第20話 虚実

文字数 2,585文字

「何言ってんだ、お嬢ちゃん。姉貴は事故死だって言ったのはあんただろう」
「嘘をついたんです。颯子さんはあなたが殺人罪で捕まることを望んではいなかったから」「おい。子どもだからって甘い顔してりゃ、つけあがるんじゃないぞ!」
 がらりと口調を変えた恫喝にも平然として、秘花(ひめか)は斜め掛けしたポシェットから絵はがきサイズの白い封筒を取り出した。
「あなたが探しているのはこれでしょう? 私が颯子(そうこ)さんから預かっていました」
「……読んだのか」
「預かる代わりに読んでいいと言われたので。この手紙に書かれていること──つまり颯子さんが知っていることが警察に知られたら、あなたは非常にまずいことになる。そこで口封じをした」
 優の口許が奇妙にゆがむ。彼は鼻で嗤い、秘花に嘲りの視線を向けた。
「俺が姉貴を殺したとしたら、どうやってあの密室から出たんだ? いや、あんたの推理じゃ、そもそも俺はあの温室に入ることすらできなかったことになるぜ」
「あれは嘘ですから。単に皆さんに納得していただければよかった。──本当の密室はこのようにして作られました。まず、温室のドアは開いていた。奇士と私が出た時に開けて、そのままになっていました。颯子さんは奇士が汚してしまったノブを、ドアを開けたまま拭いたのです。私たちが屋敷にいる間に、指定された時間よりもずっと早くあなたが現れた。あなたは後輩の兄妹と食事をするから付き合ってと言われて承知したものの、私たちの名前を知って疑惑を抱いた。月銀(つきしろ)という名前は滅多にないにも関わらず、警察のとある部署に同じ名前の人物がいることをあなたは知っていた。そこであなたは姉の意図を問いただそうと早めに来たわけです」
「……それで、俺が口封じのために姉を殺したってわけか? ふん、だったら姉貴を殺した俺はどうやって密室から出たのかな?」
「密室からは誰も出ていません。あなたが凶行に及んだ時も、逃げた時も、温室のドアは開いていた。密室ではなかったのです」
 それを聞くと僕は我慢ならずに飛び出した。
「どういうことだよ、秘花! そいつが先輩を刺した時、僕らは温室が見える場所にいたんだぞ。ドアは閉まっていた。誰も出てこなかった!」
 秘花は振り向き、哀しそうに眉を寄せた。
「奇士……。ええ、そうね。でもそれは単純な錯誤だったのよ」
「錯誤だって?」
「いい? 私たちが聞いたのはテーブルがひっくり返ってティーポットやカップが壊れる物音だった。そして駆けつけると壊れた茶器の側で颯子さんが亡くなっていた。そこで私たちは颯子さんが刺されて倒れる拍子にテーブルをひっくり返したのだと思い込んでしまう。ところが実際は、颯子さんが刺されたのとテーブルをひっくり返したのは同時ではなかったのよ」
「同時ではなかった?」
「そう。まず、颯子さんが刺され、犯人は開いていたドアからそのまま逃げる。階段下の門も開けっ放しだったから、犯人は何にも触れずにすんだ。その間私たちは屋敷の中にいたわ。ただ手を洗って出てきたなら逃げる犯人を見かけたかもしれない。でも私たちは咲倉彰秀にかかってきた振り込め詐欺の電話に対応していたでしょう?」
「ああ、そうだ……」
「颯子さんは弟を庇うためにドアを閉めたの。そのとき颯子さんは左手を使った。湿疹のせいで綿手袋をしていた左手よ。そしてよろめきつつ引き返した颯子さんはついに倒れ、その時に茶器の載ったテーブルをひっくり返したというわけ」
「鋏に俺の指紋はなかったはずだがね」
「もちろん颯子さんが拭ったんです。この時も左手の綿手袋が役に立ちました。握りの部分を左手の手袋でよくこすり、改めて自分の右手で強く掴んだ。汀さん、颯子さんはあなたを容疑者から外すために、文字どおり必死の工作をしたんです。彼女はそうまでしてあなたを助けようとしたんですよ……」
「知ったふうな口をきくなっ」
 秘花の言葉に、優は怒鳴り声を上げた。憤怒の形相で、拳を握りしめる。
「姉貴が俺を庇っただと? そんなわけがない。きっと俺が止めを刺しに戻ってくるとでも恐れて鍵を閉めたんだ。鋏の指紋が消えたのも偶然さ。姉貴にとっては痛い偶然だろうよ。指紋が残ってれば誰が犯人かすぐにわかっただろうに、生憎だったな」
「姉が弟を庇って何がおかしいのですか。颯子さんにとってあなたは唯一残された、たったひとりの肉親。しかも自分は病気が再発していつまで生きられるかもわからない。そういう自分を殺した罪であなたに捕まってほしくないと思うのは自然でしょう」
「わかってないね、お嬢ちゃん。姉貴がそんなお優しい女なもんか」
 颯子先輩を悪く言われてカッとなる僕を制し、秘花は静かに尋ねた。
「どうしてそんなことを?」
「姉貴は俺を捨てたんだ。俺たちの父親は酒癖が悪く、ちょっとでも気に食わないことがあるとすぐに暴力を振るう男だった。……いや、俺の父と言うべきだな。姉貴は別の男の子どもだから。親父に愛想を尽かしたおふくろは、姉貴だけを連れて出ていった。置き去りにされた俺は腹いせのいい的にされた。泥酔した親父が階段から落ちて死ぬまで、俺の毎日は地獄だったよ」
 吐き捨てた優の双眸が妙に白々と光る。僕はゾッとした。父親の転落死は不慮の事故ではないのかもしれない。僕の脳裏に、倒れて絶命している父を階段の上からじっと見下ろしている少年の姿が浮かんだ。
「……颯子先輩のせいじゃない。颯子先輩が悪いんじゃない。ほんの子どもだったんだぞ。あんたと一歳しか違わないんだろ。まだ小学生にもならない女の子が、母親に逆らって助けに来られるわけないじゃないか! おふくろさんはどうか知らないけど、颯子先輩はあんたも連れて逃げたかったはずだ」
「黙れ、ガキ」
 僕と二、三歳しか違わない優は、声を軋ませ罵った。冷え冷えとした暗い目つきは、彼が優しさとは無縁の境遇だったことを示しているように思えた。
「……そうだな、少しは罪悪感があったのかもな。俺を見捨てたことに対して。姉貴はおふくろが死ぬと俺を探し出して近くに呼び寄せた。仕事も紹介してくれたよ。だけどそんなのは結局自己満足さ。俺のことなんか本当はどうでもよかったんだ。不遇な弟に優しく接してみせて、いい気になってたんだだけだ」
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