第5話 親族

文字数 1,916文字

「ああ、いいのよ。ちょっとね、女の子同士の話(ガールズ・トーク)をしてたの」
 秘花(ひめか)はとっくにいつもの無表情な人形顔に戻り、膝に載せていた小さなショルダーバッグを脇に置いた。
 何となく気まずいような雰囲気にぽりぽり頬を掻いていると、颯子(そうこ)先輩が仕切り直すように声を張った。
「せっかく天気がいいんだし、外へ行こっか。お昼までまだだいぶあるし、温室でのんびり話そうよ」
「温室があるんですか?」
「うん。父が造ったの。けっこう居心地いいのよ」
 颯子先輩に続き、秘花も立ち上がる。僕の視線を避けるように、さっさと廊下に出てしまった。いったい何の話をしてたんだ?
「あっ、鍵。──奇士(あやと)くん、悪いけど鍵を取ってくれる? 机の上の、お皿に入ってるはずなんだけど」
 言われるままに壁際の書き物机に近寄ると、かすかにお香の匂いがした。エスニック風の灰皿みたいなものに、クリップなどと一緒に鍵がひとつ置いてある。
 机の上には、他に文庫本が一冊載っていた。途中に栞が挟まれている。
「先輩、何だか難しそうな本、読んでるんですね」
「え? 何」
「『インディアスの破壊についての簡潔な報告』」
 タイトルを読み上げると先輩は苦笑した。
「ああ、それ。大学のゼミで使う参考文献なの。十六世紀に書かれたもので、インディアスというのはいわゆる新大陸のこと。著者のラス・カサスはドミニコ会の修道士でね。スペイン人のコンキスタドーレ──黄金に目が眩んだ非道な征服者によって先住民が大量に虐殺され、過酷な労働を強いられたり虐待を受けていることを告発したのよ」
「……告発したことで事態は改善したんですか?」
 廊下を歩きながら秘花が尋ねた。表情は薄いが興味を惹かれているらしい。颯子先輩は眉を曇らせてかぶりを振った。
「残念ながら。スペイン国王を動かして問題の根源であるエンコミエンダ制の改革までこぎつけたけど、入植者の強い抵抗にあって骨抜きにされてしまったの」
「今の法律と一緒ですね」
「本当ね」
 秘花の醒めた言葉に颯子先輩は苦笑した。
 エンコミエンダ制については世界史で習ったような気がするが、よく覚えていない。入試に出るだろうか、となどと考えてしまった僕の頭はすでに受験モードに侵食されているようだ。
 試験に出るかどうかを判断基準にしたくなんかないのに、この一年は割り切るしかないのだろうけど、何か釈然としないのだった。
 一階に降りると、咲倉家の家政婦と廊下で行き会った。
「あ、万里子(まりこ)さん。ちょうどよかった。少ししたら温室に紅茶を持ってきてくれる?」
「かしこまりました」
 万里子さんは愛想よく微笑んだ。僕たちはすでに彼女と顔を合わせていた。最初に応対に出たのがこの万里子さんだったのだ。五十代とおぼしき中肉中背の女性で、動作はきびきびしている。調理以外の家事全般を任せているとのことだ。咲倉家にはコックが別にいるのである。
「やぁ、颯子さん」
 万里子さんと別れて歩きだしたとたん、背後から声がかかった。
 振り向くと、廊下に面したドアのひとつが開いて、若い男が顔を出していた。二十代の半ばくらいか。わりと男前だが、その顔に浮かぶ笑いはあまり気持ちのよいものではなかった。こすっからいというか、小狡い感じの笑い方に思えた。腹に一物ある人間のニヤニヤ笑いだ。
「……あら。いらしてたんですか、誠司(せいじ)さん」
 颯子先輩の声にはうんざりしたような響きがにじんでいた。
「挨拶しようと思ったんだけど、来客中と聞いたので」
 そう言って僕たちを──正確には主に秘花を──無遠慮に眺めた。
 僕は秘花の前に出て奴の視線を遮った。秘花に対して露骨に興味本意な関心を示す奴には露骨な無礼な態度を敢えて取ることにしているのだ。不快に思われようが知ったことか。
「伯父さんも来てますよ。というか、母が呼びつけたんですけどね」
 誠司という男はおもねるように言った。先輩は諦めたのか思い切ったのか、肩をすくめて僕たちを促した。
「どうやら咲倉家の人々が勢ぞろいしてるみたいね。ちょうどいいわ、紹介しとく」
 ドアの向こうには誠司を含めて三人の人間がいた。和服を着た痩身の女性と、スーツにノーネクタイの小太りの男性、そして誠司だ。
 テーブルには三人分のコーヒーカップが出ていた。小太りの男が何だか申し訳なさそうな顔で、かなり寂しげな景色となった頭を掻いた。
「やぁ、颯子さん。突然お邪魔して申し訳ない」
「こんにちは、彰秀(あきひで)叔父様。──こちらは高校の後輩の月銀(つきしろ)奇士くんと、妹の秘花さん」
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