第3話 妖精

文字数 1,913文字

「どうして電話しなかったの? 迎えに行ったのに」
「いやぁ、徒歩十分の距離をわざわざ来てもらうのも……」
 僕たちの前にグレープフルーツジュースのグラスを置きながら、咲倉(さくら)颯子(そうこ)はクスリと笑った。紅潮した僕たちの顔を見ると彼女は苦笑して、『熱いお茶より冷たいもののほうがよさそうね』と言ったのだった。
「徒歩十分と言ってもけっこうな坂だもの。遠慮しなくていいのよ」
「いい運動になりました」
 照れ笑いして僕はジュースを飲んだ。氷は入っておらず、適度に冷えている。
 秘花(ひめか)は僕の隣にちょこんと座り、神妙な顔でストローを銜えていた。僕にとっては親しい先輩でも、秘花は彼女に会うのはこれでたったの二回目だ。人見知りというか、野生動物なみに警戒心の強い秘花は、なかなか人と打ち解けない。
 対照的に誰にでも気安く話しかけられる先輩は、軽く小首を傾げてニッコリした。
「秘花ちゃんも、来てくれて嬉しいな。今日はゆっくりしていってね」
 秘花は碧い瞳を上げ、無言でぺこりと会釈をした。僕はその頭を軽く小突いた。
「こら。ちゃんとお礼くらい言え」
「アリガトゴザイマス」
 たどたどしい発音は、もちろんわざとだ。つまり、颯子先輩をまだ信用してはいないと僕に告げているのである。
「先輩、こいつ見た目はともかく日本生まれの日本育ちで、母語は日本語ですから」
「うんうん、わかってる。いいなぁ、奇士(あやと)くん。仲のいい妹さんがいて」
「先輩はひとりっ子でしたっけ?」
「弟がいるよ。二歳違いの。――これ、去年撮ったんだけど」
 つ、と立ち上がり、颯子先輩は洒落たフォトフレームを僕に手渡した。その時になって、僕は先輩が左手に白い綿手袋をしていることに気付いた。
「どうしたんですか? 左手」
「指に湿疹ができちゃって、薬塗ってるの。べたべたするからこっちだけ手袋」
「先輩、左利きでしたよね。不自由でしょう」
 夕方の美術室で、左手で絵筆を握っていた颯子先輩の姿が思い出される。何ともいえない感慨で胸がざわめいた。
「右手も同じように使えるから平気よ」
「いいなぁ、両手利き」
 笑って写真に目をやると、そこには見慣れた笑顔の颯子先輩と、妙にむっつりした顔つきの少年が写っていた。二歳違いということは、十八か十九歳だ。どことなく翳のある整った風貌である。
「ふーん。あんまり似てませんね……。あ、すみません」
「父違いだから。子どもの頃に別れて、去年再会したの。ずっと会いたかったから、すごく嬉しかった」
 颯子先輩は写真を眺めて微笑んだ。その笑顔は言葉とは裏腹に、何だかちょっと寂しげだった。
 フォトフレームを戻しに先輩が立つ。僕は改めてぐるりと部屋を見回した。
 颯子先輩と話しているうちに、プチ鬱気分は吹き飛んでいた。先輩の私室にお邪魔しているのだと思うと、それだけで感激してしまう。
 咲倉颯子は僕にとって憧れのひとだった。友人はおろか顔見知りすらひとりもいない新しい土地での高校生活が始まってすぐ、僕は美術部に捕まった。伯父がそこそこ有名な画家で、珍しい名字ゆえすぐに勘づかれてしまったのだ。
 伯父とは血のつながりはないと言っても、人数的に存亡の危機だから籍だけでも置いといてと迫られて断れなかった。家庭の事情で部活動はしないつもりだったが、名前を貸すだけならいいかと思ったのだ。
 最初から幽霊部員のつもりだったのに、絵具の匂い漂う美術室で颯子先輩と出会ってしまったのだ。
 春の午後、微風に薄手の白いカーテンが揺れていた。少しうつむき加減にイーゼルに向かっていた颯子先輩が部長の声に顔を上げると、長い黒髪が制服の肩をさらりと滑った。
 黒目がちの瞳にじっと見つめられ、僕はドキリとした。
 先輩の瞳は独特だった。見つめていながら見ていない。あるいは、心の奥底を見透かされている──そんな気分になってしまう。
 後で気付いたのだが、颯子先輩の瞳はわずかに、ほんの少しだけ斜視気味なのだった。
 両眼の微妙な焦点の差異が、先輩の視線を妖精じみたものにしていた。妖精といっても透明な羽根を背中に生やした小さなフェアリーではなくて、アーサー王伝説に出てくる湖の貴婦人みたいな。
 もちろん、先輩には邪悪の翳などなかったけれど。
 美術部には、三年生が三人、二年生が二人いた。二年は当然として、同学年である三年生まで颯子先輩に敬語を使うのはなんでだろうと不思議に思っていたら、実は先輩は二度目の三年生、つまり本来ならすでに卒業している人なのだった。
 病気で長期入院をして出席日数が足りなくなったのだ。
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