第4話 微笑

文字数 2,385文字

 こんなことを言うと実に自分勝手なのだが、僕はひそかに病気に感謝してしまった。もし先輩が病気にならなかったらまったく出会えなかったのだから。
 そんな勝手な感謝までしたわりに、僕は先輩に自分の好意を一言も告げなかった。
 それどころか、気付かれるのが怖かった。先輩は朗らかで優しくて、『奇士(あやと)くん』と気さくに僕を呼び、楽しそうに喋ってくれた。
 週に二回、放課後の美術室で交わす他愛ない会話が僕にとっては特別な楽しみだったのだ。失うのが怖くて臆病になってしまうほどに。
 颯子(そうこ)先輩が卒業する時にも、やっぱり僕は何も言えなかった。差し出された手をおずおずと握っただけで、胸がいっぱいになってしまった。
 思えば颯子先輩に触れたのはそれが最初で最後だった。
 口ごもる僕を先輩はあの妖精の瞳で見つめて。アーサー王でも魔術師マーリンでもない僕は、かろうじて『お元気で』とかそんな月並みな言葉を口にするのが精一杯で。
 一拍置いて先輩は微笑み、『奇士くんも』と囁いた。そして先輩の姿は放課後の美術室から永遠に消えた。
 先輩が去っても僕は美術部に居残り、僕を無理やり引き込んだ部長も卒業して、気がつけば僕が部長になっていた。
 ほとんど絵を描くこともなく、画集を眺めたり美術史の本を読んでばかりいる僕が部長なんて笑ってしまうけど、これまた人的にやむを得ない事情であって。
 要するに今でも我が美術部は相変わらず廃部寸前なのである。
 颯子先輩を失った──というより、他には替えがたい何気なくも特別なひとときを失った痛みがようやく消えかけて、そしてまったく散文的な憂鬱に取り憑かれた、春。
 街の雑踏のなかで僕は聞いた。涼やかな眩しい声が『奇士くん!』と弾むのを。
 先輩の顔を認識した途端、何とも言えない気分が込み上げた。胸がぎゅっと絞り上げられて、甘酸っぱいようなほろ苦いような感覚が喉元にせり上がってきたのだ。
 言葉に詰まり、僕は近づいてきた颯子先輩をただ阿呆のように見つめていた。そんな僕に先輩は苦笑して。『やだ、忘れちゃった?』と言われて慌てて首を振り。かすれた声でもごもごと『びっくりしたもんで』と言い訳した。
 たまたま一緒だった秘花(ひめか)を妹だと紹介すると、先輩は一瞬、というか半瞬くらい戸惑ったようだったけど、いつものようにニッコリと笑った。
 その笑顔を見るとまたほろりとした気分が増して、どうにもこうにも僕は落ち着かなかった。勘の鋭い秘花は、へどもどする僕の様子にピンと来たことだろう。きっと後で冷やかされる。
 ゆっくり話したいから日を改めてお昼を食べに来ないかと誘われ、正直舞い上がった。再会したこと自体が奇跡みたいなのに、自宅にまで招かれるとは。
 舞い上がりすぎて、僕はハイハイと返事をしておきながら具体的な日取りや住所などの説明は脳みそを通過していった。秘花がいなかったら、恥を忍んで先輩の家に確認の電話をしなければならないところだった。
 黙って傍で聞いていただけの秘花が必要なことをすべて覚えていてくれたおかげで、こうして無事咲倉家にたどり着けたわけだ。
 裕福な家であることは噂で聞き知ってはいたが、実際、見晴らしのよい丘陵部の一角を占める敷地は隣家が見えないほど広く、屋敷はクラシックホテルみたいな洋館だ。
 白い壁に黒っぽい添え木がくっきりと映える。室内も天井が高くて広々していた。先輩の部屋は十二畳くらい。隣に寝室が続き部屋になっているようで、廊下側とは別に奥の壁にドアがついていた。
 壁には先輩の好きなフェルナン・クノップフの複製画が掛けられていた。『愛撫』。首から下が豹の姿の美女と半裸の美青年が頬を寄せ合っているという、神話的というか神秘的で意味深な絵だ。
 僕は何だかちょっとそわそわしてきて立ち上がり、絵をしげしげ眺めて気を紛らわそうとした。
「……この女のひと、何となく先輩と似てますよね」
「ええ? そうかなぁ」
「何かこう、雰囲気が」
 顔立ちが似ているとかそんなんじゃなくて。豹女は目を閉じているからどんなまなざしをしているのかわからないけれど、目を開けたらきっと颯子先輩みたいな、どこも見ていなくてすべてを見ているようなまなざしなんだろう。
 肩ごしに振り向くと、颯子先輩は悪戯っぽくニヤニヤしていた。
「豹女が何を象徴しているのかはさておいて。美人だから、ま、許してあげる」
 先輩は指を曲げ、猫が引っ掻くような仕種をしてみせた。苦笑いをして、僕はやっぱりダメだと覚った。来た早々、こんなことを口にするのは避けたかったのだが。
「あの~、お手洗いを貸してもらっていいですか」
「もちろんどうぞ。階段を降りて左側よ」
「すみません」
 ちろりと僕に向けられた秘花の視線に渋面を返し、僕は急いで部屋を出た。
 まったく子どもじみていてイヤになるが、先輩のお宅にお邪魔すると思うと妙にドキドキして昨夜はなかなか寝つけなかった。
 そして案の定、寝坊したわけで。『なんで起こしてくれなかったんだよ!?』とお決まりの八つ当たりをして。『三回起こした』と冷やかに秘花に言われて『四回起こせ』と言い返し。ギリギリで予定の時間のバスには間に合ったものの、個室でゆっくりしている暇はなかった。
 咲倉家の手洗いはうちの風呂場よりも広かった。さすが金持ちは違う。真鍮のハンガーにかかったタオルも厚手でフカフカだ。
 風に吹かれて乱れていた髪を直し、さっぱりした気分で颯子先輩の部屋に戻った。
 ノックをせずにドアを開けると、テーブルを挟んで向かい合っていた先輩と秘花が、ふたり同時にハッと顔を上げた。何だかまずいところに踏み込んでしまったような気がして、僕は反射的に謝った。
「あ、っと。すみません……?」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み