02話:未知なる鉱石ライネック
文字数 4,326文字
その後、少女は外の様子を見てくると言い、彼は一人、洞窟内に残されていた。
「う……ん」
それからどれだけ時間が経っただろう。
うたた寝をしていた彼が気がついた時には、既に焚き火の炎は消えていて、空は赤く色付こうとしていた。
「あの子は……」
すぐ戻ると言っていた少女の姿は無い。
(そりゃそうか、俺みたいな得体のしれない……しかも全裸の男なんて、本来なら死んでも関わり合いになりたくないよな)
これが普通。自然の成り行きなのだと自分に言い聞かせた。
途端、孤独感と恐怖感に襲われる。
「……」
木の葉が風に揺れる音さえ、得体の知れない何かがそこにいるかもしれないと、またドラゴンに襲われるかもしれないと思えてしまう。
カチカチ、カチカチ。
恐怖と寒さで顎が震え、歯と歯がぶつかる音だけが洞窟内に響いている。
「……っ」
(もうあの子は居ない)
今度こそ一人ぼっちになってしまった。
彼は絶望の中、残された少女のマントを抱きしめた。自分はこのまま一人、孤独に死ぬのだろうか。そんな不安感に比例して、体温が指先から徐々に低くなっていく。
「え……?」
いや違う。
それに気付いた時には既に遅く、冷たい感触が右手から顔面に向かって伸びていた。
「うわっ!」
驚いた彼は仰け反った。
しかし右腕は既に、黒い棘のようなもので覆われている。
キシキシと硬い何かがせめぎ合う音が、肌を伝い耳に届く。
「目と口を閉じてください! 早く!」
洞窟内に、凛々しくも幼い声が響いた。
その言葉にハッと我に返り、彼は体に力を入れた。
「――っ」
勢いに任せ無理やり口を閉じたからか、棘が口元に当たり、唇を少し切った。けれど、それ以外に痛みのある個所は無い。彼はホッと胸を撫でおろすが、右半身はあっという間に得体の知れぬ棘で覆われ、いつの間にか身動きがとれなくなっていた。
そんな状態ではあるが、やっと動きを止めたソレに少女も安堵し、大きく息を吐く。
そう、あの少女が戻ってきたのだ。
「こんな大きなライネック見た事ない……。なんで……それにもう“夕方”なのに……」
少女はそう言いながら、険しい顔で彼を見た。
いや、正確には彼の右半身だけを見ていた。
「大丈夫ですからね」
だから安心してくださいと、少女は恐る恐る彼の左手を握り、精一杯笑ってみせた。
「……大丈夫、大丈夫」
念仏のように繰り返される言葉は、彼に、というよりも、彼女自身を奮い立たせているようだった。
「進行は止まってる……でもこのままじゃ……」
少女が顔を顰 める。
それから暫く沈黙が流れるも、その表情はどんどん曇っていくばかりだった。そして――。
「ごめんなさい。これしかもう、方法が無いんです」
そう謝る少女の片側だけ長い横髪が、ふわりと彼の肩に落ちる。
「!」
次の瞬間、柔らかな唇の感触が彼の唇に重なった。
甘い味と血の味が、口の中でじわりじわりと交わっていく。
自分は今、この子と何をしているのだろうか。重なる唇と、時折漏れる温かな吐息に戸惑いつつ、全身は血液が沸騰するかのように、熱くなっていく。
「は……」
塞がれていた口元に冷たい空気が当たる。
丸みを帯びた吐息が彼の耳に残る。けれどその余韻はすぐにかき消される事になる。
「少し、痛い思いをさせるかもしれませんが……私を信じて、身を預けてください。絶対に助けます」
なにかを決心したかのように、振り向きざまに笑顔を向けたその時だ。少女はすぐに距離を取り、またあの杖を彼に向けた。
「お願い皆……私に力を貸して」
少女がそう言った直後、凄まじい衝撃が彼にぶつかる。
そして黒い棘が何かの力で引っ張られ、ガラスが割れるような音が肌を伝う。
「あああああああ!!」
皮膚を剥がされるような強烈な痛みに襲われ、彼は痛みに耐え切れず、絶叫した。
***
「う……」
次に目覚めた時には、洞窟から遠く離れた場所に、まるで簀巻きにでもされたかのような状態で寝かされていた。意識が戻った事に、少女が気付き、すぐさま声を掛ける。
「気がつかれましたか? あの、体の方は大丈夫ですか? 気分が悪いとか。吐きそうとか、頭が痛いとか――ええと、そのっ、すっごくしんどいとか!」
「いや、そういうのはないけど……」
(あれは、夢じゃなかったのか)
未だ状況を掴めていない彼、しかし体調は良好だった。全身は衣類に包まれ体温が保たれている上、先ほどまでの事が嘘のように何ともない。
「――くしゅんっ」
「だ、大丈夫か?」
そんな彼とは反対に、少女の体は酷く冷えていた。
洞窟の中とはまた違い、日の暮れた森の中は風が冷たく、地面も容赦なく体温を奪っていたからだ。
それもそのはず、焚き火のそばとはいえ、この寒空の下。彼女は薄手のブラウスに袖なしのセーター、それにエンジ色の短いスカート姿という軽装で、長時間風に当たっていたのだ。
彼は慌てて自分に貸し与えられていたマントを返そうと、それを掴んで起き上がる。
「あ、あれ?」
しかし体に巻き付けられていたのは、あの白いマントではなかった。
黒いジャケットに赤いシャツ、それにカーキ色のズボンが、地面に散らばっていく。
「サイズが合わないかもしれないんですけど、着れそうなものを買ってきたので使ってください」
「えっ!?」
驚く彼に、少女はまだ紙袋に入ったままの、新品の下着類や靴を手渡した。少女曰く、この近くには街があり、外の様子を見がてら買ってきたのだという。
「すみません、戻るのが遅くなってしまって」
「い、いやいやいやいや! むしろありがたいっていうか! そういう事だったんだなーって」
「?」
「あ、いや、えーと。とと、とにかく着替えてくる」
未だに視線を泳がせ、目のやり場に困っている少女を残し、彼は受け取った服一式を持って茂みに入る。
「はぁ……」
(俺は、さっきあの子と……)
まだ感触が残っているのではないかと、彼は自分の唇に指で触れた。唇はいつも通りガサガサに荒れているが、まだ熱を持っているような、そんなむず痒い気持ちに戸惑う。
「あの」
「う、うん!?」
木を一本隔てた場所から、少女が声を掛ける。
「本当にすみません……」
「え?」
少女の声は、心なしか震えていた。
「あれは……あの黒い鉱石は“ライネック”と言って、寄生した宿主の魔力 や生命力 を奪います。だから私、ライネックを排除する前に魔力を貴方に移さなければ、手遅れになると思って……。ごめんなさい。貴方の意思を聞かずにあんな……勝手な事をしてしまって……」
時折言葉を詰まらせ、涙ぐむ少女。
少女が何を言っているのか理解出来ない彼は、どうであれこうして助かっているのだから、気に病む事はないと笑って答えた。
「でも……」
「確かにビックリしたけどさ、俺は嬉しかったんだ」
「え?」
「あ、いや、その! 変な意味じゃなくてだなっ、あの時はもう戻って来てくれないんじゃないかって思って! だからその」
普通、こんな得体の知れない男なんて、放っておくだろうと続ける。
「このまま一人で死ぬんだな~。なんて考えてた時だったからさ。ほんと、生きてるだけでめっけもんっていうか。戻ってきてくれて凄い嬉しかったっていうかさ」
着替えも終り、茂みから出ると、大きな赤い瞳に涙を溜める少女と目が合った。桃色の、右側だけ長く垂れ流した横髪に、色々と未発達な華奢な身体。歳は十五そこいらだろうと推測しつつ、しげしげと見続けた。
「あの?」
「ご、ごめん!」
(しまった! 見すぎた!)
「そ、そう言えば、お互いまだ名乗っても無かったな!」
「そうですね。申し遅れました。私は魔道士協会所属の魔道士、ステラ・メイセンと申します」
(魔道士……って事はやっぱり魔法使いとか魔女とか、そういう類なんだな)
そんな事を思いながら、今度は自分が名乗ろうと、彼は口を開けた。
「あ……れ?」
しかし、その口からは困惑の声しか出なかった。
きっとまだ混乱しているのだ、でなければおかしいと自分に言い聞かせる。
(名前が……出てこない――⁉)
額から汗が流れる。
不思議な事に、思い出そうにも何かに書き記した記憶も、誰かに呼ばれた記憶さえ、最初から無かったかのように、すっぽり抜け落ちているのだ。
「何で……」
不安は恐怖に変わり、心臓は早鐘を打つ。
「大丈夫ですか?」
そんな彼の震える手を、ステラが優しく手に取った。
「ごめ、なんか、自分でもよく分からなくて。だって……おかしいだろ? 名前が、名前だけが思い出せないなんて」
思い出はあるのに、名前が無い。
彼にはそれが凄く怖く感じた。
次第に汗と涙と混じり合い、ポタポタと地面に落ちていく。
「じゃあ付けましょう」
「へ?」
そして少しの沈黙が流れた後、ステラが言う。
「名前ですよ。だって名前が無いと、貴方の事を呼べないじゃないですか」
まるで光が差し込んだように衝撃的で、救いの言葉のようだと彼は思った。
彼女が、さて何にしようかと空を見上げる。それに釣られて彼も上を向く。
「うわ……」
目に飛び込んできたのは、とても幻想的な夜空だった。
星はこんなにも力強く輝きを放つものだったか。幾千光年先から瞳に差し込むソレは、目眩がする程煌々と光り輝き、親子の様に寄り添う二つの月が、優しい光で二人を照らす。
「アスター」
「え?」
火にくべた枝が爆ぜた時、ステラがその名を呟いた。
「私と同じ、“星”という意味を持つ名前なのですが、この名前はどうでしょう?」
「アスター……」
その唐突に付けられたその名は、日本人要素ゼロであるにも関わらず、彼にとって、もうそれしか無いと思わせる程しっくりきた。
嬉しさのあまり、アスターの目尻に涙が溜まる。
「駄目ですか?」
「いや、凄く気に入ったよ。ありがとう……いい名前だ」
笑顔を取り戻したアスターに、彼女が優しく微笑む。
(あぁ、彼女は知らない。彼女のおかげで、心も体も、俺がどんなに救われたかを。このよく分からない世界で、最初に出会ったのが彼女で良かった)
彼の心は、温かな感情で満たされていた。
「う……ん」
それからどれだけ時間が経っただろう。
うたた寝をしていた彼が気がついた時には、既に焚き火の炎は消えていて、空は赤く色付こうとしていた。
「あの子は……」
すぐ戻ると言っていた少女の姿は無い。
(そりゃそうか、俺みたいな得体のしれない……しかも全裸の男なんて、本来なら死んでも関わり合いになりたくないよな)
これが普通。自然の成り行きなのだと自分に言い聞かせた。
途端、孤独感と恐怖感に襲われる。
「……」
木の葉が風に揺れる音さえ、得体の知れない何かがそこにいるかもしれないと、またドラゴンに襲われるかもしれないと思えてしまう。
カチカチ、カチカチ。
恐怖と寒さで顎が震え、歯と歯がぶつかる音だけが洞窟内に響いている。
「……っ」
(もうあの子は居ない)
今度こそ一人ぼっちになってしまった。
彼は絶望の中、残された少女のマントを抱きしめた。自分はこのまま一人、孤独に死ぬのだろうか。そんな不安感に比例して、体温が指先から徐々に低くなっていく。
「え……?」
いや違う。
それに気付いた時には既に遅く、冷たい感触が右手から顔面に向かって伸びていた。
「うわっ!」
驚いた彼は仰け反った。
しかし右腕は既に、黒い棘のようなもので覆われている。
キシキシと硬い何かがせめぎ合う音が、肌を伝い耳に届く。
「目と口を閉じてください! 早く!」
洞窟内に、凛々しくも幼い声が響いた。
その言葉にハッと我に返り、彼は体に力を入れた。
「――っ」
勢いに任せ無理やり口を閉じたからか、棘が口元に当たり、唇を少し切った。けれど、それ以外に痛みのある個所は無い。彼はホッと胸を撫でおろすが、右半身はあっという間に得体の知れぬ棘で覆われ、いつの間にか身動きがとれなくなっていた。
そんな状態ではあるが、やっと動きを止めたソレに少女も安堵し、大きく息を吐く。
そう、あの少女が戻ってきたのだ。
「こんな大きなライネック見た事ない……。なんで……それにもう“夕方”なのに……」
少女はそう言いながら、険しい顔で彼を見た。
いや、正確には彼の右半身だけを見ていた。
「大丈夫ですからね」
だから安心してくださいと、少女は恐る恐る彼の左手を握り、精一杯笑ってみせた。
「……大丈夫、大丈夫」
念仏のように繰り返される言葉は、彼に、というよりも、彼女自身を奮い立たせているようだった。
「進行は止まってる……でもこのままじゃ……」
少女が顔を
それから暫く沈黙が流れるも、その表情はどんどん曇っていくばかりだった。そして――。
「ごめんなさい。これしかもう、方法が無いんです」
そう謝る少女の片側だけ長い横髪が、ふわりと彼の肩に落ちる。
「!」
次の瞬間、柔らかな唇の感触が彼の唇に重なった。
甘い味と血の味が、口の中でじわりじわりと交わっていく。
自分は今、この子と何をしているのだろうか。重なる唇と、時折漏れる温かな吐息に戸惑いつつ、全身は血液が沸騰するかのように、熱くなっていく。
「は……」
塞がれていた口元に冷たい空気が当たる。
丸みを帯びた吐息が彼の耳に残る。けれどその余韻はすぐにかき消される事になる。
「少し、痛い思いをさせるかもしれませんが……私を信じて、身を預けてください。絶対に助けます」
なにかを決心したかのように、振り向きざまに笑顔を向けたその時だ。少女はすぐに距離を取り、またあの杖を彼に向けた。
「お願い皆……私に力を貸して」
少女がそう言った直後、凄まじい衝撃が彼にぶつかる。
そして黒い棘が何かの力で引っ張られ、ガラスが割れるような音が肌を伝う。
「あああああああ!!」
皮膚を剥がされるような強烈な痛みに襲われ、彼は痛みに耐え切れず、絶叫した。
***
「う……」
次に目覚めた時には、洞窟から遠く離れた場所に、まるで簀巻きにでもされたかのような状態で寝かされていた。意識が戻った事に、少女が気付き、すぐさま声を掛ける。
「気がつかれましたか? あの、体の方は大丈夫ですか? 気分が悪いとか。吐きそうとか、頭が痛いとか――ええと、そのっ、すっごくしんどいとか!」
「いや、そういうのはないけど……」
(あれは、夢じゃなかったのか)
未だ状況を掴めていない彼、しかし体調は良好だった。全身は衣類に包まれ体温が保たれている上、先ほどまでの事が嘘のように何ともない。
「――くしゅんっ」
「だ、大丈夫か?」
そんな彼とは反対に、少女の体は酷く冷えていた。
洞窟の中とはまた違い、日の暮れた森の中は風が冷たく、地面も容赦なく体温を奪っていたからだ。
それもそのはず、焚き火のそばとはいえ、この寒空の下。彼女は薄手のブラウスに袖なしのセーター、それにエンジ色の短いスカート姿という軽装で、長時間風に当たっていたのだ。
彼は慌てて自分に貸し与えられていたマントを返そうと、それを掴んで起き上がる。
「あ、あれ?」
しかし体に巻き付けられていたのは、あの白いマントではなかった。
黒いジャケットに赤いシャツ、それにカーキ色のズボンが、地面に散らばっていく。
「サイズが合わないかもしれないんですけど、着れそうなものを買ってきたので使ってください」
「えっ!?」
驚く彼に、少女はまだ紙袋に入ったままの、新品の下着類や靴を手渡した。少女曰く、この近くには街があり、外の様子を見がてら買ってきたのだという。
「すみません、戻るのが遅くなってしまって」
「い、いやいやいやいや! むしろありがたいっていうか! そういう事だったんだなーって」
「?」
「あ、いや、えーと。とと、とにかく着替えてくる」
未だに視線を泳がせ、目のやり場に困っている少女を残し、彼は受け取った服一式を持って茂みに入る。
「はぁ……」
(俺は、さっきあの子と……)
まだ感触が残っているのではないかと、彼は自分の唇に指で触れた。唇はいつも通りガサガサに荒れているが、まだ熱を持っているような、そんなむず痒い気持ちに戸惑う。
「あの」
「う、うん!?」
木を一本隔てた場所から、少女が声を掛ける。
「本当にすみません……」
「え?」
少女の声は、心なしか震えていた。
「あれは……あの黒い鉱石は“ライネック”と言って、寄生した宿主の
時折言葉を詰まらせ、涙ぐむ少女。
少女が何を言っているのか理解出来ない彼は、どうであれこうして助かっているのだから、気に病む事はないと笑って答えた。
「でも……」
「確かにビックリしたけどさ、俺は嬉しかったんだ」
「え?」
「あ、いや、その! 変な意味じゃなくてだなっ、あの時はもう戻って来てくれないんじゃないかって思って! だからその」
普通、こんな得体の知れない男なんて、放っておくだろうと続ける。
「このまま一人で死ぬんだな~。なんて考えてた時だったからさ。ほんと、生きてるだけでめっけもんっていうか。戻ってきてくれて凄い嬉しかったっていうかさ」
着替えも終り、茂みから出ると、大きな赤い瞳に涙を溜める少女と目が合った。桃色の、右側だけ長く垂れ流した横髪に、色々と未発達な華奢な身体。歳は十五そこいらだろうと推測しつつ、しげしげと見続けた。
「あの?」
「ご、ごめん!」
(しまった! 見すぎた!)
「そ、そう言えば、お互いまだ名乗っても無かったな!」
「そうですね。申し遅れました。私は魔道士協会所属の魔道士、ステラ・メイセンと申します」
(魔道士……って事はやっぱり魔法使いとか魔女とか、そういう類なんだな)
そんな事を思いながら、今度は自分が名乗ろうと、彼は口を開けた。
「あ……れ?」
しかし、その口からは困惑の声しか出なかった。
きっとまだ混乱しているのだ、でなければおかしいと自分に言い聞かせる。
(名前が……出てこない――⁉)
額から汗が流れる。
不思議な事に、思い出そうにも何かに書き記した記憶も、誰かに呼ばれた記憶さえ、最初から無かったかのように、すっぽり抜け落ちているのだ。
「何で……」
不安は恐怖に変わり、心臓は早鐘を打つ。
「大丈夫ですか?」
そんな彼の震える手を、ステラが優しく手に取った。
「ごめ、なんか、自分でもよく分からなくて。だって……おかしいだろ? 名前が、名前だけが思い出せないなんて」
思い出はあるのに、名前が無い。
彼にはそれが凄く怖く感じた。
次第に汗と涙と混じり合い、ポタポタと地面に落ちていく。
「じゃあ付けましょう」
「へ?」
そして少しの沈黙が流れた後、ステラが言う。
「名前ですよ。だって名前が無いと、貴方の事を呼べないじゃないですか」
まるで光が差し込んだように衝撃的で、救いの言葉のようだと彼は思った。
彼女が、さて何にしようかと空を見上げる。それに釣られて彼も上を向く。
「うわ……」
目に飛び込んできたのは、とても幻想的な夜空だった。
星はこんなにも力強く輝きを放つものだったか。幾千光年先から瞳に差し込むソレは、目眩がする程煌々と光り輝き、親子の様に寄り添う二つの月が、優しい光で二人を照らす。
「アスター」
「え?」
火にくべた枝が爆ぜた時、ステラがその名を呟いた。
「私と同じ、“星”という意味を持つ名前なのですが、この名前はどうでしょう?」
「アスター……」
その唐突に付けられたその名は、日本人要素ゼロであるにも関わらず、彼にとって、もうそれしか無いと思わせる程しっくりきた。
嬉しさのあまり、アスターの目尻に涙が溜まる。
「駄目ですか?」
「いや、凄く気に入ったよ。ありがとう……いい名前だ」
笑顔を取り戻したアスターに、彼女が優しく微笑む。
(あぁ、彼女は知らない。彼女のおかげで、心も体も、俺がどんなに救われたかを。このよく分からない世界で、最初に出会ったのが彼女で良かった)
彼の心は、温かな感情で満たされていた。