第16話 退学拒否

文字数 3,783文字

「これおみやげね」

佳代が自宅マンションでスーパー時代の友人英子に見せたのは、行楽地の饅頭だった。英子は持ってきていた総菜を開けながら佳代の顔を覗き込んだ。

「珍しいわね、佳代さんが旅行? K神社に行ったの?」

その行楽地まではおおよそ二時間くらい。歴史ある広大な神社を有する場所である。

「ううん。駅に着いて、一時間くらいしか滞在しなかったし」

佳代が答えると英子は怪訝そうに凝視し、肘に貼った絆創膏に気づいた。

「学校で何かあったの?」

佳代はまだ事故のことを言ってはなかったが、英子は勘の良いタイプであり、察したようだった。

佳代は饅頭を差し出し、一呼吸置いてから、駒場の死から始まり、川畑とのこと、事故のこと等を丁寧に説明した。

「それで神頼み? 佳代さんにしては珍しいわね」

英子が言ったのは、佳代がどちらかといえば現実主義であり、パート仲間で雑誌の占いに一喜一憂していた姿を呆れたような顔で見守ることがあったし、投資をする際には、それを教えた魚売り場の田所が企業の社長の顔が善人かどうかなどかなり感覚的でギャンブル性の高い方法を取っていたのに、佳代は店頭の商品の売れ行きから分析して優良な企業を見極めていたことがあったからだった。

「神社には行っていないの。私が言ったのはK大学。K神社から十分くらいのところにあるんだけどね」

「佳代さん、K大学を目指すの? それはすごいけど」

K大学は受験に詳しくない英子でも知っている有名校であった。

「まさか、私の学力ではまったく歯が立たないよ。K大学はね、私じゃなくて、川畑君が推薦で入学が決まっているところ。私にはどうしても川畑君の行動が理解できなくて、K大学に近づくことでそれが明らかになるんじゃないかと期待したんだ。どうして川畑君が私のことをそうまで嫌うのか。学校からいなくなって欲しいんだろうなって思うのだけれど、考えれば考える程分からない」

「何か納得のいくことが分かった?」

「まだはっきりとはしない気がしているけど……私ね、K大学の生徒さんの中で、推薦入学だった人を探したの。学校に尋ねて紹介してもらって、それで一人の学生さんが見つかった。

真面目に生きているという顔をされていて、中肉中背であった。一つは、一年生の頃からの成績の積み重ねで評価されるから毎回のテストで失敗しないようにすること、もう一つは、合格してから浮かれ過ぎないようにすること。一般の受験生より早く結果が決まるけれど、それで浮かれて問題を起こしたら、合格が取り消されてしまうんだって。推薦っていうのは、高校と大学の間の信頼関係で成り立っているから、その後の後輩たちにも迷惑が掛かるって」

佳代はそう説明し、川畑が自身を目の敵にするのはやはり推薦入学のためだろうと締めた。

「合格が取り消されるのを恐れているってこと? 佳代さんを高校から追い出そうとするのはそのため」

英子は尋ねた。佳代はお惣菜に箸を伸ばす。

「でも命の危険を冒してまでやることだとは思えないの。投資の世界で言えばリターンとリスク。小さな成果でよければ冒す危険は小さくて済むけれど、大きな成果を得るには大きな危険に挑まないといけない。つまりね、もし川畑君が私を高校から追い出したいだけなら、命の危険を冒すまでのことはないと思った。逆に、彼が命を危険に晒してでもやりたかったことがあるとすれば、私が高校にいると大学入学が取り消されるのはもちろんだけど、もっと致命的な、川畑君が死んでしまうくらいのことが起きてしまうということ。今はまだそれがなんなのかは分からないけれど」

佳代と英子の会話を遮ってインターホンが鳴った。時間は夜の八時頃だった。

「こんな時間に誰かしら」

佳代の部屋を訪ねて来るのは英子くらいのもので、テレビ通販の宅配かもしれないと思ったが物を買った覚えもなく、少々警戒しながら応答すると担任教師だった。

「わざわざどうされたんです?」

二人で会話したいという担任の意向を受け、佳代はリビングではなく物置代わりに使っている部屋に通した。担任教師は威厳を保っていたが喉がかわいてしかたがないようで、佳代の出した水を一度に飲み干した。

「用件が二つあります。ひとつは先日お渡しした退学申請の用紙を受け取りに来たことです。もう一つは、川畑から預かった治療費の請求書をお渡しすることです」

担任は矢継ぎ早に言って、請求書を出した。数十万円の支払いが記載してある。

「後遺症が残らないように先進的な治療を行ったのと、受験生ということで精神的な安定のために個室での入院を選択したので高額になっているとのことです。あとは、もしかしたら今後何か体に不都合が残った場合には別途請求したいとのことでした」

「川畑君がそう言っているんですね」

「そうです。先日佳代さんも治療費は責任を持つと仰っていましたし」

「事故の直後は何でもしようと思いました。本当に申し訳ないことをしてしまったと」

佳代はそこまで言って一度黙る。自らが運転する原付バイクで川畑にぶつかってしまったのは事実。しかしその事故が、川畑の故意によるものだとしたら事情は変わる。

「今の私は、払うべきじゃないと思っています。全てが明らかになるまでは、一銭たりともお支払いするつもりは、ないんです。退学を自ら申し出ることも同じです。今は、あまりに分からないことだらけですから」

佳代は差し出された請求書を押し返す。担任はむきになってそれをまた佳代のほうへと動かした。

「払いませんよ」

佳代は大きな声を出した。担任は驚いてのけぞり、目を泳がせた。ついさっきまで保たれていた威厳が急速に勢いを失っていた。

「大人なのだから、事故の責任をとるべきです」

担任が絞り出した声で言った。

「川畑君が自転車でわざとぶつかってきたとしたら?」

「まさか」

「駒場君のことと同じです、隠されている事実があるように思えて仕方がないです」

「待ってください。冷静に。皆、受験生なんです。駒場が亡くなったことも、佳代さんが川畑を怪我させたことも受験を控えた三年生クラスで起きるべきことじゃありません。誰もが今回のことで大きく動揺しています。自宅での勉強に身が入っていないと保護者からも苦言が寄せられています。三年生なのですから、勉強に、試験準備に、とにかく集中すべきなんです」

「先生は教師として、本当に生徒のためを思って言っています?」

「もちろんです。大学受験は人生最大の岐路です。失敗は許されない」

「でも、私の想像があっていたら、川畑君の行為はとてもほめられるものではないですよ。先生がたが守ろうとしている行為も、問題になると思います」

担任は反論しようとしていたが、言葉を詰まらせた。佳代はため息をついて続ける。

「こんなこと言いたくないですけど、私には先生が保身に走っているように思えてしまいます。生徒を守ることを口実にして、ご自身の評価や評判を守ろうとしている」

「違います。俺は学校全体のためを思っているだけで」

「でも川畑君を特別視しているのは確かでしょう? 親御さんが地域の有力者であるからですか?」

「親御さんは関係ないです。ただ彼は生徒会長で、指定校推薦も受けているから」

そう言って担任は言い過ぎたと口を押さえた。佳代は身を乗り出す。

「もしかして生徒会長で、大学入試の推薦も受けている川畑君が問題を起こしたとなると、学校としてまずいのですか? あ、そうか。優秀な生徒だとお墨付きを与えているのに、その彼が問題を起こしたとなると、学校の評判が失墜する」

佳代は大きく頷いた。担任は慌てて帰り支度を始めている。

「となると……もしかして川畑君が必死なのも推薦のため? 一度合格した推薦入学が取り消されてしまうのをおそれているからですか?」

「失礼させてもらいます」

担任はすでに扉に手をかけていた。佳代は追いかけることなく、ただ呼びかける。

「逃げ遅れないように」

担任は振り返ることなく佳代の自宅を出ていった。リビングの扉が少々開いていて英子が覗いている。

「担任の先生? 若い人ねえ」

佳代が担任と会話している間に英子はリビングの後片付けを終わらせていて、佳代が戻ってくると、心配そうにそう尋ねた。

「ごめんね、楽しい時間にする筈だったのに……。さっきのは担任。情熱のある熱心な先生なんだけどさ」

「いいよ。佳代さんが眠れないのは普通じゃないから」

「大丈夫。毎日ぐっすりだよ」

「隠さなくていい。ごめんね、さっき後片付けしようと台所にいったら見つけちゃた。佳代さん、睡眠薬処方してもらっているんだね」

「何それ?」

佳代はまったく覚えがなく首を捻った。英子は台所の棚にあったのだと案内し、確かにそこには薬のアルミシートが置いてあった。しかし、それは佳代のものではなく、例の事故のときに川畑の鞄から落ちていたもので、拾ったはいいが、返すタイミングなく保管していたものだった。

「睡眠薬なのね、これ」

佳代はシートの背面に刻印された薬名に目を凝らす。

「私は一時期不眠症になっていたときがあって、詳しいのよ。この薬は結構強力だったはず」

「受験生はストレスを抱えているから」

佳代は川畑が不眠に悩んでいたのだろうかと想像しながら、日ごろの彼の雰囲気からはそうも感じられず、しかし表に出さない一面があるのかもしれないと複雑な気持ちになった。

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