第10話 破壊

文字数 2,282文字

 そっと覗いてみたところ、応接間にいるのは咲倉彰秀だけだ。携帯電話を耳に当て、せかせかと室内を歩き回っている。
「ま、待ってくれ。カネはすぐに用意するから。娘に手出しはっ……」
 すわ誘拐かと緊張する僕を尻目に、秘花はぐいとドアを開いていきなりなかに踏み込んだ。ちょうどこちらを向いていた彰秀(あきひで)がギョッとした顔になる。秘花(ひめか)は落ち着きはらった声で尋ねた。
「どうなさったんですか、咲倉さん」
 碧い瞳でまっすぐに見つめられ、彰秀はたじろいでよろよろと後退った。
「あ、う……。む、娘が、交通事故を起こして……」
「交通事故?」
「あ、相手がヤクザなんだ。今すぐ五百万払わないと娘をソープ嬢にするって」
 中途半端に耳元から離れた携帯電話から、ドスのきいた怒鳴り声と女性の泣き声が小さく聞こえてくる。
 秘花の肩が少し下がるのが、後ろから見ていてわかった。眉間に皺を寄せているのがわかる声音で秘花は続けた。
「……それ、娘さんからの電話ですか?」
「ああ、登録してある番号だ」
「最近電話番号を変えたとか、言ってませんでした?」
「う、うん。一週間ばかり前にそういう電話があって、電話帳を修正した」
「娘さん、働いてます?」
「え? ああ、うちの関連企業で──」
 皆まで聞かず、秘花はいきなり携帯電話を奪い取って通話を切ってしまった。
「わーっ、何するんだっ」
「お嬢さんの会社に電話して、呼び出してもらってください」
 ずいっと携帯を差し出され、彰秀はたじろいだ。こういうときの秘花には、とても十三歳とは思えぬ迫力があるのだ。
 気が動転している彰秀は言われるままに携帯をいじり、通話先と言葉を交わした。ややあって娘と繋がったらしく、彰秀は勢い込んで話しだした。
馨子(きょうこ)かっ!? 大丈夫か? 無事なのかっ。──いやだっておまえ、事故ってヤクザのベンツに突っ込んだって……。ええっ? あっ、そういや会社にいるな」
「……行こ」
 秘花は肩をすくめ、焦りまくってむやみに片手を振り回しながら娘と話している──というか娘から説教をくらっているらしい──彰秀を残して応接間を出た。
「なぁ、あれって」
「振り込め詐欺よ。しかも古典的な手口ね。今どきあんなのに引っかかる人間がまだいるとはね」
 もはや関心を失ってつまらなそうな顔で、秘花は答えた。僕たちはふたたび庭に出て、緑の芝生を歩きだした。
「そういえば、大がかりな振り込め詐欺グループが摘発されたって今朝のニュースで見たな」
「捕まったのは下っ端ばかりよ。前にも摘発された集団と首謀者は同じらしいわ。いつも、危なくなると末端を切り捨てて逃げてるのよ。下っ端は上に繋がる手がかりを持ってない。結局、トカゲのしっぽ切りですぐにまた復活してしまう。……お母さんも大変だろうな」
「それでやたらと忙しそうなのか。休日も返上で」
 おーい、と後ろから声がして、僕らは足を止めた。振り向けば屋敷から彰秀が小走りに出てきたところだった。
「きみ! えーと、秘花さんだったか? いや、助かったよ! あれ、詐欺の電話だったんだね。娘にガッチリ怒られてしまった」
「振り込む前に気付いてよかったですね」
 とっくに関心を失った秘花は無表情に応じたが、彰秀は自分の娘より年下の少女に向かってぺこぺこと頭を下げた。
「いやー、全然気付かなかったよ。てっきり娘だとばかり……」
「ニセの携帯番号、いちおう警察に届けてください。たぶんプリペイドだろうけど」
「うん、わかった」
 彰秀が生真面目に頷くと同時に、庭の向こうからガシャーンと何かが割れるような音が響いてきた。
「何だ!?
「空中庭園だわ。奇士(あやと)、急いで」
 僕は真っ先に駆けだした。四階建ての空中庭園は屋敷から出てすぐ視界に入っていた。入り口部分は回り込まないと見えない。
 駆けつけたとき、青銅の門は僕たちが出て行った時と変わらず開いていた。狭い階段を駆け上がると、開け放しておいたはずの温室のドアが閉まっている。金色のドアハンドルを握っても動かない。中から鍵がかかっている。
 ガラス越しに見れば、テーブルがひっくり返っていた。その脇にぐったりと倒れ伏しているのは──。
「先輩!? 颯子(そうこ)先輩、どうしたんですかっ」
「奇士、どうしたの?」
「先輩が倒れてる。ドアが開かないんだ」
「ガラスを割るのよ」
 追いついた秘花が息を切らして中を覗き込みながら怒鳴った。素早く周囲を見回し、ドアストッパーとして使っているらしいアンティーク風の靴の泥落としを掴む。
 まさか秘花にそんな荒事をさせるわけにはいかない。代わって僕が泥落としを持ち上げ──かなり重かった──、ドアのガラスに叩きつけた。
 隙間から手を入れて、ぽってりと丸いツマミを回して鍵を開け、急いで飛び込んだ。後ろから秘花が叫んだ。
「足元、気をつけて!」
 床には割れた茶器のカケラが転がっている。それを踏まないようにしながら先輩の側にかがみ込んだ。
 先輩は左肩を下にしてうつ伏せ、右手だけを上に伸ばした不自然な恰好で
倒れていた。
「先輩……」
 そっと抱き起こした僕は声を呑んだ。先輩の胸には園芸用の鋏が深々と根元まで突き刺さっていた。先輩の瞳は永遠に閉じられ、長い睫毛がしっとりとぬれている。
 先輩の右腕は、人指し指だけがまっすぐに伸びていた。茫然とたどったその先には、こぼれた紅茶の水たまり。
 先輩が紅茶で床に書き残した文字を、僕はただ茫然と眺めていた。
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