18話:無慈悲な赤ちゃんプレイ
文字数 5,107文字
友人も出来、小さな体にも慣れ、そこそこ円満な異世界生活を謳歌していると彼が思っていた矢先。
「こ……これは……」
「おいステラ、コイツぁ一体どういうことだ?」
(……ん?)
近くでヒソヒソと話し声が聞こえた彼は、その声で目を覚ました。
目を開けると、ステラとミスターが揃って彼を見下ろしていて、いかんともしがたい表情を浮かべている。
「……?」
彼は何かあったのだろうかと思い、体を起こそうとしたのだが……。背中を曲げようにも、頭を持ち上げようにも、体が重く、思うように力が入らなかった。
「うー!」
次第に苛立ち、渾身の力を込めて体を揺さぶる。
「危ないっ!」
叫び声と一緒に伸ばされた彼女の両手が、彼の脇 にすっぽりハマる。彼はそこでまず嫌な予感がした。ドサリとソファから落ちる服。それは先日買ってもらったばかりの子供服だ。
「!!」
そして決定的な物が見えてしまった。辛うじて視界に入った自身の手。それはいつもよりさらに小さく、手首なんて、やけにムチムチでボンレスハムのように肉付きが良い。
(ま、まさかまさかまさかまさか――!?)
「ふっ、ふぎゃああああ!?」
訳:うっ、嘘だろおお!?
部屋に響き渡る、猫の鳴き声にも近い声。それは紛うことなく、彼の声帯から発せられていた。
「あらら」
ステラの胸に抱かれて、ただ泣き喚く事しかできぬアスター。そんな彼の緊急事態に、ステラはどうしたものかと困り顔で、ポンポンと背中を叩いてあやしてみるが……。
「おい、ステラ。このクソ生意気そうな顔と黒髪、コイツァもしかして」
ステラの頭から肩に乗り移り、ミスターは訝しげに彼を見た。
「もしかしなくともアスターさんよ。まさか、まだ小さくなるなんて……」
「あん?」
「でも良かった、今日はドクターが帰ってくる日だから」
ステラはキッチン脇のカレンダーを確認し、手早く身支度を済ませると、ブランケットでアスターを包 み、玄関へ向かった。
「ちょっと早いけど、私は協会に行くから。ミスターは家の事お願いね!」
「え? あ、おい! 俺様もっ」
ダメと一言制し、ステラは彼を連れ、家を出た。
***
普段は滅多に使わない地下鉄の車内。赤子を抱くにはまだ早い彼女に、居合わせた乗客のほんの一握りが、好奇の目を向ける中、ステラ・メイセンは顔を曇らせていた。
「はぁ……。まさか“これ”をしてもダメだったなんて……」
彼女の言う“これ”とは、ステラがアスターに作って渡したお守りの事だ。
「あうあーあぶぶ、あうぶぶう」
訳:大丈夫、多分、お前のせいじゃないから。
彼が伸ばした小さな手が、ステラの両頬に触れる。
お守りは、かろうじてまだアスターの腕に付いている状態であるが、実は昨日、彼はこれを一度外している。
(やっぱ、アレがいけなかったんだろうか)
ギルと一緒にクッキーを作った時、彼はお守りを外し、暫くポケットに入れていたのだ。
(パーティが終わって慌てて着けたから……多分、三時間位着けてないんだよな……)
そのせいで何か変化があったのなら、これは完全に自業自得。最初から彼女が気を病む事は無いという訳だ。
「だあう、あーうあう」
訳:だから、元気出せ。
「アスターさん。何言ってるのか全然分かんないです……」
(ですよね~)
「……でも、励ましてくれてるって事は分かります」
そう笑い、ステラは乗車ドアに体を預けた。
柔らかく吐いた溜息は窓を曇らせ、電車は時折音を立て揺れる。乗客達の会話は、彼にとって今は騒音という事もなく、少し心地いい程度だった。体に伝わるステラの温もりも相まって、アスターは眠気に襲われる。
「ステラ」
その時、何処からか男の声が彼女の名を呼んだ。
「?」
ステラが辺りを見渡すと、黒いコートに黒革の紐ブーツ、それにビジネスバックと全身黒ずくめの若い男が乗客の中をかき分け、彼女の前に現れた。
(あれ? こいつ確かあの時の)
アスターは、その人物に覚えがあった。
(スターチスさんの隣に居た、あの男だ)
「リド、今日も早いのね」
「あ、あぁ、俺は雑務があるから。君は――」
どうしてこんな時間に地下鉄に乗っているのか。そう言おうとしたリドが、うっと言葉に詰まったその理由。それは、アスターと目が合ったからである。
リドは少しの間を置いて、その子供は? と彼女に尋ねた。
「この子は、その……アスターさん。また小さくなっちゃって」
「……」
まさに絶句である。
どうしてこうなったのかまでは訊かないが、リドは心底呆れた表情を浮かべた。
「子供になったとは聞いてはいたが……、そいつは最終的に豆粒にでもなる気なのか?」
リドは大きくため息を吐くと、携帯端末を取り出し。手早く何かを打ち込んで、彼女にくるりと向き直る。
「室長に、出来るだけ早く出勤してくれるよう連絡したから」
「え! あ、ありがとうリド!」
「いや……」
不安や焦りを隠しきれていない、暗い表情だったステラの顔が、パッと明るくなった。その顔を見て、始終仏頂面だったリドも表情を緩ませる。
(この照れたような表情、ほわほわ漂う、何かしらの甘い雰囲気……)
「あぶあうあうぶー……」
訳:ラブの波動を感じる……。
この時、アスターは確信した。
リドがステラに好意を抱いているという事を。
(分かりやすいな)
なんて事を思っている間に、一行を乗せた車両は駅に着く。
時刻は午前六時半。人気 がまるでない協会は、空気が澄み、二人の足音が反響し、壁にあたって消えていく。
広々としたエントランスロビーを真っすぐ進み、階段を上がって、更に奥にある階段も上り、一同は二階の“とある部屋”へ入った。
(おー……)
部屋の天井には、金縁で丸く囲まれた綺麗な星空が描かれていた。
室内は、床に直置きされた木製ローテーブルを挟むように、常磐色のロングソファが二つ設置されており、白壁には絵画と肖像画が飾られている。ここは協会にある数ある談話室の内のひとつだ。
「寒くないですか?」
「あうう」
訳:大丈夫。
首をぎこちなく振り、否定する。
今、彼にできる事は、これと手を握って返す事だけだ。
「ステラ」
リドは、この部屋で唯一不釣り合いなウォーターサーバーから、少量のお湯と水を紙コップに混ぜ入れ、ステラに手渡した。アスターは、それを持てるかどうか訊かれたが、やはり上手く手を使う事が出来ず、ステラに補助されながら白湯を口へ運ぶことになった。
「かっはっ!」
口の両端から白湯が零れ、辛うじて口に入った水分は、空気と混じり気管に入る。
「ぶえぇー」
「あららら」
濡れた口元をハンカチで拭い、哺乳瓶が無くてはダメかとステラがこぼす。それはちょっと勘弁して欲しい所だとアスターはガチめに思った。そんな時。
「入ってもいいかい?」
ドアを軽くノックする音と共に、スターチスが扉を開けた。
「やあやあ、お困りのようで」
「おはようございます室長」
「おはようございます、スターチスさん。朝早くにすみません……」
「いやいや、いいよいいよ。どうせ家、すぐそこだしね」
前もってメールを貰っていたスターチスは、アスターに目が行くなり、一度吹き出すものの、ぐっと堪え、何事も無かったかのように平静を装いながら、歯はあるかとステラに尋ねた。
「アスターさん、アーンです、アーン」
「あー」
ステラとスターチスが、アスターの口の中を覗き込む。
そして同時に目を細めた。
「これはやっぱりミルクかな」
「ですね」
(⁉)
無慈悲な哺乳瓶宣告である。
アスターとしては、腹の減りすぎで、背中と腹がくっついてもいい。何とか哺乳瓶を咥える前に元に戻りたいところだ。
「服は今、子持ちの職員に声を掛けていてね。もう暫くそのままになってしまうけど、我慢できるかな?」
「あい」
そんなやり取りをしていると、またドアを叩く音と声が室内に響いた。
「誰かいるのぉ?」
やたらと甘ったる喋り方をするその声に、アスターは違和感しかなかった。
そして、開け放たれたそのドアから目が離せない。
「あら、皆さん、お揃いで~」
「ドクター!」
ステラにドクターと呼ばれたその者は、背丈はリドより少し高いくらいだろうか、全体的に赤みがかった髪は緩くうねり、前髪は片方だけ長く垂らしていて、襟足も長い。白衣の中に、真っ赤なYシャツと黒のネクタイがアンバランスに浮かぶ、ピンヒールをナチュラルに履きこなす優男だった。
そう、まるで女のような喋り方をしているが、声の通り男なのだ。
「ちょうど良かった。ルドラ君、君に診てもらいたい子がいるんだ」
「はい?」
「この子なんだけど」とスターチスはアスターをひょいと抱き上げる。
「あらやだ可愛いー! 誰の子!? どこの子~!?」
「あ、あのドクター、実はこの方は……」
テンション高めのルドラに、ステラは彼と出会った状況から、今朝の事までを搔い摘んで説明した。
「なるほどねぇ、この子が噂の。私も個人的に会ってみたかったのよね~」
(俺の話はどこまで広がっているんだ……)
アスターは何とも言えない微妙な気持ちになった。
その後、スターチスとリドは、仕事があると部屋を出ていき。残された者は、一階の第二医務室へと移動した。清潔感溢れる室内は、薬品の匂いが充満していて、少し肌寒い。
「んじゃ。パパッとやっちゃいましょっか~」
まず触診から始まり、体温、血圧測定、血液採取と様々な検査を行った。
「後は術式検査ね。でも赤ちゃんだし……大丈夫かしら?」
「あううー」
訳:大丈夫。
「大丈夫って言ってます」
「んまぁ、ふふふ」
それはよく分かるなという含み笑いだ。
「あら、ツルツルのすべすべ。お尻可愛い~」
「うぅ、ぐうぶぶぶうぇ……」
訳:くっ、屈辱的……。
彼は背中と尻が丸出しの状態で、診察台にうつ伏せにさせられた。アスターが生まれて初めて受けた術式検査は、暗がりの室内で行われ、ルドラが手にした筆と、青白く光るインク瓶。そして彼の不敵な笑みが、淡く光に照らされ、軽くホラーだった。
「さぁ、イ、ク、わ、よ♪」
瓶をかき回す、カチャカチャという音の後に、冷たい感触が彼の背に落ちた。途端、彼の背中から眩い光が放たれ、薄暗い室内を照らしだす。
「ちょっと……なによこれ……」
「……」
浮かび上がった物に、ルドラは困惑の声を上げた。その横のステラも、あまりの事に言葉を失っている。術式検査の結果は、想像以上に最悪な状態であった。
「あうー?」
訳:何だ?
アスターの声にルドラはハッと我に返り、彼の背中を見ては、カルテにペンを走らせた。その手は精密な機械の様に早く、そして膨大な量の“情報”を正確に記していく。
「はぁ……」
ルドラがカルテを十数枚書き終えた所で、やっと照明が付けられた。
(ち、沈黙が怖い……)
アスターは、ステラに背中を拭かれていた。
あれからも二人は言葉を発さず、アスターも喋る事が出来ないため、彼はずっと無言の気まずい雰囲気の中、不安に押しつぶされそうだった。そして今も、浮かない顔の二人が気になって気になってしょうがない。それほどまでに、その場の空気は異様だった。
「失礼、入るよ」
そこへ再びスターチスが現れた。
子持ちの職員から、使わなくなったベビー服を受け取ったと、わざわざ届けに来たのだ。
「少しサイズが合わないだろうけど、ずっとソレっていうのも何だしね」
スターチスは、彼が恥ずかしいだろうと、着替えも買って出た。
しかし……、アスターはその手に握られたオムツを見て戦慄した。
「ううー! だうぶぶあううー!」
訳:嫌だー! それだけは嫌だー!
「こらこら、そんなに暴れたら、後ろの二人に見えちゃうよ?」
「!」
「そうそう、ほら、いい子だねー。すーぐ済むからねー」
手際よく紙オムツを彼に装着させていくスターチス。そして、その手元で静かにガチ泣きしているアスター。この日、彼の中の大切な何かが失われたのは言うまでもない。
「こ……これは……」
「おいステラ、コイツぁ一体どういうことだ?」
(……ん?)
近くでヒソヒソと話し声が聞こえた彼は、その声で目を覚ました。
目を開けると、ステラとミスターが揃って彼を見下ろしていて、いかんともしがたい表情を浮かべている。
「……?」
彼は何かあったのだろうかと思い、体を起こそうとしたのだが……。背中を曲げようにも、頭を持ち上げようにも、体が重く、思うように力が入らなかった。
「うー!」
次第に苛立ち、渾身の力を込めて体を揺さぶる。
「危ないっ!」
叫び声と一緒に伸ばされた彼女の両手が、彼の
「!!」
そして決定的な物が見えてしまった。辛うじて視界に入った自身の手。それはいつもよりさらに小さく、手首なんて、やけにムチムチでボンレスハムのように肉付きが良い。
(ま、まさかまさかまさかまさか――!?)
「ふっ、ふぎゃああああ!?」
訳:うっ、嘘だろおお!?
部屋に響き渡る、猫の鳴き声にも近い声。それは紛うことなく、彼の声帯から発せられていた。
「あらら」
ステラの胸に抱かれて、ただ泣き喚く事しかできぬアスター。そんな彼の緊急事態に、ステラはどうしたものかと困り顔で、ポンポンと背中を叩いてあやしてみるが……。
「おい、ステラ。このクソ生意気そうな顔と黒髪、コイツァもしかして」
ステラの頭から肩に乗り移り、ミスターは訝しげに彼を見た。
「もしかしなくともアスターさんよ。まさか、まだ小さくなるなんて……」
「あん?」
「でも良かった、今日はドクターが帰ってくる日だから」
ステラはキッチン脇のカレンダーを確認し、手早く身支度を済ませると、ブランケットでアスターを
「ちょっと早いけど、私は協会に行くから。ミスターは家の事お願いね!」
「え? あ、おい! 俺様もっ」
ダメと一言制し、ステラは彼を連れ、家を出た。
***
普段は滅多に使わない地下鉄の車内。赤子を抱くにはまだ早い彼女に、居合わせた乗客のほんの一握りが、好奇の目を向ける中、ステラ・メイセンは顔を曇らせていた。
「はぁ……。まさか“これ”をしてもダメだったなんて……」
彼女の言う“これ”とは、ステラがアスターに作って渡したお守りの事だ。
「あうあーあぶぶ、あうぶぶう」
訳:大丈夫、多分、お前のせいじゃないから。
彼が伸ばした小さな手が、ステラの両頬に触れる。
お守りは、かろうじてまだアスターの腕に付いている状態であるが、実は昨日、彼はこれを一度外している。
(やっぱ、アレがいけなかったんだろうか)
ギルと一緒にクッキーを作った時、彼はお守りを外し、暫くポケットに入れていたのだ。
(パーティが終わって慌てて着けたから……多分、三時間位着けてないんだよな……)
そのせいで何か変化があったのなら、これは完全に自業自得。最初から彼女が気を病む事は無いという訳だ。
「だあう、あーうあう」
訳:だから、元気出せ。
「アスターさん。何言ってるのか全然分かんないです……」
(ですよね~)
「……でも、励ましてくれてるって事は分かります」
そう笑い、ステラは乗車ドアに体を預けた。
柔らかく吐いた溜息は窓を曇らせ、電車は時折音を立て揺れる。乗客達の会話は、彼にとって今は騒音という事もなく、少し心地いい程度だった。体に伝わるステラの温もりも相まって、アスターは眠気に襲われる。
「ステラ」
その時、何処からか男の声が彼女の名を呼んだ。
「?」
ステラが辺りを見渡すと、黒いコートに黒革の紐ブーツ、それにビジネスバックと全身黒ずくめの若い男が乗客の中をかき分け、彼女の前に現れた。
(あれ? こいつ確かあの時の)
アスターは、その人物に覚えがあった。
(スターチスさんの隣に居た、あの男だ)
「リド、今日も早いのね」
「あ、あぁ、俺は雑務があるから。君は――」
どうしてこんな時間に地下鉄に乗っているのか。そう言おうとしたリドが、うっと言葉に詰まったその理由。それは、アスターと目が合ったからである。
リドは少しの間を置いて、その子供は? と彼女に尋ねた。
「この子は、その……アスターさん。また小さくなっちゃって」
「……」
まさに絶句である。
どうしてこうなったのかまでは訊かないが、リドは心底呆れた表情を浮かべた。
「子供になったとは聞いてはいたが……、そいつは最終的に豆粒にでもなる気なのか?」
リドは大きくため息を吐くと、携帯端末を取り出し。手早く何かを打ち込んで、彼女にくるりと向き直る。
「室長に、出来るだけ早く出勤してくれるよう連絡したから」
「え! あ、ありがとうリド!」
「いや……」
不安や焦りを隠しきれていない、暗い表情だったステラの顔が、パッと明るくなった。その顔を見て、始終仏頂面だったリドも表情を緩ませる。
(この照れたような表情、ほわほわ漂う、何かしらの甘い雰囲気……)
「あぶあうあうぶー……」
訳:ラブの波動を感じる……。
この時、アスターは確信した。
リドがステラに好意を抱いているという事を。
(分かりやすいな)
なんて事を思っている間に、一行を乗せた車両は駅に着く。
時刻は午前六時半。
広々としたエントランスロビーを真っすぐ進み、階段を上がって、更に奥にある階段も上り、一同は二階の“とある部屋”へ入った。
(おー……)
部屋の天井には、金縁で丸く囲まれた綺麗な星空が描かれていた。
室内は、床に直置きされた木製ローテーブルを挟むように、常磐色のロングソファが二つ設置されており、白壁には絵画と肖像画が飾られている。ここは協会にある数ある談話室の内のひとつだ。
「寒くないですか?」
「あうう」
訳:大丈夫。
首をぎこちなく振り、否定する。
今、彼にできる事は、これと手を握って返す事だけだ。
「ステラ」
リドは、この部屋で唯一不釣り合いなウォーターサーバーから、少量のお湯と水を紙コップに混ぜ入れ、ステラに手渡した。アスターは、それを持てるかどうか訊かれたが、やはり上手く手を使う事が出来ず、ステラに補助されながら白湯を口へ運ぶことになった。
「かっはっ!」
口の両端から白湯が零れ、辛うじて口に入った水分は、空気と混じり気管に入る。
「ぶえぇー」
「あららら」
濡れた口元をハンカチで拭い、哺乳瓶が無くてはダメかとステラがこぼす。それはちょっと勘弁して欲しい所だとアスターはガチめに思った。そんな時。
「入ってもいいかい?」
ドアを軽くノックする音と共に、スターチスが扉を開けた。
「やあやあ、お困りのようで」
「おはようございます室長」
「おはようございます、スターチスさん。朝早くにすみません……」
「いやいや、いいよいいよ。どうせ家、すぐそこだしね」
前もってメールを貰っていたスターチスは、アスターに目が行くなり、一度吹き出すものの、ぐっと堪え、何事も無かったかのように平静を装いながら、歯はあるかとステラに尋ねた。
「アスターさん、アーンです、アーン」
「あー」
ステラとスターチスが、アスターの口の中を覗き込む。
そして同時に目を細めた。
「これはやっぱりミルクかな」
「ですね」
(⁉)
無慈悲な哺乳瓶宣告である。
アスターとしては、腹の減りすぎで、背中と腹がくっついてもいい。何とか哺乳瓶を咥える前に元に戻りたいところだ。
「服は今、子持ちの職員に声を掛けていてね。もう暫くそのままになってしまうけど、我慢できるかな?」
「あい」
そんなやり取りをしていると、またドアを叩く音と声が室内に響いた。
「誰かいるのぉ?」
やたらと甘ったる喋り方をするその声に、アスターは違和感しかなかった。
そして、開け放たれたそのドアから目が離せない。
「あら、皆さん、お揃いで~」
「ドクター!」
ステラにドクターと呼ばれたその者は、背丈はリドより少し高いくらいだろうか、全体的に赤みがかった髪は緩くうねり、前髪は片方だけ長く垂らしていて、襟足も長い。白衣の中に、真っ赤なYシャツと黒のネクタイがアンバランスに浮かぶ、ピンヒールをナチュラルに履きこなす優男だった。
そう、まるで女のような喋り方をしているが、声の通り男なのだ。
「ちょうど良かった。ルドラ君、君に診てもらいたい子がいるんだ」
「はい?」
「この子なんだけど」とスターチスはアスターをひょいと抱き上げる。
「あらやだ可愛いー! 誰の子!? どこの子~!?」
「あ、あのドクター、実はこの方は……」
テンション高めのルドラに、ステラは彼と出会った状況から、今朝の事までを搔い摘んで説明した。
「なるほどねぇ、この子が噂の。私も個人的に会ってみたかったのよね~」
(俺の話はどこまで広がっているんだ……)
アスターは何とも言えない微妙な気持ちになった。
その後、スターチスとリドは、仕事があると部屋を出ていき。残された者は、一階の第二医務室へと移動した。清潔感溢れる室内は、薬品の匂いが充満していて、少し肌寒い。
「んじゃ。パパッとやっちゃいましょっか~」
まず触診から始まり、体温、血圧測定、血液採取と様々な検査を行った。
「後は術式検査ね。でも赤ちゃんだし……大丈夫かしら?」
「あううー」
訳:大丈夫。
「大丈夫って言ってます」
「んまぁ、ふふふ」
それはよく分かるなという含み笑いだ。
「あら、ツルツルのすべすべ。お尻可愛い~」
「うぅ、ぐうぶぶぶうぇ……」
訳:くっ、屈辱的……。
彼は背中と尻が丸出しの状態で、診察台にうつ伏せにさせられた。アスターが生まれて初めて受けた術式検査は、暗がりの室内で行われ、ルドラが手にした筆と、青白く光るインク瓶。そして彼の不敵な笑みが、淡く光に照らされ、軽くホラーだった。
「さぁ、イ、ク、わ、よ♪」
瓶をかき回す、カチャカチャという音の後に、冷たい感触が彼の背に落ちた。途端、彼の背中から眩い光が放たれ、薄暗い室内を照らしだす。
「ちょっと……なによこれ……」
「……」
浮かび上がった物に、ルドラは困惑の声を上げた。その横のステラも、あまりの事に言葉を失っている。術式検査の結果は、想像以上に最悪な状態であった。
「あうー?」
訳:何だ?
アスターの声にルドラはハッと我に返り、彼の背中を見ては、カルテにペンを走らせた。その手は精密な機械の様に早く、そして膨大な量の“情報”を正確に記していく。
「はぁ……」
ルドラがカルテを十数枚書き終えた所で、やっと照明が付けられた。
(ち、沈黙が怖い……)
アスターは、ステラに背中を拭かれていた。
あれからも二人は言葉を発さず、アスターも喋る事が出来ないため、彼はずっと無言の気まずい雰囲気の中、不安に押しつぶされそうだった。そして今も、浮かない顔の二人が気になって気になってしょうがない。それほどまでに、その場の空気は異様だった。
「失礼、入るよ」
そこへ再びスターチスが現れた。
子持ちの職員から、使わなくなったベビー服を受け取ったと、わざわざ届けに来たのだ。
「少しサイズが合わないだろうけど、ずっとソレっていうのも何だしね」
スターチスは、彼が恥ずかしいだろうと、着替えも買って出た。
しかし……、アスターはその手に握られたオムツを見て戦慄した。
「ううー! だうぶぶあううー!」
訳:嫌だー! それだけは嫌だー!
「こらこら、そんなに暴れたら、後ろの二人に見えちゃうよ?」
「!」
「そうそう、ほら、いい子だねー。すーぐ済むからねー」
手際よく紙オムツを彼に装着させていくスターチス。そして、その手元で静かにガチ泣きしているアスター。この日、彼の中の大切な何かが失われたのは言うまでもない。