第18話 彼の隠したもの
文字数 3,819文字
駒場が住んでいた団地の入口でタクシーを降りる。佳代は原付バイクの事故で擦りむいた肘がやけに痛いと感じていた。川畑が暴力的な行動に出ていないことを祈りながら佳代は痛む肘を抑えた。
既に辺りは暗くなっていて、住民たちが夕飯の用意をしているのだろうおいしそうな匂いがどこからか漂っていた。
佳代は構わず駒場の部屋へと早足で向かう。駒場の部屋がある棟に着くとまっすぐに階段を上がった。そして部屋の前でインターホンを押そうとすると中からガラスが割れる音と共に女性の悲鳴が聞こえた。
「やめなさい!」
佳代はインターホンの反応を待たずに中に入った。鍵はかかっておらず、玄関には男子の大きな靴が並んでいた。
廊下を走りダイニングに入った佳代は床にしゃがんでいる小太りの真中とまず目が合った。その隣で、駒場の母親と真中が割れたグラスを片付けようとしていて、どうやらジュースを入れたグラスを落としたようだった。小ぢんまりとしたダイニングを埋め尽くす男子生徒数名が佳代を怪訝に見つめる。
「危ない目には?」
佳代は駒場の母親に尋ねた。母親はいいえと不思議そうにした。
「この子たち、息子の供養にいらっしゃったんです。ちょうど息子の亡骸が警察から戻ってきたところだったので……手を合わせてもらったところで飲み物を。そうしたら彼が少し手をすべらせて」
「佳代さんの早とちりだよ」
美優が佳代の背後から声をかけ、男子生徒たちに愛想笑いを送った。男子生徒たちは呆れた表情で佳代を見て、コソコソ耳打ちあう者もいた。
しかしその間も佳代は冷静に観察していた。ダイニングには、真中たち男子生徒がいたが肝心の川畑はいないのだった。
佳代は耳を澄まし、何かを感じ取って廊下手前の部屋を指差す。
「お母さま、あちらのお部屋は?」
「息子の部屋です」
「入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ。でもあの日からずっとそのままにしていて……掃除もできていないので」
「構いません」
佳代はそう言って次の瞬間には部屋の前まで行き扉を開けていた。暗い部屋の中で物音がして、人影が動いた。
「川畑君ね、何をしているの?」
大きな鞄を肩にかけた川畑が立っていたが、直前までの動作を慌てて止めた様子がうかがい知れた。
「別に……駒場を想い出していただけですよ。ここで彼が勉強していたんだなぁって。なにせ僕は比較的親しくさせてもらっていたので」
川畑はそう言いながら、佳代の側をすり抜けて玄関へと進んだ。
「塾の時間があるので失礼します。突然お邪魔してすみませんでした」
川畑ははきはきと挨拶し、他の生徒たちに合図をする。他の生徒たちも頭を下げ、駒場の母が礼をするのも待たず、一斉に出て行った。
佳代は川畑がいた部屋の灯りをつけた。駒場の母親と美優もやってきて部屋を覗き込んだ。
「あの子はその机で勉強していました。毎日遅くまで熱心に……」
駒場の母親は目頭を押さえ言った。美優もつられて在りし日の駒場を想い出したようで俯いた。
「その棚の三段目、ちょうど机に座って手がとどくあたりです。何かが抜き取られている気がするんですけど。ここにあったものを覚えていらっしゃいます?」
佳代は棚に近づき静かに触れた。参考書やファイルが整然と並ぶ書棚のちょうど中央に埃が舞っている。
「参考書……いえ、確かそこには分厚いファイルが入っていました。高校に入ってからの試験の問題や回答を綴ったもので、息子は先生から教わったとおり間違えた問題を繰り返しやり直すことを大事にしていて、よくそのファイルを開いて机に向かっていました」
駒場の母親は机の側まで来て、思い返しながら話した。
「川畑君が持って行ってしまったのだと思います。さっき扉を開けたとき、ちょうどこのあたりに背を向けた彼がいて、慌てて正面を向き直した様子でした」
「息子のファイルをですか? 何のために?」
「分かりません……けれど、多分、知られては困ることがそこにあったんだと思います。お母さま、川畑君と駒場君の亡くなった日のことを話しましたか?」
「ええ。私が尋ねたんです。息子と会っていたのではないかって。川畑君だけじゃなく他の子たちの目も見て尋ねました。だけど誰も会っていないって。それぞれが自宅で勉強していたと」
「……信じられますか?」
佳代は一呼吸おいてから駒場の母親に聞いた。駒場の母親は佳代を見つめたまま黙る。
「相手が子どもだからとか、受験生だからとかは抜きにして、彼らが息子さんと会っていなかったとお母さまは本当に思いますか?」
佳代は付け加えて聞いた。母親はそれでも悩んでいる様子を見せ、ようやく話し始める。
「信じたいと思いました。とても礼儀正しくて、しっかりした子たちです。なので、責める気持ちは薄れています。ただ、そうは言っても……私は母親として息子が川に一人で入ったとはやっぱり思えないのも確かです」
「とても利発な子たちです。だから大人を欺くこともできてしまう。知識は一人前でも、感情や思考それに経験が未成熟だから……一見理知的であっても短絡的な行動にでてしまったんだろうと私は考えています。ここにあったファイルも……ジュースの入ったグラスが落ちる直前、川畑君はダイニングにいませんでしたか? そしてグラスが割れた後、いなくなった。きっとグラスを落としたのはわざとです。その隙に川畑君はひとりこの部屋に入って、ファイルを盗っていった」
「そう言われると確かに川畑君も一緒にジュースを飲もうとしていた記憶があります。いつのまに息子の部屋に行ったのか、私は気が付きませんでした」
「美優ちゃん、試験問題とか回答とかって大事なもの? 川畑君が持って行く理由が思い当たらない?」
佳代は静かに立っていた美優に尋ねる。美優は驚いた表情で後ずさった。
「分かんない。私はすぐ捨てちゃうから……だから成績あがらないのかな」
美優は苦笑いで答えた。佳代は机のあたりを見渡しながら頷く。
「私も捨てちゃう。あ、でも思ったより良くできた答案用紙は記念にとってる……だとしても他人のはいらないよね。川畑君はどうして持って行ったんだろう。きっと、そこに彼にとってとっても都合の悪いものがある筈。せっかく決まった推薦入学が取り消されてしまうくらいのものが」
「川畑君は推薦で大学に?」
母親が知らなかったようで聞いた。
「そうらしいです。彼のお父さんと同じ学校だと」
「実は息子も二年生くらいのときに一度考えていたんです。息子はコツコツ努力するタイプで、一年生のときから学校の試験の点数がよかったものですから推薦もできると先生から言われていました。でも私立大学しか推薦の口がなくて、私の稼ぎだけではお金の余裕があまりなく……息子に諦めてもらったんです」
「駒場君なら、ここにあったファイルに閉じられていた答案用紙はどれも高得点だったんですね。九十点以上の答案用紙はちょっと見てみたいかもしれない。冗談です」
佳代は笑顔で言いながら、いずれにしても川畑がそのファイルを持ち帰る理由がさっぱり分からずにいた。
「そうだ、一回分だけ、あるんです。息子が亡くなった日に持っていた鞄に入っていたものです。昨日ようやく警察が鞄を返してくれて……鞄は川に流されてボロボロでしたけど、口を閉じられるクリアフォルダに入っていたので綺麗なままでした」
駒場の母親はそう言うとリビングから取ってきて佳代に見せた。
佳代は、九十五点の答案用紙とその回の問題用紙を、自身は四十点だったと笑いながら確認する。綺麗な文字で丁寧に書かれた答案用紙に佳代も読んだ記憶のある問題。一見すると不自然なところはなかったが、問題用紙をめくっていくと、最終ページが四角く広範囲に破れているのに気が付いた。
「この破れたところは、鞄に入っていませんでしたか?」
佳代は聞いた。問題用紙もきっちりクリアフォルダに収められていたようで折り目や回答記載の整然さから比べ破れている事実が奇妙であったし、破られかたが定規を押し当てたと想像できるほどに綺麗であり、つまり意図を持って破ったのだと感じさせる点も違和感を覚えさせた。
「いえ。クリアフォルダにもなかったです」
「何が書かれている場所だったんだろう。美優ちゃん、分かる?」
佳代は美優に破れた個所を見せる。美優は手に取り裏表を確認する。
「白紙の場所だから……計算用紙に使ったのかな」
「でも国語の試験だよ」
「あ……ならメモみたいな」
美優が恥ずかしそうに言うのを佳代はなるほどと思いつつ、破って捨ててしまう必要があるとは思えなかった。
「警察から戻ってきたのが昨日って仰いましたよね。もしかしたら警察が破ったのかしら。担当の刑事はもしかして朝比奈さん?」
「そうです。朝比奈さん。よくご存じですね」
駒場の母親は驚いて答える。
「いいひとなんでしょうけど、今回の件の対応は良くない」
佳代はため息混じりに言うと、母親も頷いた。
「何度も息子の遺体を戻して欲しいとお願いしていたのにずっとけむに巻かれていて……最初は調べるべきことがあるという話でしたが、調べている様子はなく、昨日も新しく分かったことがあるか尋ねましたが、無言でした」
「変ですね。朝比奈さんも何か隠している気がします」
佳代はそう言って、駒場の自宅を後にした。川畑が奪っていったファイル、破り取られた問題用紙。いずれも明確に何かを示してはいなかったが佳代の疑念を強め、真相を明らかにしてみせると思わせるには十分だった。
既に辺りは暗くなっていて、住民たちが夕飯の用意をしているのだろうおいしそうな匂いがどこからか漂っていた。
佳代は構わず駒場の部屋へと早足で向かう。駒場の部屋がある棟に着くとまっすぐに階段を上がった。そして部屋の前でインターホンを押そうとすると中からガラスが割れる音と共に女性の悲鳴が聞こえた。
「やめなさい!」
佳代はインターホンの反応を待たずに中に入った。鍵はかかっておらず、玄関には男子の大きな靴が並んでいた。
廊下を走りダイニングに入った佳代は床にしゃがんでいる小太りの真中とまず目が合った。その隣で、駒場の母親と真中が割れたグラスを片付けようとしていて、どうやらジュースを入れたグラスを落としたようだった。小ぢんまりとしたダイニングを埋め尽くす男子生徒数名が佳代を怪訝に見つめる。
「危ない目には?」
佳代は駒場の母親に尋ねた。母親はいいえと不思議そうにした。
「この子たち、息子の供養にいらっしゃったんです。ちょうど息子の亡骸が警察から戻ってきたところだったので……手を合わせてもらったところで飲み物を。そうしたら彼が少し手をすべらせて」
「佳代さんの早とちりだよ」
美優が佳代の背後から声をかけ、男子生徒たちに愛想笑いを送った。男子生徒たちは呆れた表情で佳代を見て、コソコソ耳打ちあう者もいた。
しかしその間も佳代は冷静に観察していた。ダイニングには、真中たち男子生徒がいたが肝心の川畑はいないのだった。
佳代は耳を澄まし、何かを感じ取って廊下手前の部屋を指差す。
「お母さま、あちらのお部屋は?」
「息子の部屋です」
「入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ。でもあの日からずっとそのままにしていて……掃除もできていないので」
「構いません」
佳代はそう言って次の瞬間には部屋の前まで行き扉を開けていた。暗い部屋の中で物音がして、人影が動いた。
「川畑君ね、何をしているの?」
大きな鞄を肩にかけた川畑が立っていたが、直前までの動作を慌てて止めた様子がうかがい知れた。
「別に……駒場を想い出していただけですよ。ここで彼が勉強していたんだなぁって。なにせ僕は比較的親しくさせてもらっていたので」
川畑はそう言いながら、佳代の側をすり抜けて玄関へと進んだ。
「塾の時間があるので失礼します。突然お邪魔してすみませんでした」
川畑ははきはきと挨拶し、他の生徒たちに合図をする。他の生徒たちも頭を下げ、駒場の母が礼をするのも待たず、一斉に出て行った。
佳代は川畑がいた部屋の灯りをつけた。駒場の母親と美優もやってきて部屋を覗き込んだ。
「あの子はその机で勉強していました。毎日遅くまで熱心に……」
駒場の母親は目頭を押さえ言った。美優もつられて在りし日の駒場を想い出したようで俯いた。
「その棚の三段目、ちょうど机に座って手がとどくあたりです。何かが抜き取られている気がするんですけど。ここにあったものを覚えていらっしゃいます?」
佳代は棚に近づき静かに触れた。参考書やファイルが整然と並ぶ書棚のちょうど中央に埃が舞っている。
「参考書……いえ、確かそこには分厚いファイルが入っていました。高校に入ってからの試験の問題や回答を綴ったもので、息子は先生から教わったとおり間違えた問題を繰り返しやり直すことを大事にしていて、よくそのファイルを開いて机に向かっていました」
駒場の母親は机の側まで来て、思い返しながら話した。
「川畑君が持って行ってしまったのだと思います。さっき扉を開けたとき、ちょうどこのあたりに背を向けた彼がいて、慌てて正面を向き直した様子でした」
「息子のファイルをですか? 何のために?」
「分かりません……けれど、多分、知られては困ることがそこにあったんだと思います。お母さま、川畑君と駒場君の亡くなった日のことを話しましたか?」
「ええ。私が尋ねたんです。息子と会っていたのではないかって。川畑君だけじゃなく他の子たちの目も見て尋ねました。だけど誰も会っていないって。それぞれが自宅で勉強していたと」
「……信じられますか?」
佳代は一呼吸おいてから駒場の母親に聞いた。駒場の母親は佳代を見つめたまま黙る。
「相手が子どもだからとか、受験生だからとかは抜きにして、彼らが息子さんと会っていなかったとお母さまは本当に思いますか?」
佳代は付け加えて聞いた。母親はそれでも悩んでいる様子を見せ、ようやく話し始める。
「信じたいと思いました。とても礼儀正しくて、しっかりした子たちです。なので、責める気持ちは薄れています。ただ、そうは言っても……私は母親として息子が川に一人で入ったとはやっぱり思えないのも確かです」
「とても利発な子たちです。だから大人を欺くこともできてしまう。知識は一人前でも、感情や思考それに経験が未成熟だから……一見理知的であっても短絡的な行動にでてしまったんだろうと私は考えています。ここにあったファイルも……ジュースの入ったグラスが落ちる直前、川畑君はダイニングにいませんでしたか? そしてグラスが割れた後、いなくなった。きっとグラスを落としたのはわざとです。その隙に川畑君はひとりこの部屋に入って、ファイルを盗っていった」
「そう言われると確かに川畑君も一緒にジュースを飲もうとしていた記憶があります。いつのまに息子の部屋に行ったのか、私は気が付きませんでした」
「美優ちゃん、試験問題とか回答とかって大事なもの? 川畑君が持って行く理由が思い当たらない?」
佳代は静かに立っていた美優に尋ねる。美優は驚いた表情で後ずさった。
「分かんない。私はすぐ捨てちゃうから……だから成績あがらないのかな」
美優は苦笑いで答えた。佳代は机のあたりを見渡しながら頷く。
「私も捨てちゃう。あ、でも思ったより良くできた答案用紙は記念にとってる……だとしても他人のはいらないよね。川畑君はどうして持って行ったんだろう。きっと、そこに彼にとってとっても都合の悪いものがある筈。せっかく決まった推薦入学が取り消されてしまうくらいのものが」
「川畑君は推薦で大学に?」
母親が知らなかったようで聞いた。
「そうらしいです。彼のお父さんと同じ学校だと」
「実は息子も二年生くらいのときに一度考えていたんです。息子はコツコツ努力するタイプで、一年生のときから学校の試験の点数がよかったものですから推薦もできると先生から言われていました。でも私立大学しか推薦の口がなくて、私の稼ぎだけではお金の余裕があまりなく……息子に諦めてもらったんです」
「駒場君なら、ここにあったファイルに閉じられていた答案用紙はどれも高得点だったんですね。九十点以上の答案用紙はちょっと見てみたいかもしれない。冗談です」
佳代は笑顔で言いながら、いずれにしても川畑がそのファイルを持ち帰る理由がさっぱり分からずにいた。
「そうだ、一回分だけ、あるんです。息子が亡くなった日に持っていた鞄に入っていたものです。昨日ようやく警察が鞄を返してくれて……鞄は川に流されてボロボロでしたけど、口を閉じられるクリアフォルダに入っていたので綺麗なままでした」
駒場の母親はそう言うとリビングから取ってきて佳代に見せた。
佳代は、九十五点の答案用紙とその回の問題用紙を、自身は四十点だったと笑いながら確認する。綺麗な文字で丁寧に書かれた答案用紙に佳代も読んだ記憶のある問題。一見すると不自然なところはなかったが、問題用紙をめくっていくと、最終ページが四角く広範囲に破れているのに気が付いた。
「この破れたところは、鞄に入っていませんでしたか?」
佳代は聞いた。問題用紙もきっちりクリアフォルダに収められていたようで折り目や回答記載の整然さから比べ破れている事実が奇妙であったし、破られかたが定規を押し当てたと想像できるほどに綺麗であり、つまり意図を持って破ったのだと感じさせる点も違和感を覚えさせた。
「いえ。クリアフォルダにもなかったです」
「何が書かれている場所だったんだろう。美優ちゃん、分かる?」
佳代は美優に破れた個所を見せる。美優は手に取り裏表を確認する。
「白紙の場所だから……計算用紙に使ったのかな」
「でも国語の試験だよ」
「あ……ならメモみたいな」
美優が恥ずかしそうに言うのを佳代はなるほどと思いつつ、破って捨ててしまう必要があるとは思えなかった。
「警察から戻ってきたのが昨日って仰いましたよね。もしかしたら警察が破ったのかしら。担当の刑事はもしかして朝比奈さん?」
「そうです。朝比奈さん。よくご存じですね」
駒場の母親は驚いて答える。
「いいひとなんでしょうけど、今回の件の対応は良くない」
佳代はため息混じりに言うと、母親も頷いた。
「何度も息子の遺体を戻して欲しいとお願いしていたのにずっとけむに巻かれていて……最初は調べるべきことがあるという話でしたが、調べている様子はなく、昨日も新しく分かったことがあるか尋ねましたが、無言でした」
「変ですね。朝比奈さんも何か隠している気がします」
佳代はそう言って、駒場の自宅を後にした。川畑が奪っていったファイル、破り取られた問題用紙。いずれも明確に何かを示してはいなかったが佳代の疑念を強め、真相を明らかにしてみせると思わせるには十分だった。