第2話 小さな校則違反

文字数 2,535文字

高田佳代は原付バイクで坂を下る。風を感じながら、坂のずっと下に見える大きな川に向かっていくのがたまらなく心地よい。佳代が入学したA高校はD川という大きな川の近くにあった。

佳代は毎日の登校がうきうきしてたまらなかった。まず、生徒たちとやり取りするのが楽しかった。

特に席が隣の女子生徒美優とは馬があった。美優は休憩時間になると、X君がWちゃんに告白した、F部が短距離走で全国大会に進んだ、若いイケメンのK先生が新たに赴任した、というような校内のどこかしらで毎日のように起きる青々しい出来事について聞かせてくれた。

ちなみに美優は、入学した初日、佳代が緊張してまばたきもせず授業を受けていると、ノートの切れ端を手紙にして自己紹介をし、住んでいる場所を尋ねてきた。佳代はそのときの手紙が嬉しくて自宅の台所にこっそり飾っている。

様々な授業を受けることも、学内の行事に参加することも、どこにでもある高校の出来事なのであろうが、佳代にとっては彼女の人生に欠落していたページを埋めてくれることになった。

スーパーで働いているときの一ページが砂と土で描かれた淡々としたものだとすれば、高校生活の一ページは、花と草木で覆われたかのように色鮮やかだったと言えるだろう。ただ、苦労がなかったかというとそうではない。

長い下り坂を原付バイクで下り終えた佳代は、学校から少し離れた月極駐車場の隅に原付を置いた。教師に見つかれば叱られるのだろうとコソコソしながら駐車場を出て行く。

バイク通学は事故が起きてはいけないからと当然のように禁止であった。なので生徒たちは徒歩か自転車、家が遠ければバスや電車を使うのであるが、佳代は購入したマンションが高台にあったため坂道を自転車で行き来するのは辛く、かと言ってバス路線からも離れていたため、入学から一ヶ月と持たず密かにバイク通学を始めていた。

A高校は高校であるから校則はあるし、教育現場独特の、または若者独自の慣習や常識も存在する。佳代としては郷に入れば郷に従えの精神ではいたのだが、馴染むのが難しいこともあった。

「あの、佳代さんって髪の毛染めていません? 校則違反だと思うんですが」

クラス委員の男子川畑が、佳代の頭頂部を見下ろし指摘したのは、彼女のつむじの生え際あたりの地毛と周囲の髪色が異なっていたのを見つけたからだった。川畑はクラス委員であるばかりか、生徒会長を務め、超難関有名大学に指定校推薦が決まっている優秀な生徒である。

「白髪染めは禁止されてないでしょう」

佳代はため息混じりに言った。毎月のように染めないと色むらが出たり、白髪が目立ち始めてしまう。気が付いても黙っておいてくれればいいのにと思った。

「染めているならば、佳代さんは校則違反をしていることになるんです」

「全然違う」

「校則で禁止されているんですよ」

川畑はポケットから手帳を取り出し、校則の掲載欄を開く。頭髪を染めるべからずと書いてある。

「分かっていないのねえ。川畑君がもし髪を茶色だとか金色だとかに染めるとしたら、それはウキウキすることでしょう? 格好をつけるためでしょう? 白髪染めは心躍ったりしない。面倒臭くて憂鬱で、けれど染めないととても老けて見えて、周囲の人もいたためれなくなるから、仕方なくやっているの」

歳をとり過ぎた自分には、校則も授業も不釣り合いで不恰好だと佳代は思っていた。制服にしても、当初頑張って着用してみたがさすがに似合わず、校長の許可を得て――というより他の教師たちも笑いをこらえるのが辛かったようで半ば懇願される形で――私服登校を認められていた。

「白髪染めに関しても先生に特別許可を得ておいたほうがいいと思います。不公平だって言いだす者がいるかもしれないですから」

川畑が生徒会長やクラス委員としての責任感から言っているのか、佳代のことを気に入らないと思っていていっているのかは分からなかったが、佳代は彼の背中を見送りながら、体は大人とほぼ同等になっていても校則にやたらと心を動かされる高校生に可愛げを感じていた。

一方で、あからさまに佳代への反発を示す生徒もいた。それは水泳部の駒場という男子生徒で、彼は川畑と仲が良く、成績がクラスで二番目に良い優等生だった。

駒場が佳代に対して反発を初めて表したのは、夏の水泳時間のことだった。佳代はお腹の出っ張ったスクール水着姿を周囲からクスクスと笑われていたのは気にしていなかったが、二十五メートルプールを列になって泳ぐ際にひとり歩いていて、後ろから急かされるのは嫌だった。

「私、泳げないの。習う暇もなかったし。でも、水泳なんかできなくても人生困ったことはないよ。だいたい、早く泳ぐのが偉いのかしら?」

背後から突かれた佳代は開き直ったようにそう言ったのだが、後ろに並んでいる一人であった駒場は不快な表情を見せた。

彼は部活を熱心にやっており大会でも結構な成績を残すほどであったから、水泳を馬鹿にされたと思ったらしく、その後佳代が美優から聞かされたのは、駒場がムカつくと友人に言っていたという話だった。

そして、駒場に関してはそれだけではなく、いくつかトラブルがあった。佳代が授業中に分からないところを頻繁に質問するのを駒場は授業妨害だと文句を言ったことがあったし、とある校内模試のときには、佳代が集中することにすっかり疲れてストレッチのために腰を捻り後方に顔をやると、斜め後ろに位置していた駒場が彼女の行動に気づき、カンニングだと叫んだのだった。

「私は目が悪くて、近眼と老眼が共存しているんです。だから、振り向いたとしても、他の子の答案なんて見えないんです」

カンニングを指摘された佳代は担任教師から事情を聞かれる羽目になったので、そう答えた。佳代の視力は四十歳を超えた頃から随分悪くなっていて、A高校で行われる健康診断でも再検査を命じられたほどだった。

駒場の態度は常によそよそしかった。佳代は、思春期の男子は難しいとスーパーの同僚から聞いており、そういうものかと思っていたが、折角同じクラスになったのだから仲良くなりたいとも思っていた。しかし残念ながらそれが成就することはなかった。何故なら駒場は二学期の途中で亡くなってしまったのだ。
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