第9話 伝説
文字数 1,431文字
「蔓薔薇とか、品種によっては棘のないものもあるのよ。ピースにはあるけど」
「本当に突然変異なんですねー」
「ピースはちょっと謎めいた逸話があるのよ。名前を付ける参考にいろいろ調べてみたらね、青い薔薇の血を引いているらしいの」
「青い薔薇って……、あれ紫色ですよね、どう見ても」
「そうね。これは伝説めいた話なの。イギリスのとある育種家が育てていた薔薇に突然変異で青い薔薇が咲いたそうなのよ。でも、それは焼き捨てられてしまった。でもね、その兄弟株から別な品種が造られて、さらにそれがピースに繋がってるの。だから、ピースには青い薔薇の血が受け継がれてるんだって」
「……青い薔薇 には『不可能』という意味がある」
またもやぽつりと秘花 が呟く。先輩は頷いた。
「らしいわね。わたしの英和辞典には載ってないんだけど。眉唾ものの話だとしても、ちょっとロマンを感じない? ピースには青い薔薇の血が、そしてピースから生まれた突然変異のこの薔薇は、青くはないけど不思議な香りがするでしょう? 何だか鼻の奥に来る感じ。何かを思い出しそうな、でも思い出せない、もどかしい感じになって、涙が出そうになるの」
「匂いは記憶を刺激するから……」
「初めてかいだ香りなのに、不思議に懐かしかったの。嗅覚がデジャ・ヴを起こしたみたいに」
「あ、それいいんじゃないですか。名前に」
「なに、デジャ・ヴ? そうねぇ……。でも、デジャ・ヴっていうとどうしても視覚的な感じになっちゃわない?」
「うーん、そうかも」
僕は腕を組み、少し離れて薔薇を眺めようと後退った。画材が置かれた小さな丸テーブルの足にかかとが当たり、バランスを取ろうとしてテーブルに手をついた拍子に思い切り絵具のチューブを押しつぶしてしまった。
「わっ、すみません!」
べっとりと赤い絵具が掌につく。何やってんの、と秘花が冷たいジト目を送った。
「大丈夫? ケガはない?」
「いえ。それより絵具が……」
「いいわよ、予備があるから。それより手を洗ってきたら? それ、水彩だから」
「そうします」
僕はぺこぺこして温室の入り口へ急いだ。
「あ、お手洗いの場所はね」
「大丈夫です、さっきお借りしたんで」
「そうだったわね」
「……あたしも行く」
そう言ってついてきた秘花が、いきなり大声を上げた。
「ちょっと、奇士 !」
「えっ? あっ」
赤い絵具がべったりついた手で、ドアハンドルを握ってしまった。
「何やってんのよ」
「ああっ、すみませんっ」
「大丈夫、ぬれ布巾があるから拭いておくわ。気にしないで。──あ、ドアは開けっ放しでいいわよ。少し風を入れるわ」
ぺこぺこ謝って階段を降りた。先に降りた秘花が門を開けてくれた。門も開けたままにして、僕たちは芝生の道を館へ急いだ。
秘花が個室を使っている間に、懸命に手を洗った。ちゃんと落とさないと、手を拭いた時にこの真っ白なふかふかタオルが汚れてしまう。それはとても申し訳ない気がする。
「……落ちたかな?」
出てきた秘花に尋ねてみる。秘花は僕の掌をじろじろ眺め、そっけなく頷いた。
「いいんじゃない」
廊下に出ると、声高に喋っている声がどこから聞こえてきた。何だかひどく切迫しているようだ。
僕らは顔を見合せて頷き、声のする方へ行ってみた。先ほど咲倉家の面々に紹介された応接間の扉が細く開いていて、そこから声が廊下に洩れていた。
「本当に突然変異なんですねー」
「ピースはちょっと謎めいた逸話があるのよ。名前を付ける参考にいろいろ調べてみたらね、青い薔薇の血を引いているらしいの」
「青い薔薇って……、あれ紫色ですよね、どう見ても」
「そうね。これは伝説めいた話なの。イギリスのとある育種家が育てていた薔薇に突然変異で青い薔薇が咲いたそうなのよ。でも、それは焼き捨てられてしまった。でもね、その兄弟株から別な品種が造られて、さらにそれがピースに繋がってるの。だから、ピースには青い薔薇の血が受け継がれてるんだって」
「……
またもやぽつりと
「らしいわね。わたしの英和辞典には載ってないんだけど。眉唾ものの話だとしても、ちょっとロマンを感じない? ピースには青い薔薇の血が、そしてピースから生まれた突然変異のこの薔薇は、青くはないけど不思議な香りがするでしょう? 何だか鼻の奥に来る感じ。何かを思い出しそうな、でも思い出せない、もどかしい感じになって、涙が出そうになるの」
「匂いは記憶を刺激するから……」
「初めてかいだ香りなのに、不思議に懐かしかったの。嗅覚がデジャ・ヴを起こしたみたいに」
「あ、それいいんじゃないですか。名前に」
「なに、デジャ・ヴ? そうねぇ……。でも、デジャ・ヴっていうとどうしても視覚的な感じになっちゃわない?」
「うーん、そうかも」
僕は腕を組み、少し離れて薔薇を眺めようと後退った。画材が置かれた小さな丸テーブルの足にかかとが当たり、バランスを取ろうとしてテーブルに手をついた拍子に思い切り絵具のチューブを押しつぶしてしまった。
「わっ、すみません!」
べっとりと赤い絵具が掌につく。何やってんの、と秘花が冷たいジト目を送った。
「大丈夫? ケガはない?」
「いえ。それより絵具が……」
「いいわよ、予備があるから。それより手を洗ってきたら? それ、水彩だから」
「そうします」
僕はぺこぺこして温室の入り口へ急いだ。
「あ、お手洗いの場所はね」
「大丈夫です、さっきお借りしたんで」
「そうだったわね」
「……あたしも行く」
そう言ってついてきた秘花が、いきなり大声を上げた。
「ちょっと、
「えっ? あっ」
赤い絵具がべったりついた手で、ドアハンドルを握ってしまった。
「何やってんのよ」
「ああっ、すみませんっ」
「大丈夫、ぬれ布巾があるから拭いておくわ。気にしないで。──あ、ドアは開けっ放しでいいわよ。少し風を入れるわ」
ぺこぺこ謝って階段を降りた。先に降りた秘花が門を開けてくれた。門も開けたままにして、僕たちは芝生の道を館へ急いだ。
秘花が個室を使っている間に、懸命に手を洗った。ちゃんと落とさないと、手を拭いた時にこの真っ白なふかふかタオルが汚れてしまう。それはとても申し訳ない気がする。
「……落ちたかな?」
出てきた秘花に尋ねてみる。秘花は僕の掌をじろじろ眺め、そっけなく頷いた。
「いいんじゃない」
廊下に出ると、声高に喋っている声がどこから聞こえてきた。何だかひどく切迫しているようだ。
僕らは顔を見合せて頷き、声のする方へ行ってみた。先ほど咲倉家の面々に紹介された応接間の扉が細く開いていて、そこから声が廊下に洩れていた。