07話:アディオス、ミスターまた明日
文字数 3,848文字
どこだか分からない暗い場所で、見知らぬ男が涙を流して泣いていた。
その男は膝をついて屈み、彼の手を握る。
『――がまた笑えるように……魔法を掛けてあげようね』
男が誰の名を呼んだか、彼には思い出せない。
けれど、その声と手のぬくもりだけは、おぼろげに覚えている。
***
「ん……」
目を覚ますと、彼の目尻には涙が溜まっていた。
(変な夢を見たような……)
悲しいような、でも少し嬉しいような。そんな不思議な気分を引きずったまま、アスターは目を擦る。
「うお、外めっちゃ暗くなってる」
窓辺に置かれた小さなランプが辺りを照らす。
いつの間にか、外は闇に包まれていた。
「はぁ……」
彼は随分軽くなった体を起こし、ベッドから降りた。
「ん?」
そこでまず異変に気がついた。
ズルリとズボンが床に落ち、足はもつれ、袖も手が出せない程余っていたからだ。全体的に服が大きくなったような、そんな感じを受け、アスターは改めて自分の手元を見た。
「――んんん?」
完全にずり落ちてしまった下着に目もくれず、慌ただしく脈打つ鼓動を抑える事もせず、部屋のドアを勢い良く開け、リビングに飛び込む。
「……?」
ダイニングテーブルで悠長にお茶を嗜んでいたステラが、少し戸惑いの表情を浮かべた。これには理由がある。
「ヤバイ! 俺っ縮んでる!!」
自身でも明確に分かる程、幼くなった声を放ち、ステラに駆け寄ると、彼女は何か納得したような感じにポンと手を叩く。そして「シチュー出来てますよ、食べれます?」と何事も無かったかのように彼の頭を撫でた。
「もっと驚けよぉぉ!」
「そう言われましても……」
(なんでそんなに落ち着いてんの!?)
「どう見てもおかしいだろ!」
なんて捲し立てると、何か変なものを食べたりしていないか? 具合が悪かったり、自分と出会う前に別の魔術師か魔道士に会っていないか? と彼女はいたって冷静だった。
「でも、困りましたね。とりあえず服を何とかしますので、ついでにお風呂いかがです? その様子だと下着も履いていないのでは?」
「そうだけどもだ」
(え? 何? 俺の感覚がおかしいの?)
彼がどう喚こうが現状が好転することは無い。
その後、言われるがままに風呂に入り、心を静める事にしたのだが――。
「……」
静まるはずがなかった。
そして、風呂上りの彼を待っていたのは、とんでもない代物だった。
(む、むむむ無理無理! 絶対無理だろコレ!)
アスターが全力で躊躇する物。それは、どう見ても女児用のパンツと、ペンギンの着ぐるみのようなパジャマだった。
「もう着替え終わりました?」
「あっいや、まだ――!」
ドア向こうで待つステラは、丁度良さそうなものがコレしか無かったと謝った。これは腹をくくるしかないのか、渋る足に力を入れ、覚悟を決めてソレに足を通す。
(うわぁ……)
鏡に映った自分を見る。あまりに愛らしいその姿に、自分は何をやっているのかと冷静に考えるが、その答えが出ることはない。
ただ、いっしょに置かれていたパンツには、流石の彼も手を出せなかった。昨日も今日もノーパンデイ。人生何が起こるかわからないものである。
それからステラは、引っ張り出した衣類を片付けると言って、二階の部屋に上がって行った。一方アスターは、先にリビングに戻っていたのだが、目の前の状況に困惑していた。
「何ジロジロ見とんじゃワレェ」
「!?」
「おぉん!? 何処のクソガキ様だ? んん? 迷子ですかアァン!?」
彼の眼前には、赤いスカーフを首に巻き、二足歩行で一歩一歩、ゆっくり近づいてくる緑のカエルがいた。
「あら」
そうこうしている内に、ステラも戻る。
「おかえり、ミスター」
(やっぱり人間じゃなかったかー!)
一人修羅場と化している彼を放置し、一人と一匹の会話は続く。
「おう帰ったぞ! にしても何だこのガキはよぉ」
「こちら、今日から暫く一緒に住むアスターさんよ。仲良くしてね」
「はぁぁぁああん!? 一緒に住むぅう!?」
ミスターは慌てふためき、ものすごい跳躍力でアスターの肩に飛び乗ると、ずいっと顔を近づけ、鼻息荒く俺の顔を覗き込む。
至近距離のカエルの顔はこんなにも気持ちの悪いものなのか。彼は耐え切れず目を逸らし、反対方向へ俯くが、ミスターの勢いは止まらない。
「親はどうした親は、こんなチビガキほっとくなんて、ひでぇ親じゃねぇか」
「……」
「アスターさんは異界の方で。頼れる所が無いのよ」
「異界人!? この歳で!? ファー!!」
このやたら高いテンションと、ダダ漏れの嫉妬心はなんなのか。ステラが仲良くやれと言っているのを右から左へ聞き流し、湿り気のある手で彼の頬をペチペチ叩く。
「こんなに小せぇのになぁ、同情するぜぇ。でもよぉ、間違っても変な気起こすんじゃねぇぞ。おぉん?」
「……カエルが色気づいてんじゃねぇよ」
「ぁああああん!? ヤんのかコラァ! 上等だゴルァ!!」
カエルVS人間。喧嘩にならない喧嘩は続き、そうこうしている内に夕食の支度が整い、テーブルの上にシチューやサラダ、パンが次々並んでいった。
(何だ、この状況……)
チラリ、同じテーブルで食事を取るミスターに、彼はどうしても目がいってしまった。けれど見た事をすぐに後悔する事になる。
「ウメェ! ウメェ!!」
丸い小皿に盛られた生肉を、ムチャムチャ音を立て頬張っているこの姿に、正直ドン引きだった。 その後、無心で食事を済ませ、ステラが風呂に行っているタイミングで、彼は再び、ミスターと部屋に残されていた。
(好きに読んでいいとは言われたものの……)
リビングの本棚を物色するアスター。
手の届く高さには、料理やお菓子のレシピ本と、園芸やら植物について書かれた趣味の本ばかりが並んでいて、なかなか手が伸びない。
「ん?」
彼は、本棚の一番下の段に、辞書に紛れて絵本が置いてある事に気が付いた。少ない文字数に、ページいっぱいに絵の描かれた児童向けの本。それを片手に暖炉前のソファに座る。
「おい」
「……」
「もしもーし!」
「……」
「聞いてまちゅかー? 僕タンはお耳が遠いのかなー? んんー?」
ミスターがアスターに飛び乗り、ペチペチと顔を叩きながら邪魔をする。アスターはミスターを掴んでは降ろし、掴んでは降ろしを繰り返し、次第に苛立つ。
(うぜぇ……)
「なーなー、なーってばよー!」
「あーもう。さっきから何だよもう!」
「聞こえてんじゃねぇか! ふんっまぁいい。頼みてぇ事があってよー」
床に戻されたミスターは、再び彼によじ登り、身振り手振り大きなジェスチャーでゴマをする。
「あのよー、風呂場のドア開けてくんね? 俺様今すぐ用があんのよアイツに~。ほんのちょーっとでいいんだけどよぉ」
「用ってなんの用だ」
するとミスターは躊躇 した。
「じきに上がってくるだろ、その時じゃ駄目なのか?」
「いやぁ、だからだなぁ~」
「そんなに急を要するんなら、俺がきくけど」
そう提案するアスターに、ミスターは真剣な面持ちで言い放つ。
「今しかねぇんだ」
「?」
その声音は真面目そのものだった。
「だから、何の――」
「……しょうがねぇ、話してやるけどよぉ。お子様にはちと刺激が強いぜ?」
「は?」
「俺様にとっちゃ死活問題なんだけどよぉ、俺様はな……俺様は、風呂場でアイツとキャッキャウフフしたいのよ!」
(何言ってんだコイツ)
アスターは馬鹿なこと言うんじゃないと嗜めるが、ミスターは止まらない。
「玄関とここはよぉ、俺様自由に行き来できるんだけどよぉ、風呂場だけは行けねぇの。ったく、いっつも俺様を置いて行きやがってよぉ。ひっでぇよなあ? 下心なんてこれっぽっちもねぇってのによぉ~」
(お前のそれは下心では無いのか?)
アスターは問い詰めたい衝動に駆られるも、延々続く意味のわからない主張に辟易し、行動に移す事にした。
「おっ! 行くか! 行くのんか!」
ミスターは顔面から掴まれ、視界を塞がれている。
アスターが歩く度、その期待値は上がり、ドアが開く音を聞いて今か今かと胸躍らせる。
「よっこら、ショット!」
アスターは掴んだ手を離すことなく玄関先から、暗闇の草むらに向かって思いっきりミスターを放り投げた。
「うぉおおおおおおおおお!?」
「アディオス、ミスター」
投げ放たれたミスターは綺麗な弧の字を描いて、敷地外の柵の向こうに音を立てて落ちていった。何か喚いているが、アスターは聞かなかった事にした。
「後は……」
玄関のどこかに、穴か仕掛けがある筈だと、アスターは暗がりで目を凝らす。すると玄関扉のすぐそばに、小人サイズの小さなドアが取り付けてあったのをすぐに見つけた。そのドアを外から重たいプランター、中からはその辺にあった置物を使い手早く塞ぐ。後は家中の窓という窓を入念にチェックして、何事も無かったかのように読書を再開した。
「はぁ、久しぶりにいい事をした気がする」
こうして、ステラの純潔はひっそりと守られていた。
その男は膝をついて屈み、彼の手を握る。
『――がまた笑えるように……魔法を掛けてあげようね』
男が誰の名を呼んだか、彼には思い出せない。
けれど、その声と手のぬくもりだけは、おぼろげに覚えている。
***
「ん……」
目を覚ますと、彼の目尻には涙が溜まっていた。
(変な夢を見たような……)
悲しいような、でも少し嬉しいような。そんな不思議な気分を引きずったまま、アスターは目を擦る。
「うお、外めっちゃ暗くなってる」
窓辺に置かれた小さなランプが辺りを照らす。
いつの間にか、外は闇に包まれていた。
「はぁ……」
彼は随分軽くなった体を起こし、ベッドから降りた。
「ん?」
そこでまず異変に気がついた。
ズルリとズボンが床に落ち、足はもつれ、袖も手が出せない程余っていたからだ。全体的に服が大きくなったような、そんな感じを受け、アスターは改めて自分の手元を見た。
「――んんん?」
完全にずり落ちてしまった下着に目もくれず、慌ただしく脈打つ鼓動を抑える事もせず、部屋のドアを勢い良く開け、リビングに飛び込む。
「……?」
ダイニングテーブルで悠長にお茶を嗜んでいたステラが、少し戸惑いの表情を浮かべた。これには理由がある。
「ヤバイ! 俺っ縮んでる!!」
自身でも明確に分かる程、幼くなった声を放ち、ステラに駆け寄ると、彼女は何か納得したような感じにポンと手を叩く。そして「シチュー出来てますよ、食べれます?」と何事も無かったかのように彼の頭を撫でた。
「もっと驚けよぉぉ!」
「そう言われましても……」
(なんでそんなに落ち着いてんの!?)
「どう見てもおかしいだろ!」
なんて捲し立てると、何か変なものを食べたりしていないか? 具合が悪かったり、自分と出会う前に別の魔術師か魔道士に会っていないか? と彼女はいたって冷静だった。
「でも、困りましたね。とりあえず服を何とかしますので、ついでにお風呂いかがです? その様子だと下着も履いていないのでは?」
「そうだけどもだ」
(え? 何? 俺の感覚がおかしいの?)
彼がどう喚こうが現状が好転することは無い。
その後、言われるがままに風呂に入り、心を静める事にしたのだが――。
「……」
静まるはずがなかった。
そして、風呂上りの彼を待っていたのは、とんでもない代物だった。
(む、むむむ無理無理! 絶対無理だろコレ!)
アスターが全力で躊躇する物。それは、どう見ても女児用のパンツと、ペンギンの着ぐるみのようなパジャマだった。
「もう着替え終わりました?」
「あっいや、まだ――!」
ドア向こうで待つステラは、丁度良さそうなものがコレしか無かったと謝った。これは腹をくくるしかないのか、渋る足に力を入れ、覚悟を決めてソレに足を通す。
(うわぁ……)
鏡に映った自分を見る。あまりに愛らしいその姿に、自分は何をやっているのかと冷静に考えるが、その答えが出ることはない。
ただ、いっしょに置かれていたパンツには、流石の彼も手を出せなかった。昨日も今日もノーパンデイ。人生何が起こるかわからないものである。
それからステラは、引っ張り出した衣類を片付けると言って、二階の部屋に上がって行った。一方アスターは、先にリビングに戻っていたのだが、目の前の状況に困惑していた。
「何ジロジロ見とんじゃワレェ」
「!?」
「おぉん!? 何処のクソガキ様だ? んん? 迷子ですかアァン!?」
彼の眼前には、赤いスカーフを首に巻き、二足歩行で一歩一歩、ゆっくり近づいてくる緑のカエルがいた。
「あら」
そうこうしている内に、ステラも戻る。
「おかえり、ミスター」
(やっぱり人間じゃなかったかー!)
一人修羅場と化している彼を放置し、一人と一匹の会話は続く。
「おう帰ったぞ! にしても何だこのガキはよぉ」
「こちら、今日から暫く一緒に住むアスターさんよ。仲良くしてね」
「はぁぁぁああん!? 一緒に住むぅう!?」
ミスターは慌てふためき、ものすごい跳躍力でアスターの肩に飛び乗ると、ずいっと顔を近づけ、鼻息荒く俺の顔を覗き込む。
至近距離のカエルの顔はこんなにも気持ちの悪いものなのか。彼は耐え切れず目を逸らし、反対方向へ俯くが、ミスターの勢いは止まらない。
「親はどうした親は、こんなチビガキほっとくなんて、ひでぇ親じゃねぇか」
「……」
「アスターさんは異界の方で。頼れる所が無いのよ」
「異界人!? この歳で!? ファー!!」
このやたら高いテンションと、ダダ漏れの嫉妬心はなんなのか。ステラが仲良くやれと言っているのを右から左へ聞き流し、湿り気のある手で彼の頬をペチペチ叩く。
「こんなに小せぇのになぁ、同情するぜぇ。でもよぉ、間違っても変な気起こすんじゃねぇぞ。おぉん?」
「……カエルが色気づいてんじゃねぇよ」
「ぁああああん!? ヤんのかコラァ! 上等だゴルァ!!」
カエルVS人間。喧嘩にならない喧嘩は続き、そうこうしている内に夕食の支度が整い、テーブルの上にシチューやサラダ、パンが次々並んでいった。
(何だ、この状況……)
チラリ、同じテーブルで食事を取るミスターに、彼はどうしても目がいってしまった。けれど見た事をすぐに後悔する事になる。
「ウメェ! ウメェ!!」
丸い小皿に盛られた生肉を、ムチャムチャ音を立て頬張っているこの姿に、正直ドン引きだった。 その後、無心で食事を済ませ、ステラが風呂に行っているタイミングで、彼は再び、ミスターと部屋に残されていた。
(好きに読んでいいとは言われたものの……)
リビングの本棚を物色するアスター。
手の届く高さには、料理やお菓子のレシピ本と、園芸やら植物について書かれた趣味の本ばかりが並んでいて、なかなか手が伸びない。
「ん?」
彼は、本棚の一番下の段に、辞書に紛れて絵本が置いてある事に気が付いた。少ない文字数に、ページいっぱいに絵の描かれた児童向けの本。それを片手に暖炉前のソファに座る。
「おい」
「……」
「もしもーし!」
「……」
「聞いてまちゅかー? 僕タンはお耳が遠いのかなー? んんー?」
ミスターがアスターに飛び乗り、ペチペチと顔を叩きながら邪魔をする。アスターはミスターを掴んでは降ろし、掴んでは降ろしを繰り返し、次第に苛立つ。
(うぜぇ……)
「なーなー、なーってばよー!」
「あーもう。さっきから何だよもう!」
「聞こえてんじゃねぇか! ふんっまぁいい。頼みてぇ事があってよー」
床に戻されたミスターは、再び彼によじ登り、身振り手振り大きなジェスチャーでゴマをする。
「あのよー、風呂場のドア開けてくんね? 俺様今すぐ用があんのよアイツに~。ほんのちょーっとでいいんだけどよぉ」
「用ってなんの用だ」
するとミスターは
「じきに上がってくるだろ、その時じゃ駄目なのか?」
「いやぁ、だからだなぁ~」
「そんなに急を要するんなら、俺がきくけど」
そう提案するアスターに、ミスターは真剣な面持ちで言い放つ。
「今しかねぇんだ」
「?」
その声音は真面目そのものだった。
「だから、何の――」
「……しょうがねぇ、話してやるけどよぉ。お子様にはちと刺激が強いぜ?」
「は?」
「俺様にとっちゃ死活問題なんだけどよぉ、俺様はな……俺様は、風呂場でアイツとキャッキャウフフしたいのよ!」
(何言ってんだコイツ)
アスターは馬鹿なこと言うんじゃないと嗜めるが、ミスターは止まらない。
「玄関とここはよぉ、俺様自由に行き来できるんだけどよぉ、風呂場だけは行けねぇの。ったく、いっつも俺様を置いて行きやがってよぉ。ひっでぇよなあ? 下心なんてこれっぽっちもねぇってのによぉ~」
(お前のそれは下心では無いのか?)
アスターは問い詰めたい衝動に駆られるも、延々続く意味のわからない主張に辟易し、行動に移す事にした。
「おっ! 行くか! 行くのんか!」
ミスターは顔面から掴まれ、視界を塞がれている。
アスターが歩く度、その期待値は上がり、ドアが開く音を聞いて今か今かと胸躍らせる。
「よっこら、ショット!」
アスターは掴んだ手を離すことなく玄関先から、暗闇の草むらに向かって思いっきりミスターを放り投げた。
「うぉおおおおおおおおお!?」
「アディオス、ミスター」
投げ放たれたミスターは綺麗な弧の字を描いて、敷地外の柵の向こうに音を立てて落ちていった。何か喚いているが、アスターは聞かなかった事にした。
「後は……」
玄関のどこかに、穴か仕掛けがある筈だと、アスターは暗がりで目を凝らす。すると玄関扉のすぐそばに、小人サイズの小さなドアが取り付けてあったのをすぐに見つけた。そのドアを外から重たいプランター、中からはその辺にあった置物を使い手早く塞ぐ。後は家中の窓という窓を入念にチェックして、何事も無かったかのように読書を再開した。
「はぁ、久しぶりにいい事をした気がする」
こうして、ステラの純潔はひっそりと守られていた。