第58話 海水浴 その二~海番長~

文字数 3,507文字

 全員食べ終えたところで、少し休ませて、と言った真帆をタープに残し、再び海へ向かった。

 脛くらいの深さの所まで行って、さっきと同じように体に水をかけ、冷たさに慣らす。

 ざあーっ、と足元を白波が通り過ぎていく。水面に残った泡がしゅわしゅわと弾け、ひんやり潮の香りが立ち昇ってくる。それが無性に懐かしい。砂浜に上がって休んでいるうち、いつの間にか冷たい水が恋しくなっていた。

 水平線に向かって歩き出すと、真帆が言っていた通り、最初に海に入ったときよりも波のサイズが上がっていた。今日の潮回りは忘れてしまったが、上げてくる水の量は多いようで、波のサイズ変化が顕著だ。

 腹くらいの深さのところで、全員足を止めた。向かってきた波に身を委ねて、久しぶりの浮遊感を味わう。中型のボラが少し沖合で飛び跳ねている。ビッタンビッタン水面に激しく体に打ち付けて、脳震盪にならないのだろうか。ボラを指さした松浦が、さっきの岡崎みたいだな、と言ってみんなを笑わせた。

 何度か波を乗り越えたあと、少し高度なことをしてみたくなって、「気をつけ」 の姿勢で波の前に立ってみた。岡崎は波に体当たりして裏側に抜けたが、真一はむしろ極力動きを排して、静かに波をすり抜けようと思う。

 だが、実際にやってみると、なかなかうまくいかない。漫然と突っ立ったままだと、波の力で体が浮き上がってしまう。かといって無理に突っ込めば、体当たりになってしまう。

「後ろ向きになったほうがいいんじゃないですか」

 西脇が助言をくれた。そのほうが踏ん張りが利くという。

 言われた通り、波に対して後ろ向きに立ってみる。すると確かに、波の力を相殺しやすかった。

 一度目は中途半端な形になってしまったが、二度目はどうか。監視塔とレスキューボードが見える砂浜と向き合い、首だけ後ろに回して次の波を待つ。真後ろに波が迫ったところで、両腕をハの字に広げて、静かに後方に倒れ込んだ。水の壁に体を押し込むように。波と合体するイメージで。

「フェードイン!」

 突然、西脇が叫んだ。

「な、何だって!?

 驚いた真一は、バランスを崩してしまう。

「わぷっ」

 背後から盛り上がった波の斜面に、顔が呑み込まれる。とっさに腰を落として、波と一緒に倒れ込むことは回避できたが、技は失敗に終わった。

「何だよ、いきなり……」

 渋面を作って振り返ったら、逆光の中で西脇が笑っていた。

「似てるでしょ、ライディーンに」

 といっても、何のことだかわからない。しかし、子供の頃見てませんでした?、と訊かれると、昭和のロボットアニメだと気づいた。ガンダムより古いアニメだ。真一は再放送を見ていた。「フェードイン」 とは、主人公のひびき洸がライディーンに乗り込む動作のこと。西脇は水の壁をすり抜けることを、ライディーンの搭乗シーンになぞらえたのだろう。

「あ、また来ましたよ」

 沖合に新たな波が見えた。波に背を向けた西脇が軽く両腕を広げ、真一も隣で同じ姿勢を取る。

「フェードイン!」
「フェードイン!」

 しかし、今度もうまくいかなかった。声が重なったことに吹き出して、体勢が崩れてしまったからだ。波をすり抜けることができても、不格好な姿勢では、成功したとは言い難い。

 二人でゲラゲラ笑っていたら、興味を持ったらしい仲間たちが集まってきた。
 技について真一が説明すると、早速、益田が挑戦する。

「フェード……」
「ちょい待った」

 西脇が右手を突き出して待ったをかけた。

「なっ」

 バランスを崩した益田は、危うく波に呑まれそうになったが、砂底を蹴って何とか乗り越える。

 西脇は新しい技を思いついたらしい。題して、「滝行」。

 「滝行」 は、波に背を向けてすり抜けるところは 「フェードイン」 と同じだが、胸の前で手を合わせる点が違う。発声の仕方も 「滝行!」。構えがある分、「フェードイン」 よりも見栄えがするはずだと西脇は言う。

 見栄え云々はともかく、難しい技ではなさそうだったので、やりたい人間がチャレンジすることになった。

 しかし、まずは技の開発者が手本を、ということで、西脇が沖へ向かう。

 沖合にうねりが見えた。影色の一本線。遠目にわかりづらいが、かなり大きい波だ。やはり上げ潮が影響しているのか。真一は周りの連中と顔を見合わせて、気を引き締める。

 西脇はちらちらと波を振り返りながら、立ち位置を探している。
 やがて、その足が止まった。
 真一たちと向き合って、行者みたいに手を合わせる。

「滝行!」

 だが、わずかに目測を誤っていた。波は西脇のすぐ後ろで倒れ、爆発した水の塊が無防備な背中を突き飛ばした。胸の前で合わせていた手が左右に弾け飛び、うつ伏せになった体が白波の下に引きずり込まれる。真一たちの目に映ったのは、スクラップ工場のローラーがマネキンを押し潰すかのような、無慈悲な光景。

「まったく、言い出しっぺが何てザマだ」

 海上が落ち着くと、松浦が、ふん、と鼻を鳴らして西脇の前に出た。波の力はことのほか強く、十分距離を取ったつもりの真一たちでさえ、パワフルな白波に躍らされた。西脇については、言及するまでもない。たった今、三途の川を見てきたような顔でむせ返り、でっかい鼻ちょうちんまで膨らませている。

「だいたいなあ、前を向くのが早すぎるんだよ。最後まで波を見てなきゃ、どこで波が倒れるかわかんねえだろ」

 偉そうに講釈を垂れた松浦は、俺が手本を見せてやるよ、と沖へ向かい出した。

 海が好きで、夏といえば海水浴という松浦には、夏限定のあだ名がある。海番長――その名に恥じず、フラフラになった西脇を見ても、少しも動じたところはない。悠然と歩く背中には、自信がみなぎり、頼もしい限り。

 間近に迫った波を、軽く跳ねてやり過ごす。小さい波は、もとより眼中にない。番長は番長らしく、大波に挑戦すべきなのだ。

 もっとも、大きい波は頻繁にはやって来ない。今しがた一本訪れたばかりだから、次の大波が来るまで、ある程度時間が空くはずだ。

 真一もジャンプして波を乗り越える。砂底に足が着くと、目の前に真っ平らな青海原が広がった。水天一碧。形あるものは、水平線上に浮かんだいくつかの小さな入道雲だけ。ほかに感じ取れるものといえば、穏やかな潮風と、背後に遠ざかっていく波の音くらい。

 深呼吸して、銀色の輝きを散りばめる海面に目を瞠る。海の色は一色ではない。少し沖合に色の境目がある。手前側の水の色は青緑、奥に広がる広大な青は真正の青だ。前者は人間の領域、後者は魚たちの楽園。浦島太郎の龍宮も、真正の青の彼方にある。

 やがて、その境目あたりに、新たなうねりが入ってきた。
 黒々とした一本線。今までにない長大な波影。

「おい」

 沖合を見つめたまま、真一は岡崎に声をかける。

「はい。デカいっすね」

 波の両端は視界に収まり切らず、まるで万里の長城を見晴るかしているかのよう。

 海水浴場のエリア外で波待ちしていたサーファーたちが、ヒューヒューと声を裏返しながら沖へ向かっていく。波のサイズが上がって、いつの間にかサーファーの数が増えていた。海水浴場のすぐ隣にも五、六人の集団がいる。

 ザザーッ、と音を立てながら波頭が崩れ始める。もやもやした白波が、緩やかな波の斜面を雪崩のように駆け下る。やがて白波は収縮して消えたが、波の本体は残って、手前に近づくにつれ勢いを盛り返してくる。

「少し下がったほうがいいな」

 ここにいたら危険だ。真一は周りに声をかけ、波打ち際のほうへ戻ることにした。

 適当な場所で足を止めて振り返ると、松浦が背後を気にしながら立ち位置を調整していた。

 波の斜面が鋭角に立ち上がる。巨大な空洞が影の色を深め、波はかつてないほど凄味を利かせて松浦の真後ろに迫った。

 松浦はもう振り向かない。浅瀬側で見守る真一たちと向き合い、よく見てろ、と視線を送って胸の前で手を合わせる。

「滝行!」

 発声も決まった。ここまでは完璧。技は成功するかに思われた。

 だが、直後、ワイドに広がった水の壁が松浦をぺしゃんこに押し潰した。

 もうもうと潮煙を噴き上げる波の背が、頼りない木像のような人影をすっぽり呑み込む様子を、真一たちは確かに見た。

 大・失・敗

 それはもう、見た瞬間にわかった。

 松浦は何を間違えたわけではない。立ち位置もフォームもバッチリだった。だが、小細工など通用しない圧倒的なパワーが、果敢な挑戦者をねじ伏せたのだった。もはや、テクニック云々の話ではなかったのだ。

 ドゴォーン!

 荒々しい波の咆哮が轟く。

 沸騰する白波の中に、松浦の姿は見えない。海番長は海の藻屑と化した。
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