第26話 パトカー登校

文字数 4,151文字

佳代は深く眠っていたのに突然覚醒した。気づいたら手足を激しくかいていて、目を開くのと同時くらいに顔に水分を感じていた。座っていた椅子から転がり落ちたようで、天井が見えている。

役所の一室の机に座ったまま眠ってしまった佳代を起こしたのは、朝比奈だった。何度か声をかけ揺すってもみたらしいが起きる気配がなく、朝食のサンドイッチと共に持ち込んだペットボトルの水を佳代に振りかけたのだった。

「夜なんだから眠ってもいいじゃないですか」

佳代は水を飲み込んだ訳ではなかったがむせ返しながら言った。朝比奈はやりすぎたかという表情で佳代の体を起こす。

「調査が済まないうちに眠って頂く訳にはいかないんです」

朝比奈はそう説明した。佳代はふらつきながら椅子にまた座った。背中側にある小窓から光が差し込んでいて朝になっていることが分かった。

「佳代さんも食べます?」

朝比奈は手をつけていない卵サンドを佳代に差し出す。佳代はまだ呼吸が荒いままで首を横に振った。

「まだ心臓が早いんだから……どこか水の中に落ちて、溺れてしまったかと思った」

「さすがに大げさですよ。水だってちょっぴりかけただけなんです」

「ちょうど駒場君の夢を見ていて、学校で水泳の時間だった。彼はすごく上手に泳いだけれど私はかなづちだからプールを歩いていて……ちょうどそのときにあなたが水をかけたのよ」

「ここはコンクリートの部屋ですから大丈夫です」

朝比奈は面倒くさそうに言ったが、佳代は駒場が川で溺れてしまったのを想い出していた。

「彼はもっと苦しかったのよね。私はそのペットボトルの水でも椅子から転げ落ちるくらいだったのだから、本物の川の中だとしたら……」

「どうでしょうか。あまりもがいた形跡がなかったので……意外にあっさりと」

朝比奈はするりとそれを言ったが、佳代は引っかかった。

「もがかないなんて無理だと思う。とってもびっくりして、苦しいんだから」

「実際あるんですよ。静かに溺れるって言って、子どもなんかだと、水が肺に入ってしまって声が出せなくなったことで大きく暴れることもなく静かに沈んでいくという例が最近注目されていますし、大人でも眠っていてでそのまま溺れてしまうなんてこともあるんです」

「駒場君がそうだって言うんですか? 私はぐっすり眠っていても目覚めましたよ」

「ただの例えです。言いたかったのは、眠っているのとは訳が違って、泥酔によるものとか、病気や薬物によるものだとかです」

「薬? そういえば睡眠薬が――」

佳代が川畑の持っていた睡眠薬を想い出し言ったところを朝比奈は制止した。

「高田佳代さん、雑談はもういいでしょう」

「でも、大事なことだと思います。川畑君が持っていた睡眠薬。もしかしたら駒場君が溺れたことに関係があるのかもしれなくて」

「今、ここにいるのはインサイダーの疑いに関してですから。どうです、もう認めませんか? 早く解放されたいでしょう? まあ、そろそろ決定的な証拠を持って戻ってくるんじゃないかと思いますが」

朝比奈がそう言って振り向いたタイミングで、扉が外から開かれ、石渡が入ってくる。

「ご自宅にあったパソコンを調べさせてもらいました」

石渡は佳代に言って、満足そうに朝比奈に目配せした。

「私のパソコン? どこにあったかしら」

「リビングの棚に入っていたものです」

「あぁ。パソコン。グレーの薄っぺらい」

「ええ。あなたのものでしょう?」

「はい」

「今回の証拠となるデータが保存されているのを発見しました。インサイダー情報を記載したメモと、株を売買した際の収支予測などいくらかデータもありました。もう言い逃れはできませんよ」

「覚えがありませんけれど」

佳代は石渡の言っていることにさっぱり実感がなく、戸惑っていた。眠さのあまりちゃんと話が聞けていないのだろうかと佳代は思ってもいた。

「起訴にもっていけますかね?」

朝比奈が石渡に尋ねた。

「十分でしょう」

「高田佳代さん、こうなれば罪を認めておいたほうが良いですよ。検察官というのはプライドが高いんです。やってしまったことを悔い、反省している姿勢を見せれば、事実確認はともかく、求刑には佳代さんのお立場とかご事情とかも考慮してもらえることも多いですから」

佳代は検察の役割がよく分からなかったが、どうやら追い詰められてしまったのだと感じていた。何が証拠になってしまったのかはさっぱり分からない。しかし株式でもそうであるけれど、悪くなったら訳が分からない損失を抱え、気付けば手の施しようがなくっているものだ。

損失を最小限にするためには早めに手を引くこと。魚売り場の田所に教わったことを思い出す。株価が下がり始めていても、また上がるはずだ、一時的に不利になっているだけだと我慢しているうちにただ値段は下がっていく。だから早めに見切って損をしてでも売り抜ける必要があるのだが、本件に関してはどこで形勢が不利に傾いてしまっていたのか、佳代は正しいことをしているという信念があって、まさかそう悪い状態になっているとは思っていなかった。

まだまだ未熟なんだろうな、佳代は思った。世間は広くて複雑だ。そうも思ってがっかりした。

黙っている佳代の目の前で、石渡と朝比奈が一件落着だと談笑を始め出す。そのとき、部屋の入り口がノックされた。応対した石渡に職員が外から耳打ちをしている後ろから押しのけて女性が入ってくる。

「佳代さん!」

と呼ぶその声は英子のものだった。

「部外者は入らないで!」

朝比奈が叫んで制止しようとしたが、英子は睨みつけた。

「田所さんに全部聞いてきました。あなたたちのやっていることは違法ですよ。佳代さんを今すぐに自由にしないと、訴えますから」

英子は強引に部屋に入りながら言った。佳代は英子の顔を見て、腰の痛みを忘れて立ち上がる。

「英子さん、もう私、眠くて、腰痛もひどくて」

「もう大丈夫。田所さんが弁護士の先生を手配してくれようとしているから」

朝比奈と石渡は強引に排除しようとしていたが、弁護士と聞いて躊躇する。

「ほら、佳代さん行こう。ごめんね、遅くなって」

英子は佳代の手を引きながら、ノートの小さな端切れを見せた。そこには佳代の筆跡で、“スーパーの英子さんに相談して”と書かれていた。それは佳代が美優と別れる際、手渡したものだった。

「美優ちゃんが行ってくれたんだ」

「さっき制服姿で、開店前のスーパーに来てくれた。泣きながら来たんだよ。一晩中泣いていたのかもしれない。かわいい顔なのにすっかり瞼が腫れてて。ごめんなさい、ごめんなさい、って何度も謝って」

「今は学校に?」

「うん。ついていくって言ったけど、勉強しなさいって伝えた。佳代さんならそう言うだろうと思って」

「私も学校にいかなきゃ」

佳代はその端切れを手に言った。

「待ってください。勝手なことは困ります。高田佳代さんの疑いを裏付ける証拠もあったんですから」

石渡は出て行こうとする英子を遮って止めた。

「証拠って何です? ある訳ないですよ、そんなの。だいたいどうしてスーパーのレジ打ち担当が商品納入企業の経営情報を手に入れるんだって。もしそれを営業担当が話していたのだとしたら、それはそう重要な情報じゃないだろうって。田所さんが言っていました」

「パソコンにデータやメモが保存されていました。インサイダー情報を元に株式を売買するためのものです。明確な証拠となります」

「パソコン?」

英子はびっくりしたように言って佳代を見た。

「佳代さん、パソコンって一緒に買いに行ったあれのこと?」

「そう。薄いパソコン」

英子は怒りを抑えながら石渡を見た。

「なら違いますよ。佳代さんはパソコンなんて使いこなせていない。時代も時代だからって一緒に買いに行きましたけど、佳代さん、勝手から何回使ったのか。もしかしたら一回も開いていないかもしれない。電源の入れ方も分からなくて、ネット見るのも教えてもなかなか覚えられなかった。そんな人が株の情報をパソコンに保存したりしません」

「そうなの。私、パソコンは使っていなくて……。だから何が入っていたのか、混入でもしたのか、よく分からなくて」

「佳代さん、パソコンはそういうものじゃなくて、自分で保存しないとそこにはないものだから」

「そうなの?」

「だいたい佳代さんは投資だろうとなんだろうと電話でやるんです そうでしょう? スマホはようやく使えるようになってきたけど、LINEでメッセージやりとりするのが精一杯」

佳代は大きく頷いた。インターネットで株式が購入できるとは田所から聞いていたが、そのサイトを訪れたことはなく、注文するにしても電話ばかりであった。

石渡と朝比奈は黙ってしまった。佳代は段々と頭が冴えてきたような気がしてきた。

「もうよいかしら? 授業に遅れちゃう」

佳代は笑顔で言った。英子は隣で怖い顔をしていた。

朝比奈は言葉を暫く探していたが、しどろもどろ話し始める。

「どうされるつもりです? 相手は有力者です。こんな風に抜け出しても、きっと許してはくれません」

朝比奈は至極弱々しく、怯えているようでもあった。英子はそんな刑事たちの様子を見て、佳代の表情を伺ったが、彼女は笑顔のままであった。佳代はゆっくりと話す。

「学校に行って、授業を受けます。確か今日の一限目は国語。もう受験対策だろうと思うけれど、楽しみ。もちろん、ご心配には及びません。私は授業を受けに行くんです。だけどちょっとだけ、闘うつもり。きっと美優ちゃんも迷って迷って、それで英子のところに行ってくれたんです。私は彼女を守らなくてはいけないし、悪いことをした川畑君には、相応の罰をうけてもらわなければならないから。睡眠薬の件を駒場君のお母さんに話して、きっと調査をしてもらうことになるんじゃないかしら。そうしたらいろいろ明らかになりそうですね……朝比奈さんも、そろそろじゃないですか? このままだと大きな損をしてしまいますよ」

朝比奈はそう言われて、目を泳がせていたが、出て行こうとする佳代と英子を止めることはしなかった。そして暫く立ち尽くして、石渡とこそこそ相談した後、走って佳代に追いつくと、咳払い混じりに次のように言った。

「高田佳代さん、パトカーでお送りしましょう。遅刻してはいけないですからね」
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