第18話 事故

文字数 2,304文字

 秘花(ひめか)は一同を促し、入り口に近いほうのスペースに移動した。ひっくり返った籐製のテーブルは元に戻され、同じ場所に置かれている。
「奥で薔薇の話をしながら、私たちは颯子(そうこ)さんが描いた水彩画を見せてもらっていました。そのとき奇士(あやと)がうっかりして手に絵具をつけてしまったんです」
 僕は反射的に右手を見た。そうだ、よろけて画材の載ったテーブルに手をついて、チューブ入り絵具を押しつぶしてしまった。赤い絵具がべったりと手についた……。
「奇士は手を洗いに行き、私もついていきました。温室から出るとき、慌てていた奇士は汚れた手でノブを掴んでノブにも絵具がついてしまった。颯子さんは濡れ布巾で拭くから大丈夫だと言い、風を入れたいからドアを開け放しておくようにと言いました。私たちはそのとおりにして屋敷に向かったわけです。
 残った颯子さんは汚れたノブを布巾で拭きます。風が思いの外冷たかったのでしょう、やっぱりドアは閉めることにした。それに、開いたままだと拭きにくいですからね」
 秘花は自前のハンカチを取り出し、ノブを包むようにして左右に回した。
「……こうして汚れを拭いているうちに、布巾に巻き込まれたツマミが回って鍵がかかってしまいました」
 ハンカチを離すと、鍵のツマミが横倒しになっていた。
「このツマミはとても軽くて回りやすいですね。ノブをガチャガチャ言わせながら拭いていたら音も紛れます。颯子さんは鍵をかけてしまったことに気付きませんでした」
 秘花は入り口から戻ってきて、ハンカチを僕に渡した。僕は上の空でハンカチを畳み、自分のポケットに突っ込んだ。
「そうして颯子さんは元いた場所、つまり、奥の絵を描くスペースへ戻ります。このとき、布巾は持ってきて筆洗いバケツの側に置きました。それで、これは絵を描く道具に紛れてしまったのです」
「しかし秘花ちゃん、ノブが被害者自身によって拭かれたことを知ってたんなら、言ってくれなきゃ」
 永瀬さんが不満げに口を挟む。秘花は素直に頭を下げた。
「はい、すみませんでした」
「僕が悪いんです、永瀬さん。絵具で手を汚したことを、すっかり忘れてました」
「まぁ、親しかった先輩が亡くなったんだ。動転してて無理もないよ。──それで、この温室は被害者も知らないうちに密室になっていたというんだね?」
「そうです。──薔薇を眺めていた颯子さんは、ふと思いついて鋏を手にしました。絵のために、枝や葉っぱの感じを整えようとしたんだと思います。颯子さんは元々は左利きで、両手が使えます。この時、鋏は左手で持ちました。彼女は左手に湿疹ができてしまい、塗っている薬がべたつくという理由で左手だけ綿の手袋をしていました。だから鋏には指紋がつかなかったのです。
 薔薇の手入れを終えた彼女は鋏を閉じてロックします。そして次に何かをしようとしているときに、運悪く貧血を起こしてよろめいた。座って休もうと、籐椅子とテーブルがあるほうへ鋏を掴んだままよろよろとやってきます。躓いたか何かでバランスを崩し、倒れた拍子に、不幸にも鋏が胸に刺さってしまったのです」
「……じゃあ、あれは事故……?」
「そうよ、奇士。颯子さんは病気が再発したからって自殺なんかしない。彼女がそんな人じゃないってことは、奇士がよく知ってるはずでしょう」
「……そして最後に薔薇の名前を書き残したってわけか」
 呟いたのはそれまでずっと黙っていた汀優だ。颯子先輩の父親違いの弟は、姉が倒れていた辺りの床を、じっと見つめた。
「なるほどねぇ……。意図せずしてできあがった密室での事故死か。確かに、自殺よりずっと納得がいく。──ところで秘花ちゃん、自殺じゃなくて事故だとしても、咲倉颯子の自室が荒らされていたことが引っかかるんだけど、あれは誰が何の目的でやったんだろう」
「あれは秀子さんの仕業です」
 淡々とした秘花の答えに、秀子が眉をつり上げた。
「あたくしの!? ちょっと、勝手な推測ででたらめ言わないでよね! 子どもだからって容赦しないわよ」
「でたらめではありません。秀子さんはこれを探していたはずです」
 秘花はカバンから茶封筒を取り出し、永瀬刑事に渡した。
「何だい、これは」
「颯子さんから預かったものです。見れば意味はすぐにわかりますよ」
「やめて!」
 青くなって秀子が叫ぶ。中を覗いた永瀬さんは写真を何枚か取り出した。
「……おやおや。これはこれは、お盛んなことで」
 何だろうと覗いた僕は目を丸くした。そこには若いイケメンにしなだれかかる秀子の姿がばっちり写っていた。どう見てもサラリーマンとかではなく、水商売系だ。
「ふーん。ホスト遊びがお好きなようですね、奥さん」
「やめてっ」
「秀子さん、あなたは颯子さんに自分の息子──誠司さんと結婚するようにしつこく勧めていたそうですね。颯子さんはそれを大層鬱陶しく思い、逆にあなたの身辺調査を興信所に依頼して、あなたがホスト遊びに耽溺していることを知った。そこで証拠写真を撮り、あなたを牽制したわけです。あなたは現在、離婚協議中で、これが夫方に知れたら不利に働きかねない。あなたは颯子さんが私たちと温室へ行ったことを知ると、頭痛がするので自室で休むと言って応接間を抜け出し、颯子さんの部屋を荒らしたのです」
「な、生意気な小娘ね! 知ったふうに言わないでちょうだいっ」
 秀子は金切り声で叫び、憤然と温室を出ていった。秘花は残った一同にぺこりと頭を下げ、澄んだ瞳で告げた。
「小娘の話を最後まで聞いてくださってありがとうございました」
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