第7話 薔薇

文字数 1,803文字

「先輩のアトリエなんですね」
「アトリエなんていうと何だかこそばゆいけど。明るくて解放感があって、居心地がいいのよ。それに、ここには誰も来ないからひとりになりたいときには最適」
「叔父さんや叔母さんは?」
「来ないわ。ここを造ったのは父で、叔父も叔母も、父とはあまり仲がよくなかったの。正確には、彰秀(あきひで)叔父様はそうでもなかったんだけど、あの人は妹の秀子叔母様に昔から頭が上がらなくて。秀子叔母様と父が犬猿の仲でね。叔母様はこの空中庭園が何故か大嫌いなのよ。こんなもの造って厭味だ、嫌がらせだって今でもブツブツ言ってる」
「嫌がらせって、どういう意味ですか」
「さぁ? わからないけど、ともかくわたしにはありがたい避難所よ。叔母様は何かと煩くて。今、離婚協議中で出戻ってきてるのよ。このまま居座られそうな勢い」
 先輩は肩をすくめて苦笑した。
「ごめん、愚痴ったりして。奇士(あやと)くんだとつい気安い気分になっちゃって」
「俺でよければ聞きますよ、何でも」
「うん。ありがと」
 うっすら感じていたけど、先輩は何だか悩みがありそうだ。ひょっとして僕たちを家に招いたのも、それと関係あるのかもしれない。颯子先輩の黒目がちなしっとりした瞳で見つめられると、僕の心拍数は急上昇した。
 やばい。大学生になって先輩はますます素敵になってしまった。そうだ、先輩はもう二十歳だ。僕はまだ十八にならない。
 相手が二十代なのだと思っただけで、何だか距離が開いてしまったような気がした。年齢差は以前と同じなのに、この感覚は何なんだろう。
「……いい匂いがする」
 むっつりした呟きに、僕は秘花(ひめか)の存在を思い出した。空気読めとわめきたい一方で、何故だかホッと安堵してもいた。
 結局僕は恐れているのかもしれない。単なる先輩後輩の関係を踏み出せばたちまち無残に壊れてしまうであろう、そんな曖昧で微妙な先輩との距離感を、ある意味僕は確かに愛していた。
 そんな僕は途方もない臆病者で。
「う、うん。俺もそう思ってたんだ。温室に入った時から、いい匂いがするな~って」
 先輩は屈託なく微笑み、僕は作り笑顔に屈託を押し込めた。
「ふふ。何だと思う?」
「──薔薇、ですよね……?」
「あたり」
 来て、と手招かれ、温室の奥へ進む。
 入り口付近からは見えなかったが、イーゼルの陰には薔薇の鉢植えがひとつあった。まだ三月末だが、暖かな温室で燦々と光を浴びた薔薇はすでにいくつか蕾をふくらませていた。うちひとつがかなり開き始めている。
 近寄ると芳香はいっそう強くなった。たったひとつの薔薇なのに、五メートルくらい離れた入り口近くまで香りを漂わせるとは。
 まさしくむせ返るように濃密でありながら、不思議にすっきりとしてもいる。甘やかであっても甘ったるくはない。香辛料を思わせるぴりっとした辛さもある。
 鼻の奥が微妙に疼いたが、つんと来るのとは全然違う。何とも不思議な芳香だ。
「すごくよく匂いますね。なんて薔薇ですか」
「名前はないの。突然変異なのよ。一枝だけ、色も香りも違う花が咲いたんですって。これはそれを挿し木したもので、父が知り合いから譲り受けたの」
 腰を屈めて僕は薔薇をまじまじと眺めた。突然変異と聞いて興味を持ったのか、秘花も顔を寄せる。
 花びらは黄色と赤の二色だ。付け根の方が赤くて、先端は黄色。どちらも色味が濃くはっきりしていて、黄色は金色と表現できそうな色合いだ。赤の方は深みと鮮やかさを併せ持った鮮血色である。
「……血と黄金。ボリショイとかダブル・デライトに似てる」
「何だ、それ?」
「薔薇の品種。どっちもこんなふうに花びらが黄色と赤になってるけど、香りは違う」
「よく知ってんなー、おまえ」
「一緒に行った薔薇園で見たよ。奇士が忘れてるだけ」
「おまえが覚えてりゃいいよ」
 颯子先輩が声を抑えて笑ってる。照れ笑いしながら横目で睨んでやっても秘花は知らんぷりだ。
「実は、名前をつけてほしいって父に言われたの。遺言……ってわけでもないんだけど、やっぱり最後に頼まれたことだから。変に構えちゃってるのかな、なかなかいい名前が思いつかないのよね」
「それはそうですよね」
「名前をつけるといっても新しい品種じゃないんだし。一代で終わることがわかってる花に迂闊な名前は付けられないでしょ」
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