第15話 内外

文字数 1,850文字

「屋敷の裏手をぶらついていたとか言ってましたね」
 思い出して言うと、永瀬さんは頷いた。
「目撃者はいない。大体ぶらつくような場所じゃないよ、見晴らしも悪いし。加えて、被害者の残したメッセージもある」
「紅茶で書かれたダイイング・メッセージですね」
「そうだ。あれ、『ウヌ』と読めるだろう? ウヌマと書こうとして途中で力尽きたんだ」
 秘花(ひめか)は眉根を寄せて頷いたが、永瀬さんの意見を肯定したふうでもなかった。
「……鵜沼誠司が犯人だとして、彼はどうやってあの場から逃げたんでしょう。私たちは空中庭園から物音が聞こえた時、ちょうど庭にいたんです。温室への階段はずっと見えていました。でも、誰も階段を降りては来なかった」
 永瀬さんは腕を組んで嘆息した。
「そこなんだよなぁ……。あの温室にドアはひとつしかない。窓は幾つもあるが、全部縦長の細長い窓で、腕がやっと出せるくらいの幅しかないんだ。しかも温室の周囲には柴桜がびっしり植えてあって、踏み荒らされた形跡はどこにもない」
「温室の鍵はありましたか? 颯子さんが持っていたはずですが」
「ああ、被害者のポケットに入ってたよ。合鍵はひとつあって、これは家政婦の大野万里子が金庫で管理していた。金庫の鍵は万里子がいつも首から下げてる」
「万里子さんは事件の時、旦那さんと一緒に厨房にいた……」
「そういうこと。つまり鍵は中から閉められたわけだ。気体になって窓から出て行かない限り、あの温室からは出られない」
 僕たちは一様に腕を組んで唸った。どうやって犯人は脱出したのか。唯一の通路は三人の視線に晒されており、ドアは内側から施錠されていた。窓からは出られない。
「……鵜沼誠司は何と言ってますか」
「もちろん否認してるよ。勝手に婚姻届を出したことは認めたがね」
「それ、先輩は気付いたんでしょうか」
「誠司が言うには気付いてなかったようだ。そうだ、もうひとつ。被害者の部屋は荒らされていた。何かを探し回った痕跡がある」
「何か盗まれたんですか?」
「今のところは何も盗まれた様子はないな。部屋の主がいないんで何とも言えないが、少なくとも金品の類は無事のようだ。現金もクレジットカードも小切手帳も全部あった。誠司も知らないと言ってる」
「彼がやったのならお金は持っていきそうですね。お金に困っていたんでしょう?」
「そうなんだよな……。誠司が被害者を殺害した後、部屋を物色し、何食わぬ顔で屋敷から庭に出てきたっていうのが流れとしては自然に見えるんだけど、何かかみ合わない」
「凶器の指紋は。ドアノブはどうです?」
「鋏にあったのは被害者のものだけだ。刺さった鋏を抜こうとしたのか、反射的に掴んだんだろう。ドアノブの方は、外側には被害者のものと奇士くんのもの」
 それは当然だ。ガラスを割ってドアを開けたのは僕なんだから。
「内側が変なんだ。指紋が全然ない。きれいに拭われてる」
「内側のノブだけが?」
 ふと目を上げた秘花に永瀬さんは頷いた。秘花は眉根を寄せた。
「……私たちが温室を出たとき、ドアは開けっ放しだった。犯人は外側のドアノブは触らずにすんだわけよね」
「内側のドアノブを掴んでドアを閉めて凶行に及び、ノブを拭いて外に出て外側のノブには触らないようにしてドアを閉めて──。どうやって鍵をかけたんだろう」
「そんなことしてたら、犯人は奇士(あやと)と鉢合わせしてるわよ」
 そうだ。僕は茫然とした。温室の内側の鍵はツマミを横に倒すだけの単純なものだから針と糸なんかを使って閉めることはたぶん可能だろう。しかし、そんな細工をしている暇はなかったのだ。
「鵜沼誠司が透明人間だったら可能なのにな」
 永瀬さんが冗談とも本気ともつかぬ呟きを洩らす。しばし沈黙が降りた。
「……そういえば、颯子さんの弟さんは?」
 秘花の台詞で、僕はようやく汀優のことを思い出した。永瀬さんは姿勢を戻してメモ帳をめくった。
「えーとね。ああ、これこれ。汀優。──そうそう、こっちもなかなか複雑だよ。被害者と優は異父姉弟なんだ。優は伊津子とその前夫、汀克実の間に生まれた子だ。被害者とは年子だね。颯子の実父は不明。シングルマザーの伊津子は子連れで汀克実と結婚したわけだ。この克実って男はひどい酒乱でDVだったらしい。嫌気がさした伊津子は颯子を連れて家出、離婚した。それからまもなく克実は酔っぱらって家の階段から落ちて亡くなる。残された優は父方の親戚に引き取られた」
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