第17話 名前

文字数 2,106文字

 翌日、事件の関係者が温室に集まった。僕らふたりに咲倉(さくら)家の三人と使用人三人。事件当時はいなかったが、(みぎわ)(まさる)と永瀬刑事だ。秘花はぺこりと頭を下げた。
「皆さん、今日はわざわざお集まりくださってありがとうございます」
 鵜沼(うぬま)秀子がフンと鼻息をつき、馬鹿にしきった目つきで秘花を一瞥した。
「あなたみたいな子どもに何がわかるというのかしら。兄さんがどうしてもって言うから来てあげたのよ。さっさとしてよね、こんなおぞましい場所にはいたくないわ」
颯子(そうこ)は病気を苦にして自殺したんだ。確かに痛ましいことだけど、別にそれでいいじゃないか」
 不貞腐れた顔で誠司が言った。彼は公文書偽造で書類送検されたそうだ。もちろん、婚姻届は無効である。
 颯子先輩が未婚のまま亡くなったため、先代の遺言どおり咲倉家の遺産は全額が事故・自死遺児の会に寄付される。どうせまた裁判に訴え出て、取れるだけはしっかり取るつもりだろうけど。
 彰秀氏がつんけんしている妹をなだめた。
「まぁまぁ、話を聞くくらいいいじゃないか。秘花さんはとっても機転がきく、頭のいいお嬢さんだ。それに、刑事さんも来てくださってるんだし」
「ふん、どうせお守りだろ。そのふたりは警察のお偉いさんのご家族だそうだから」
 誠司の当て擦りは僕も秘花も無視した。永瀬刑事は居心地悪そうに身じろぎしてる。使用人三人は当惑と好奇心の入り交じった顔で固まっている。汀優は迷惑そうな顔で手持ち無沙汰に突っ立っていた。十人もの人間がいると、けっこう広々としているはずの温室がやけに狭く感じられた。
 秘花はいつもながら表情の薄い、人形めいた美貌で周囲を見回した。
「……まず、ダイイング・メッセージのことからはっきりさせておきましょう。こぼれた紅茶で床に書かれたメッセージです。液体で書かれているだけに、とても読み取りにくいですが、パッと見た感じでは『ウヌ』と読めるようにも思われます」
「俺たちは関係ないって!」
 誠司が怒気をおびた声を荒らげる。秘花は頷いた。
「わかっています。これは『ウヌ』ではありませんから」
「えっ、そうなの?」
 思わず僕は頓狂な声を上げてしまった。秘花は軽く頷き、続けた。
「颯子さんは倒れ伏した状態で、紅茶の水たまりは遥か頭の上の方にあった。必死に腕を伸ばして綴る間、自分の書いている文字はほとんど見えなかったはず。また、彼女は途中で絶命してしまい、書き終えることができませんでした」
「『ウヌマ』と書こうとしたんじゃないのか」
「違うわ。あれは『ウヌ』ではなく『ラス』と読むべきだったのよ」
「ラス?」
「そう。何だと思う? 奇士にはわかるはずだけど」
「えっ……、えぇ? 何だろう……。ラス……、ラスベガス……じゃないよな」
 じろりと秘花に睨まれ、僕は身を縮めた。
「……人名よ」
 余計にわからない。降参のポーズで両手を上げると、秘花は軽く溜息をついた。
「ラス・カサス。──まだわからない? 颯子さんの机にあった本よ」
「あっ、あれ! 何だか長くてややこしいタイトルの」
「『インディアスの破壊についての簡潔な報告』。颯子さんはゼミで使う資料だと言ったでしょう? ラス・カサスはその著者よ」
「そうか! ……でも何でラス・カサスがダイイング・メッセージ?」
「あの時、私たちは薔薇の話をしていたわ。──これです」
 秘花は温室の奥に歩いていき、黄色と深紅の二色の色彩を持つ薔薇を示した。子孫を残せず、棘を持たない突然変異の薔薇は、今日もあの日と同じようにえも言われぬ芳香を辺りに漂わせていた。ぞろぞろとついてきた一行が薔薇を眺める。
「颯子さんはお父さんから譲り受けたこの薔薇に名前をつけたいけれど良い案が浮かばないと言っていました。覚えてない? 奇士。私たちと話していて、この薔薇の色が黄金と血のようだと言ったでしょう」
「う、うん。確かにそんなようなことを言ったな」
「あの時、颯子さんは何か思いついた様子だった。その前に私たちはラス・カサスの本について話した。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、黄金に眼の眩んだスペイン人が、新大陸の原住民を虐殺していることを告発する書物よ。黄金と血。この薔薇の色彩です。またこの薔薇は突然変異で子孫が残せない。ラス・カサスの活動は実を結ぶことなく頓挫してしまった。それでも彼の奮闘は忘れ去られたわけではない。そしてこの薔薇には、何とも言えない懐かしさをかきたてるような、独特の芳香があります。それらを思い合わせ、颯子さんはこの薔薇に『ラス・カサス』と名前をつけようと思いついたのでしょう」
「じゃあ、やっぱり自殺だよ」
 誠司が叫ぶ。その声にホッとしたような響きを感じて、僕はムッとした。母親の秀子も息子の言葉に頷いた。
「そうだわ。最後に薔薇に名前をつけたかったんでしょうよ。それにつけても傍迷惑なことしてくれたわねぇ」
 思わず言い返そうとする僕を制し、秘花は静かに告げた。
「いいえ、自殺ではありません。それも、これからご説明します」
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