第1話 経済の独立による早期退職

文字数 1,990文字

「君は、少し前に話題になったFireを知っているかな?」

探偵事務所の所長である酒巻は、バーの端っこに座り語っていた。酒巻の隣の席に座り、耳を傾けていたのは、若い女性。探偵の仕事に興味があるというその若い女性に、酒巻は事務所が手掛けた事件を一つ披露しようとしていた。

「炎? それともどこかのブランド?」

「Fireというのは、Financial Independenc Retire Earlyの略でね。十分なお金を稼いで、早期に社会人を引退することだよ。ここ十年程度、世界はかなり好景気だったんだけれど、その恩恵を受けた経営者や投資家の間で、六十歳や七十歳を待たずに隠居することが流行ったんだ」

「羨ましい。もしかして、探偵のお仕事もそんなふうに儲かるってこと?」

「いや、探偵業も競争が激しくてね、そう楽ではない。……君は、Fireできるほどの大金を突然手にしたなら、つまり一生食べるのに困らない額だが、どうする? 何に使う?」

「美味しいものを食べて、欲しかった服やバッグを買って、もちろん貯金をするかも」

「仕事は、続けるかね?」

「すぐ辞表を書くわ」

「そうだろう。常識的な発想だ。贅沢をするのもいいし、やりたいことが溢れてきて中々決められないかもしれな。もちろん休息を存分に取るのもいいが、逆に何も思いつかず、根っからの貧乏性が顔を出し、働かなければどうにも落ち着かないと無理のない範囲で働いたりする者もいるだろう。一方、彼女は、その名前を高田佳代というのだが、四十二歳になったばかりの彼女がどうしたと思う?」

「……ヒントはないの?」

「彼女は金銭的に恵まれた生い立ちではなかった」

「だったらやっぱり贅沢をしたんじゃないかしら。世界一周とか、最近だと宇宙旅行とかかもしれない」

「残念。少々違うんだ。彼女は若いときの後悔を取り戻そうとしたんだ」

「後悔? 片思いだった人にもう一度告白したとか?」

「高田佳代は高校に入学することを望んだ」

「高校? 四十歳にもなって?」

「それが彼女の替えがたい選択だったんだ。そして彼女は――」

話の続きを語ろうとする酒巻を女性が止めた。

「待って、分かった。その高田佳代さんが、犯人なのね? きっと、その高校に入学したのは積年の恨みを晴らすため」

若い女性が前のめりに言い終わると、酒巻はグラスから酒を少々飲んだ。

「高田佳代は犯人じゃない。だいたい彼女が高校入学を望んだのはとても真っ当な理由からなんだ」

「そんな年で高校に入り直すなんて普通だとは思えないけど」

「彼女がそうしたのは……彼女が高校を中退していたことに関係がある。ちょうど彼女が高校三年生になる直前だったが、元々体の弱かった母親が倒れ、身体に不自由が出てしまった。その数年前に父は浮気の末に家をでていたから、母娘二人だけの暮らしで、健在だった祖母が手伝いに来てはくれたが金銭的に苦しかった。そこで高田佳代は生きるため、スーパーのレジ係をパートで始めた」

「それで高校を辞めたのね……卒業直前まで頑張って……気の毒」

「しかし高田佳代は前向きだったよ。それまで働いた経験がなく慣れないうちはよく叱られたが、粘り強く働き、すぐうまくできるようになった。決して高い給料ではなかったが、切り詰めた生活費から貯金もした」

「堅実な人、なのね」

「あまり物欲がないタイプなのかもしれない。君たちが注目するアクセサリーや服、バッグには目もくれず通り過ぎてしまう。贅沢もせず、コツコツ貯めていればちょとした額になるものだが、使い道がなかった。そんなあるとき、とある同僚から、資金に余裕があるなら試してみないかと勧めら、気が付いたら随分通っていた」

「それ怖くない? 私も一度怪しい勧誘を大学の友人からされて……あとから知ったのは、その話は詐欺集団が後ろに控えていたんだって」

「当然投資なのだから損をする者もいるが、高田佳代は、本人が意識をしてはいないのであるが、物事を鋭く見分ける目を持っていたようだ。狙いをつけた銘柄が、暫くすると驚くほど値上がりし、だいたい買ったときの五十倍くらいになった」

「あ、それって、Fireね!」

「そうだ。しかしそうなってみると、ずっと後悔していた過去を取り戻したくなった。高校二年生の時、中退なんてしたくなかった。もちろん母親を助けるためだと納得してはいたし、文句も言わなかったが、町行く高校生を目にするたびに寂しい気持ちが押し寄せた。そうして思い立った彼女は手当たり次第に高校を訪ねてまわった。殆どの高校からはやんわりであったが断られ、ようやく受け入れてくれたのは意外にも進学校だった。民間出身者を校長に迎えていたその高校は、佳代の人生経験が勉強一筋の生徒達の息抜きになるだろうと考え、教師たちの仕事が増え生徒たちの邪魔にしかならないという反対を押し切り、受験を控える三年生のクラスに迎えたんだ」
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