれなりに混雑していた。

 一週間ほど前から、公園に隣接する職安に通い始めていた真一は、その日、まっすぐアパートに帰らず、公園下の水場に立ち寄るつもりだった。どうせ帰ってもやることはない。部屋の掃除や物入れの整理など、暇つぶしになりそうなことは、やり尽くしてしまっていた。西日の射し込む部屋でゴロゴロしている自分の姿を想像すると、それだけでうんざりした。パチンコなどで散財するのも嫌だったし、運動不足解消も兼ねて、職安と隣接する時計塔広場の駐車場から水場まで歩くことにしたのだった。

 辿ったルートは今日と同じ。遊歩道にいた人の数と、各所でツツジが咲いていた点が違う。

 第二広場の手前で、待合広場のほうに曲がった。ここから東に伸びる道を歩いて、森の坂道を下っていけば、水場前の駐車場に出る。

 小広い広場の中央まで来て、ふと足が止まった。
 目の前には、オオムラサキツツジの大きな植え込み。白、ピンク、マゼンタの花が地図のような模様を作っていた。 

 だが、目がいったのはそこではなく、植え込みの前に立っていた白い木製の掲示板。

 ペンキがはげかかった板面に、こんな張り紙があった。

 ホールスタッフ1名 時給900円 二食付 交通費支給
 時間 10:30~21:00 (季節により若干の変動あり)
 ※三ヶ月以上働ける方

 レストランHORAI

 仕事を探していたのは確かだ。ただ、バイトを探していたわけではない。希望は、あくまで同じ業界に社員として再就職すること。ほかの選択肢は頭になかった。

 それでも足は動かなかった。

 一週間ほど職安通いをしたものの、いい求人は見つからなかった。時期も悪かったと思う。新入社員が入ったばかりの四月では、どこも人手が足りていたのだ。

 じっと張り紙を見つめて考えた。

 新入社員にしても、四月、五月で辞めることはないだろう。状況が変わるとしたら、夏くらいからだろうか。今は少し様子を見たほうがいいかもしれない。職安のすかすかのファイルの中から、焦って条件の悪い仕事を選んでも、後悔することになるのは自分だ。

 だが、そうなると、問題は金銭のこと。失業保険は会社都合退職でもらうことにしたが、これだと早い段階で給付が終わってしまう。かといって、自己都合退職では、給付開始まで貯金を切り崩しながら生活しなくてはならない。退職金には多少色がついたが、こんなことで金を減らしたくはなかった。フルタイムでバイトしたら失業手当をもらえなくなってしまうが、給付の期日や期間を気にしなくていいし、退屈しのぎにもなる。貯金に手を付ける必要もなく、気持ちの上で安心感がある。

 決断を下すのに、さして時間はかからなかった。張り紙の電話番号を暗記し、さっそく最寄りの電話ボックスから電話をかけた。ツーコールくらいで男性の声が応じ、公園の電話ボックスにいることを伝えると、すぐに面接に来てもよい、という返事だったので、そのまま森の坂道を下って店まで行った。

 店は公園の駐車場を挟んで、水場の向かいにある。アカメの赤々とした生け垣の上に、白い板壁が覗く。敷地の入り口から見えた、方杖付きの柱が並ぶテラスでは、大勢の客が午後のお茶を楽しんでいた。風通しが良く、緑に囲まれ、鳥の声がよく聞こえるテラス席は人気の席だ。働き始めてすぐ知った。

 店に入ると、ちょうどレジの前に久寿彦がいた。もちろん、このときは名前は知らず、真一は慇懃に面接に来た旨を伝え、久寿彦も事務的な対応をしただけだった。

 奥の貸し切り部屋に通され、二、三分待って、マスターがコックコートを着たまま現れた。四十代半ばくらいの落ち着いた物腰の人で、真一とテーブルに向かい合って座ると、真名井です、と名乗った。

 真一にとって、面接のポイントは一つ。三ヶ月働いたあと、バイトしながら職安に通ってもいいかどうか。

 マスターはしばし黙考したのち、こんな条件を提示してきた。

 店は夏場が何かと忙しい。張り紙には三ヶ月と書いたが、できれば八月いっぱい働いてほしい。承諾してくれればこの場で採用しよう、と。

 八月いっぱい――つまり、四ヶ月ちょっと。三ヶ月という張り紙の文字が頭にあったので一瞬戸惑ったが、仕事が見つかった時点で辞めて構わない、と言われたことに心が動き、わかりました、と返事をした。収入さえ確保されていれば、三ヶ月も四ヶ月も大差ない。
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