第10話 愚者五
文字数 2,329文字
「5」
「6」
「9」
「じゃ、13」
「うわっ、いきなり飛んだ。パス」
「じゃ、2」
真一たちの間では、新しいゲームが始まっている。今度のゲームは、ババ抜きより集中力が必要だ。マサオの大声にいっとき振り返った仲間たちも、今や誰もマサオを気にしていない。
「ほら川崎、ぐいっといけよ、ぐいっと」
もっとも、人の目があろうがなかろうが、酔っぱらいの無法ぶりは変わらない。シートに腰を下ろしたマサオは、川崎の肩に腕を回して紙コップを口に押し当てる。
「あー、川ちゃんの男気が見てえなあ」
紙コップの中身は日本酒。ビール一杯の約束は、とうに忘れてしまった。
「飲めない奴は、出世できないぞー」
飲めない奴は飲んで鍛えろ。酒を飲むのも仕事のうちだ――昔のサラリーマン (あるいは今も) は言われたものだ。古き良き時代に憧憬を抱くマサオも、同じ言葉を繰り返す。
「おっとこぎ、おっとこぎ……」
紙コップをシートに置いて、手拍子を打ち始めた。
「おっとこぎ、はいっ、おっとこぎ、それっ、おっとこぎ、もういっちょ……」
しかし、川崎は再び大仏みたいに口を閉ざしてしまった。マサオの濁声はその耳に届かない。不機嫌そうに息をついたマサオは、また川崎の肩に腕を回し、手首を返して頬を挟みつけた。タコのように突き出した川崎の口から無理矢理酒を流し込もうとしたが、脇腹を強く押し返され、あぐらをかいたままひっくり返りそうになる。
「何しやがるんだ、この」
起き上がり小法師みたいに起き上がる。酔っぱらいに似つかわしくない素早い動きだ。もう一度川崎に突っかかろうとしたが、手にかかった酒に気づいて、もったいねえ、と舐め上げ、今度は松浦たちにターゲットを替える。もちろん、松浦と五所川原もマサオを完全無視だ。おう、おう、と傍らで吠え立てる酔っぱらいなど眼中にないと言わんばかりに声を張り上げ、見えない壁をさらに高くする。川崎も会話に参加し、取り残されたマサオは、井戸端会議を見守る地蔵か道祖神にも等しい。皮肉にも男たちの固い結束は、酒を酌み交わすことによってではなく、マサオという共通の敵を持つことによって出来上がってしまった。
「おい、キミタチ?」
マサオは、ようやく自分が置かれている状況を理解したらしい。
「熱いとこ、見せて欲しいんだよ」
予想と違う展開に戸惑いつつ、控えめな口調でお願いする。
五所川原と目が合って、にっこり笑いかけた。頬の横で紙コップを軽く振ってみせる。しかし、すぐにそっぽを向かれ、相手は何事もなかったかのように松浦と会話を続ける。取り付く島もない。
◇◇◇
「みんなパス? じゃあ、流すよ」
岡崎が溜まったカードを脇に寄せた。すぐに体を起こして、手札に目を落とす。
「4二枚」
捨てられたのは、スペードとクローバーの4。
「二枚で来たか……。じゃ、ほらよ」
真一は、ハートとクローバーの6を捨てる。
「じゃ、7二枚」
「10二枚」
「おっ、続くね」
マサオは、自分をのけ者にした三人を、暗い目で見つめている。一時の戸惑いが去ってみれば、またふつふつと怒りがこみ上げてきた。
いったい、こいつらは何が気に入らないのか……。
言い出しっぺの義務は果たした。怒鳴りたいところもぐっとこらえてきた。こんな礼儀知らずども相手にも、常に一歩引いてきたつもりだ。
川崎に土下座した場面が蘇る。
あそこまで謙った行いはないだろう。顔では笑っていたが、腹の中は屈辱で一杯だった。煮えたぎる思いを呑み込んで、頭を下げたというのに……。
これ以上、何をすればいいのか。まだ至らぬ点があるというのか。
これまでの自分の行いを振り返ってみる。
――いや。
そんなものはない。
やるべきことはすべてやった。
俺は悪くない。
俺が悪くないのなら、悪いのは誰だ……?
こいつらだ!
この平和ボケした畜群どもだ!
下手に出てりゃいい気になりやがって!
酔っぱらった脳みそが弾き出した解答によって、目の前に座っている五所川原につかみかかろうとする。しかし、とっさに身構えた五所川原の襟首まで手は伸びず、ブルーシートの紙コップをつかんだ。ぴたりと動きを止めるマサオ。憤怒の形相で五所川原を睨みつけたが、それ以上の行為に及ぶことはなく、立ち上がって三人に背を向けた。躓きそうになりながら、自分の居場所へと戻っていく。
日本酒の紙パック、食べ散らかされたオードブルの品々、口を開けたクーラーボックス――それらの中心に主が帰り着くと、荒んだ光景が復活した。
ぽつんと酒をすするマサオ。
川崎たちの明るい声が、明るさの分だけ空虚に響く。
紙コップを握る手が小刻みに震えている。怒りのためか、酔いのためか、マサオ自身にもわからない。
ひしゃげた水面が見つめ返してくる。まるで潤んだ瞳のようだ。
辛抱だぞ、マサオ――そう訴えかけているようにも見える。
酒は自分を裏切らない。一人になっても、こうして慰めてくれる。
くだらない仲間などいらない。酒だけを友とすればいい。不愉快な連中のことなど忘れてしまえ。
そう思いかけたが……。
「ふんっ」
荒っぽく日本酒のパックをつかんで、紙コップに酒を注ぎ足した。口に運ぼうとして手を止め、三人を睨みつける。
もう一度、あいつらにチャンスをやろう。こいつは賭けだ。
酒は神水――
酒には悲しみを癒やし、怒りを鎮める力がある。そいつを信じようじゃないか。この酒で心を落ち着かせることができたら、今までのことは問わない。数々の非礼もきれいさっぱり洗い流して、新たな気持ちで奴らと向き合ってやるつもりだ。
だが――
覚えておけ――
もし、紙コップが空になるまでに怒りが収まらなかったら――
今度こそ、タイムリミットだ!
「6」
「9」
「じゃ、13」
「うわっ、いきなり飛んだ。パス」
「じゃ、2」
真一たちの間では、新しいゲームが始まっている。今度のゲームは、ババ抜きより集中力が必要だ。マサオの大声にいっとき振り返った仲間たちも、今や誰もマサオを気にしていない。
「ほら川崎、ぐいっといけよ、ぐいっと」
もっとも、人の目があろうがなかろうが、酔っぱらいの無法ぶりは変わらない。シートに腰を下ろしたマサオは、川崎の肩に腕を回して紙コップを口に押し当てる。
「あー、川ちゃんの男気が見てえなあ」
紙コップの中身は日本酒。ビール一杯の約束は、とうに忘れてしまった。
「飲めない奴は、出世できないぞー」
飲めない奴は飲んで鍛えろ。酒を飲むのも仕事のうちだ――昔のサラリーマン (あるいは今も) は言われたものだ。古き良き時代に憧憬を抱くマサオも、同じ言葉を繰り返す。
「おっとこぎ、おっとこぎ……」
紙コップをシートに置いて、手拍子を打ち始めた。
「おっとこぎ、はいっ、おっとこぎ、それっ、おっとこぎ、もういっちょ……」
しかし、川崎は再び大仏みたいに口を閉ざしてしまった。マサオの濁声はその耳に届かない。不機嫌そうに息をついたマサオは、また川崎の肩に腕を回し、手首を返して頬を挟みつけた。タコのように突き出した川崎の口から無理矢理酒を流し込もうとしたが、脇腹を強く押し返され、あぐらをかいたままひっくり返りそうになる。
「何しやがるんだ、この」
起き上がり小法師みたいに起き上がる。酔っぱらいに似つかわしくない素早い動きだ。もう一度川崎に突っかかろうとしたが、手にかかった酒に気づいて、もったいねえ、と舐め上げ、今度は松浦たちにターゲットを替える。もちろん、松浦と五所川原もマサオを完全無視だ。おう、おう、と傍らで吠え立てる酔っぱらいなど眼中にないと言わんばかりに声を張り上げ、見えない壁をさらに高くする。川崎も会話に参加し、取り残されたマサオは、井戸端会議を見守る地蔵か道祖神にも等しい。皮肉にも男たちの固い結束は、酒を酌み交わすことによってではなく、マサオという共通の敵を持つことによって出来上がってしまった。
「おい、キミタチ?」
マサオは、ようやく自分が置かれている状況を理解したらしい。
「熱いとこ、見せて欲しいんだよ」
予想と違う展開に戸惑いつつ、控えめな口調でお願いする。
五所川原と目が合って、にっこり笑いかけた。頬の横で紙コップを軽く振ってみせる。しかし、すぐにそっぽを向かれ、相手は何事もなかったかのように松浦と会話を続ける。取り付く島もない。
◇◇◇
「みんなパス? じゃあ、流すよ」
岡崎が溜まったカードを脇に寄せた。すぐに体を起こして、手札に目を落とす。
「4二枚」
捨てられたのは、スペードとクローバーの4。
「二枚で来たか……。じゃ、ほらよ」
真一は、ハートとクローバーの6を捨てる。
「じゃ、7二枚」
「10二枚」
「おっ、続くね」
マサオは、自分をのけ者にした三人を、暗い目で見つめている。一時の戸惑いが去ってみれば、またふつふつと怒りがこみ上げてきた。
いったい、こいつらは何が気に入らないのか……。
言い出しっぺの義務は果たした。怒鳴りたいところもぐっとこらえてきた。こんな礼儀知らずども相手にも、常に一歩引いてきたつもりだ。
川崎に土下座した場面が蘇る。
あそこまで謙った行いはないだろう。顔では笑っていたが、腹の中は屈辱で一杯だった。煮えたぎる思いを呑み込んで、頭を下げたというのに……。
これ以上、何をすればいいのか。まだ至らぬ点があるというのか。
これまでの自分の行いを振り返ってみる。
――いや。
そんなものはない。
やるべきことはすべてやった。
俺は悪くない。
俺が悪くないのなら、悪いのは誰だ……?
こいつらだ!
この平和ボケした畜群どもだ!
下手に出てりゃいい気になりやがって!
酔っぱらった脳みそが弾き出した解答によって、目の前に座っている五所川原につかみかかろうとする。しかし、とっさに身構えた五所川原の襟首まで手は伸びず、ブルーシートの紙コップをつかんだ。ぴたりと動きを止めるマサオ。憤怒の形相で五所川原を睨みつけたが、それ以上の行為に及ぶことはなく、立ち上がって三人に背を向けた。躓きそうになりながら、自分の居場所へと戻っていく。
日本酒の紙パック、食べ散らかされたオードブルの品々、口を開けたクーラーボックス――それらの中心に主が帰り着くと、荒んだ光景が復活した。
ぽつんと酒をすするマサオ。
川崎たちの明るい声が、明るさの分だけ空虚に響く。
紙コップを握る手が小刻みに震えている。怒りのためか、酔いのためか、マサオ自身にもわからない。
ひしゃげた水面が見つめ返してくる。まるで潤んだ瞳のようだ。
辛抱だぞ、マサオ――そう訴えかけているようにも見える。
酒は自分を裏切らない。一人になっても、こうして慰めてくれる。
くだらない仲間などいらない。酒だけを友とすればいい。不愉快な連中のことなど忘れてしまえ。
そう思いかけたが……。
「ふんっ」
荒っぽく日本酒のパックをつかんで、紙コップに酒を注ぎ足した。口に運ぼうとして手を止め、三人を睨みつける。
もう一度、あいつらにチャンスをやろう。こいつは賭けだ。
酒は神水――
酒には悲しみを癒やし、怒りを鎮める力がある。そいつを信じようじゃないか。この酒で心を落ち着かせることができたら、今までのことは問わない。数々の非礼もきれいさっぱり洗い流して、新たな気持ちで奴らと向き合ってやるつもりだ。
だが――
覚えておけ――
もし、紙コップが空になるまでに怒りが収まらなかったら――
今度こそ、タイムリミットだ!