15話:訊きたいこと
文字数 2,697文字
少年は住宅街を抜け、市街地へ駆けていく。
あれからどれぐらい走っただろう。少年は勝手知ったる土地だろうが、アスターは新参者。相手の逃げた道を追うしか選択肢が無いというのは、実に効率が悪いと思い知る。鈍りきった体、整う事のない呼吸、そして脇腹に刺すような痛みが走る。
「全っ然っ追いつかねぇ!」
大きな道から脇道に入られてしまい、彼がここまでかと諦めかけたその時。何かが大量に割れた音と、野太い男の怒号が飛んだ。
「あーあーあーあーっ! こんなにしちまってどうしてくれんだ!」
駆けつけると、そこは一面真っ赤に染まっていた。
果物や土、そして酒の匂いが混じって酷い臭気だ。
「な、なんだ?」
彼が目視できたのは、何本割れたのか分からない瓶の残骸と、アスファルトに染み込まず、どんどん道に広がる赤黒い液体だった。傍には倒れ込みガタガタと震えているあの少年の姿と、血管が切れそうな程怒り狂うガタイのいい男が立っている。
(ここ、酒場か……?)
状況を見るに、酒類を搬入中に少年が飛び出し、箱ごと落としてしまったのだろうとアスターは推測した。路肩に寄せられたトラックの荷台は、まだ空いたままで、ラベルの貼られた木箱を沢山積んでいたからだ。
「聞いてんのか! あぁ!?」
吠えるような男の声に、少年は嗚咽混じりの消え入るような声で許しを乞う。
「ごめ……なさ……ごめ…………ゆるし……」
「あぁん!? ハッキリ喋れハッキリ!!」
少年が謝ったところで怒りが静まる事はなく、男はその苛立ちを、地に転がる酒瓶に移した。酒に濡れたアスファルトの上を酒瓶が勢い良く転がっていく。
(まずいな)
どちらに非があるかは明白。
けれど、小さな子供に対し、あのように暴力的に怒り狂う姿は見ていて気持ちの良いものではない。彼は怒りの矛先が少年の体へと移ってしまう前に、思い切って声を掛ける事にした。
「すみませんっ、そいつ俺の友達なんです。俺が追いかけっこしようっていったから……俺が悪いんです! 怒るなら俺も怒ってください!」
聞きしに勝る名演技とまではいかないが、男は彼の突然の登場に混乱したのか、ぐっと言葉を詰まらせた。そこへ――。
「それくらいにしといておやりよ」
酒焼けした声の女が、酒場から出るなり自制を促す。
男に劣らず、縦にも横にも貫禄のある中年の女は、すぐさま少年の元へ行き、へたり込んでいた少年を抱き起こした。
「怪我ぁ無いかい? まったく、こんなに汚しちまってなぁ」
「あ……ありがと……ござい、ます」
「いいんだよぉ、この人がグズグズ運んでるからいかんのさ」
「なっ!」
「アンタ! この辺は子供が多いんだから! 気ぃつけなっていつも言ってんだろ! それともなにかい? アンタの耳はマカロニだったのかい!?」
茹でで食うぞと耳を摘ままれ、嫌がる男。
「いてぇ、いてぇよ母ちゃん!」
「ちゃんと聞いてんのかい!? えぇ!?」
そんな夫婦の犬も食わない喧嘩を、店の中から飲んだくれの客達がもっとやれと野次を飛ばす。その野次馬の中の一人、酒瓶片手のヒゲ親父がふらりと少年の傍に立つ。
「まぁーガキはこれくらい元気じゃなきゃーな、俺等がジジババになった時、おんぶに抱っこしてもらわにゃ! 腰が痛くてしょうがねぇわ!」
その横でまた別の野次馬が道へしゃがみ込み、無残に流れた酒を恨めしそうに見つめ、ため息を漏す。
「しっかし、もったいねぇなー。道にくれてやるくれぇなら、俺がタダ酒飲みたかったぜ」
「アンタにタダ酒飲ますくらいなら、その辺の草にくれてやったほうがまだいいさね。酒臭い息しか吐かないアンタと違って、草は空気を綺麗にしてくれるからね」
「はっはっは! 違いねぇや!」
(何だこの状況……)
険悪なムードから一変。アスターは、まるで芝居でも見せられているかのような気分になった。
(あぁ、でも)
アスターは少年の顔をチラリと見た。先程まで泣きっ面だったあの少年が、いつの間にか体の強張りを解いていた事に、ホッと胸を撫でおろす。
「ほれ、ここはガラスが散って危ないからね。向こうで遊んでおいで。でも角を曲がる時は、走らず、周りに気を付けるんだよ」
「は、はい」
「それと、いい友達だね。大事にしな」
優しくそう囁く女将の言葉は少年に届いただろうか。
二人はそのまま背中を押され、酒場から離れた道の端へと移動した。
「おい、ちゃんと謝るぞ」
アスターは少年の背中をバンと叩き、せーのと声を合わせた。
「本当に、ごめんなさい!」
「ごめんなさい!!」
息ピッタリとまではいかなかったが、二人は誠心誠意謝った。きっと気持ちは届いただろう。
「ちゃんと前見て走れよー!」
「はい!」
店の前で腕組みしたままの、仏頂面の男一人を除く全員に手を振り、二人はその場に別れを告げた。
「……さて」
酒場も完全に見えなくなった所で、彼は改めてと少年に向き直る。
「お前に訊きたい事がある。あの子の、ヒナの家に何の用だ?」
「……」
「だんまりか」
(そりゃひと月も屋敷の前に立ち続けたんだ。そう簡単に教えてくれないとは思ってたけど……)
これは長期戦になる。そうアスターが思った所に、
「おや、坊っちゃん」
「?」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
振り返ると、買い物袋を両手に抱いたグレタが、そこに立っていた。
「あれ、ギル坊も何で――」
ギルと口にした途端、グレタはハッとした表情で固まった。
(なんだ、そういう事か)
「知ってたんですね、コイツの事」
「…………ええ」
「何であの子に黙っているのか、訳を、訊いてもいいですか?」
この問いに、二人はバツが悪そうにうつむいた。そして暫くの沈黙の後。グレタは場所を変えようと、話の場は、彼女の自宅へと移された。
「そろそろ説明してくれますか?」
少年、ギルは居心地悪そうに、グレタも何から話すべきかと迷っている。
「オ、オレの……」
一番最初に口を開いたのは、意外な事にギルだった。
けれどその声は、今にも泣きだしてしまいそうに、小さく震えていた。
「オレのせいで、アイツの――ヒナの母ちゃんは死んだんだ」
「え……?」
言葉と共にポタリ、ポタリと涙がこぼれ、机を濡らしていく。
(俺は、この話を聞いて良かったのだろうか)
それはあまりに突然で、受け止めるには時間の掛かる話だった。
あれからどれぐらい走っただろう。少年は勝手知ったる土地だろうが、アスターは新参者。相手の逃げた道を追うしか選択肢が無いというのは、実に効率が悪いと思い知る。鈍りきった体、整う事のない呼吸、そして脇腹に刺すような痛みが走る。
「全っ然っ追いつかねぇ!」
大きな道から脇道に入られてしまい、彼がここまでかと諦めかけたその時。何かが大量に割れた音と、野太い男の怒号が飛んだ。
「あーあーあーあーっ! こんなにしちまってどうしてくれんだ!」
駆けつけると、そこは一面真っ赤に染まっていた。
果物や土、そして酒の匂いが混じって酷い臭気だ。
「な、なんだ?」
彼が目視できたのは、何本割れたのか分からない瓶の残骸と、アスファルトに染み込まず、どんどん道に広がる赤黒い液体だった。傍には倒れ込みガタガタと震えているあの少年の姿と、血管が切れそうな程怒り狂うガタイのいい男が立っている。
(ここ、酒場か……?)
状況を見るに、酒類を搬入中に少年が飛び出し、箱ごと落としてしまったのだろうとアスターは推測した。路肩に寄せられたトラックの荷台は、まだ空いたままで、ラベルの貼られた木箱を沢山積んでいたからだ。
「聞いてんのか! あぁ!?」
吠えるような男の声に、少年は嗚咽混じりの消え入るような声で許しを乞う。
「ごめ……なさ……ごめ…………ゆるし……」
「あぁん!? ハッキリ喋れハッキリ!!」
少年が謝ったところで怒りが静まる事はなく、男はその苛立ちを、地に転がる酒瓶に移した。酒に濡れたアスファルトの上を酒瓶が勢い良く転がっていく。
(まずいな)
どちらに非があるかは明白。
けれど、小さな子供に対し、あのように暴力的に怒り狂う姿は見ていて気持ちの良いものではない。彼は怒りの矛先が少年の体へと移ってしまう前に、思い切って声を掛ける事にした。
「すみませんっ、そいつ俺の友達なんです。俺が追いかけっこしようっていったから……俺が悪いんです! 怒るなら俺も怒ってください!」
聞きしに勝る名演技とまではいかないが、男は彼の突然の登場に混乱したのか、ぐっと言葉を詰まらせた。そこへ――。
「それくらいにしといておやりよ」
酒焼けした声の女が、酒場から出るなり自制を促す。
男に劣らず、縦にも横にも貫禄のある中年の女は、すぐさま少年の元へ行き、へたり込んでいた少年を抱き起こした。
「怪我ぁ無いかい? まったく、こんなに汚しちまってなぁ」
「あ……ありがと……ござい、ます」
「いいんだよぉ、この人がグズグズ運んでるからいかんのさ」
「なっ!」
「アンタ! この辺は子供が多いんだから! 気ぃつけなっていつも言ってんだろ! それともなにかい? アンタの耳はマカロニだったのかい!?」
茹でで食うぞと耳を摘ままれ、嫌がる男。
「いてぇ、いてぇよ母ちゃん!」
「ちゃんと聞いてんのかい!? えぇ!?」
そんな夫婦の犬も食わない喧嘩を、店の中から飲んだくれの客達がもっとやれと野次を飛ばす。その野次馬の中の一人、酒瓶片手のヒゲ親父がふらりと少年の傍に立つ。
「まぁーガキはこれくらい元気じゃなきゃーな、俺等がジジババになった時、おんぶに抱っこしてもらわにゃ! 腰が痛くてしょうがねぇわ!」
その横でまた別の野次馬が道へしゃがみ込み、無残に流れた酒を恨めしそうに見つめ、ため息を漏す。
「しっかし、もったいねぇなー。道にくれてやるくれぇなら、俺がタダ酒飲みたかったぜ」
「アンタにタダ酒飲ますくらいなら、その辺の草にくれてやったほうがまだいいさね。酒臭い息しか吐かないアンタと違って、草は空気を綺麗にしてくれるからね」
「はっはっは! 違いねぇや!」
(何だこの状況……)
険悪なムードから一変。アスターは、まるで芝居でも見せられているかのような気分になった。
(あぁ、でも)
アスターは少年の顔をチラリと見た。先程まで泣きっ面だったあの少年が、いつの間にか体の強張りを解いていた事に、ホッと胸を撫でおろす。
「ほれ、ここはガラスが散って危ないからね。向こうで遊んでおいで。でも角を曲がる時は、走らず、周りに気を付けるんだよ」
「は、はい」
「それと、いい友達だね。大事にしな」
優しくそう囁く女将の言葉は少年に届いただろうか。
二人はそのまま背中を押され、酒場から離れた道の端へと移動した。
「おい、ちゃんと謝るぞ」
アスターは少年の背中をバンと叩き、せーのと声を合わせた。
「本当に、ごめんなさい!」
「ごめんなさい!!」
息ピッタリとまではいかなかったが、二人は誠心誠意謝った。きっと気持ちは届いただろう。
「ちゃんと前見て走れよー!」
「はい!」
店の前で腕組みしたままの、仏頂面の男一人を除く全員に手を振り、二人はその場に別れを告げた。
「……さて」
酒場も完全に見えなくなった所で、彼は改めてと少年に向き直る。
「お前に訊きたい事がある。あの子の、ヒナの家に何の用だ?」
「……」
「だんまりか」
(そりゃひと月も屋敷の前に立ち続けたんだ。そう簡単に教えてくれないとは思ってたけど……)
これは長期戦になる。そうアスターが思った所に、
「おや、坊っちゃん」
「?」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
振り返ると、買い物袋を両手に抱いたグレタが、そこに立っていた。
「あれ、ギル坊も何で――」
ギルと口にした途端、グレタはハッとした表情で固まった。
(なんだ、そういう事か)
「知ってたんですね、コイツの事」
「…………ええ」
「何であの子に黙っているのか、訳を、訊いてもいいですか?」
この問いに、二人はバツが悪そうにうつむいた。そして暫くの沈黙の後。グレタは場所を変えようと、話の場は、彼女の自宅へと移された。
「そろそろ説明してくれますか?」
少年、ギルは居心地悪そうに、グレタも何から話すべきかと迷っている。
「オ、オレの……」
一番最初に口を開いたのは、意外な事にギルだった。
けれどその声は、今にも泣きだしてしまいそうに、小さく震えていた。
「オレのせいで、アイツの――ヒナの母ちゃんは死んだんだ」
「え……?」
言葉と共にポタリ、ポタリと涙がこぼれ、机を濡らしていく。
(俺は、この話を聞いて良かったのだろうか)
それはあまりに突然で、受け止めるには時間の掛かる話だった。