第8話 徒花

文字数 1,672文字

「え、これ一代限りなんですか?」
「種ができないのよ。突然変異にはよくあることだけど。徒花(あだばな)よね。だから余計に美しく見えるのかもしれないわ」
 先輩は、ふと小首を傾げた。
「……血と黄金の徒花(あだばな)、か」
 秘花が洩らした言葉を呟いて何やら考え込む。先輩が顔を上げると同時に、背後から声がした。
「お茶をお持ちしました。こちらでよかったですか?」
 振り向くと、茶器の載った長方形の大きなお盆を両手で持って、若い女性が立っていた。
「ありがとう、由未利(みゆり)さん。そこのテーブルに置いてくれる?」
 促されて籐製のソファに秘花と並んで腰を降ろす。颯子先輩が女性を紹介した。
「由未利さんは万里子さんの姪御さんなの」
 女性は微笑んで会釈した。颯子先輩より二、三歳年上みたいだ。
「お昼は予定どおり食堂でよろしいでしょうか? その、お客様が増えましたが」
「いいわよ、別々に取るのも何だか変だし。それより、いきなり人数が増えちゃって大丈夫かしら?」
「食材は充分だそうです。ただ、少し時間がかかるかも……。用意ができたら呼びに来ますね」
「ええ、お願い」
 由未利さんはぺこっとお辞儀をして出て行った。ティーコジーを外してポットから紅茶を注ぎながら先輩は詫びた。
「わたしたち三人だけでゆっくり食べたかったのに、ごめんね。叔母様ったら自分は遠慮して自室で食べるわとか言っておいて、誠司さんや叔父様を呼びつけるんだから」
「かまいませんよ、僕は全然」
「料理の味は保証するわ。コックの大野さんはもともとプロだから。以前はレストランのオーナーシェフでね。いろいろ事情で閉めることになって、常連だった父がうちに勤めないかと誘ったの。料理以外に庭仕事とか力仕事もやってもらえて、本当に助かってるわ」
 ふんふんと頷きながら、用心しつつ紅茶を飲んだ。僕は猫舌気味なのだ。
 坂道を登ってきた汗はとっくに引いて、温かい飲み物も美味しくいただけた。紅茶の好きな秘花(ひめか)はゆっくりと香りと味を楽しんでいる。どうやらお気に召したようだ。
 しばらく美術部の今の様子などについて話しているうちに、僕は薔薇の側に置かれたイーゼルを思いだした。
「先輩、あの薔薇を描いてるんですか? 見てもいいですか」
「いいわよ。スケッチみたいなものだけど」
 僕らはまた名無しの薔薇の前に引き返した。先輩は水彩で薔薇を描いていた。あえて輪郭をはっきりさせず、ぼかすように描いている。
 秘花は絵にはちらと目をやっただけで、実物の薔薇をしげしげと眺めた。失礼だぞ、こら。
「これ、親株は何ですか」
「ピースよ。知ってる?」
 気を悪くしたふうもなく、先輩は微笑んで答えた。秘花は黙って頷く。あいにく僕は知らないので素直に訊いた。
「ピースってどんな薔薇なんですか?」
「黄色い大輪の薔薇で、縁がうっすらピンクになるの。造られたのはフランスなんだけど、第二次世界大戦の終結時に平和への願いを込めてアメリカでピースと名づけられたの。戦後まもない日本にも輸入されて大人気だったのよ。大学卒の銀行員の初任給が三千円だった頃に、一本六百円から千円もしたんですって」
「そんなに!? 高っ」
「それでも飛ぶように売れたそうよ。いつの世にもお金持ちというか道楽者はいるものね。もちろん、今ではそんな高価じゃないけど人気はあるわ。大輪で見栄えがするし、病気にも強いから。──これの親は普通のピースだったんだけど、一本の枝だけ黄色に赤まじりの花が咲いたの。しかも、ピースは香りが弱いのにこれはすごく匂うでしょ。もちろん、ピースの香りとは違う。それも不思議よね。もうひとつ、この薔薇にはちょっと変わった特徴があるんだけど、わかるかな?」
「えっ、何だろう」
 颯子先輩はニヤニヤして人指し指を立てた。
「薔薇と言えばー」
「……棘がない」
 ぽつん、と秘花が呟く。慌てて見直すと、確かにその薔薇には棘がまったくなかった。茎はつるつるだ。
「へぇ~。棘のない薔薇もあるんですね」
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