第9話

文字数 3,466文字

「あのな。まだ疑っているのか? 俺がコウモリに変身してあの部屋から抜け出したと」
 清武は階段を降りながら文句を垂れる。
「だったらどうやって岡崎さんの病室から脱出したの? しかもあんな一瞬で。まさかコウモリじゃなくて鳩に?」
「バカ言うな。仮に俺が変身できるとしてもだ。こんなところでモタモタせずにとっくに逃げているだろう? それに鳩に変身するヴァンパイアなんて聞いた事もない。もしそんな奴が本当にいるのなら連れてきて欲しいくらいだ」
「鏡を見れば?」
「だから違うってば」
 果てしないやり取りにうんざり気味の清武は大迫医師に話を聞くために、再びナースステーションへ向かう。かえでも清武を逃すまいと相変わらず一緒であった。
 酒井典江の許しを得て、宿直室をノックした。

 扉が開き、明らかに不機嫌そうな仕草で中へと促すと、大迫はホットミルクを淹れた。
 二人の為というよりは、彼自身が飲みたかったから、ついでにといった感じである。かえではカップで両手を温めながら、少しずつ舌を濡らしていく。そこは如何にも宿直室らしい簡素な作りで、ベッドの他には小さなテーブルセットと簡単なキッチンと食器棚があるだけであった。棚には食器類の他に医学書やアナログ式の豪勢な置時計が置いてある。上部に大きなボタンが見え、タイマー式で目覚ましにもなると思われた。
「捜査の方は順調かね。もっとも容疑者から逃れるために茶番を繰り広げているだけかもしれんがな」
 本気なのか冗談なのか、大迫はニヤリと口を曲げる。気後れする二人だったがここで立ち去る訳にもいかない。
「岡崎さんはどうして入院されていたのですか」すでに酒井典江から胃がんだと聞かされていたが、ここは確認の為に訊いてみることにした。
 大迫はホットミルクをすすりながら眼鏡を曇らせ、それを拭こうともせずに淡々と話し出す。
「彼は末期の胃がんだった。日頃のストレスが祟ったのだろう。元々運送会社を経営していたようだが、息子に代を譲って、現在は会長職を務めているらしい。だが、経営方針でその息子と対立していたらしく、絶縁状態に近い形になっていたと聞いておる。御年八十を過ぎれば自分の考えを押し付けたりはせず、社長である息子にすべてを任せれば良いものをな。老いては子に従えというだろ? 岡崎さんには融通という文字が無かったんだな」
 しみじみと語る大迫は遠い目をしている。彼もまた息子と一悶着あったのかもしれない。大学受験を控えているとの話であったが、家族の問題に他人が口出しすべきではないと思えるので、その件に関しては敢えて口を挟まないように清武に目で合図を送った。彼もまた軽く頷き、同意の視線を向けてきた。
 かえではすっかり飲み終えたカップを所在無げにテーブルへと置く。 
「たしか死亡推定時間は午後十一時でしたよね。先生はその時どこにいましたか?」
 清武のぶしつけな態度に大迫は寛大な姿勢を見せた。
「なるほどな。私を疑っているのか。よかろう。茶番に付き合ってやる。あの時間はずっとここで待機しておった。回診も終了したしやる事が無くてな。宿直医とは万が一に備えて取りあえずいるだけで良い。楽なバイトだよ。君たちにも出来るかもな」半笑いで自嘲するような顔を見せると、カップを傾けてほっと息を吐いた。
「それを証言できる人はいますか?」
「看護師の二人が証明するだろう。後からでも訊いてみるがいいさ。見ての通りここの扉は一か所しかない。出入りがあれば彼女たちが気付かない筈がないだろう」
 確かにその通りである。ここには窓すらなく、唯一の扉はナースステーションに面している。恐らく隣の休憩室もそうなのだろうと思われた。
「ところで岡崎さんの病室に知恵の輪が落ちていました。ベッドの下にです。たぶん森本さんの私物で間違いないと思いますが、何か心当たりはありませんか?」
 清武が探りを入れると大迫は顔をしかめた。もし彼が犯人であるとすれば、罪を着せるためにワザと落としたことも否定できない。
「ああ、知恵の輪の件は知っている。森本さんは左利きで、その片腕だけで器用に外していると自慢していたな。もしかすると彼が殺したのかも」
 森本が左利きだとは初耳だった。それに証言も食い違う。森本は治療後のリハビリのために用意してあると言っていた。どちらかが嘘をついているのかもしれないが、大迫が嘘をつく理由は無いように思える。しかしまだ断定はできない。森本に罪を着せるためにワザと真実とは違う証言をした可能性も捨てきれなかった。
「309号室の香川さんについてですが」
 大迫は如実に顔色を変えた。かえでたちがどこまで知っているのかと疑いの目を向けている。
「……隠しておいたところでいずれは知ることになるかもしれん。こうなったら白状しよう。彼はうつ病なんだ。元々は保険会社の成績優秀なセールスマンだったが、人間関係で孤立してしまってな。普段は大人しいが、一旦キレると会社の上司や彼の妻と子供に暴力をふるっていたらしい。何度も自殺未遂を繰り返して、手に負えなくなった家族がここの院長に相談を持ち掛けたらしく、精神科の医者もいないのに引き受けたのだと聞いている。困ったものだよ。普段は無口で素直だが小さなことで発狂したり、深夜に病院内を歩き回ったり。それに脱走しかけたことも一度や二度ではない。看護師たちも頭を抱えておってな。対処法も判らずに正直言って我々も手を焼いておる。勝手に出歩かないように、病室に鍵を付けたいと何度も院長に提言しているが、人権問題になるからと慎重の構えを崩さないんだ。余計な経費を掛けたくないのが本音だろうけど」
 それから院長への悪口が止まらない。やたらがめつくて経費削減だといっては人手不足の割に看護師を増やそうとしないし、患者には必要以上の薬を処方しろと口を尖らせていると。そのくせ患者の前では親切なフリをして、しきりに愛嬌を振りまいていやがるとやっかんでいた。
「岡崎さんを恨んでいる人に心当たりはありませんか?」
 取りあえずといった形で訊いてみる事に。だが、大迫からは意外な証言が返ってきた。
「ここだけの話だが、森本さんは長友君の事が気になっているようで、やたらと声を掛けているみたいなんだ。岡崎さんはそれが気に障るらしく一度だけ口論になったらしい。酒井君によると、どうも岡崎さんも長友君のことを狙っているみたいなのだそうだ。直接の動機ではないかもしれんが、何かのきっかけで殺意が芽生えても不思議ではない」
 岡崎と森本はライバル関係だったのか。入院患者の間にもいろいろと厄介事があるらしい。
「それに206号の三浦さん。彼女もまた岡崎さんをよく思っていなかったフシがある」
「どういうことですか?」
 森本に続いて今度は三浦秀子が容疑者として浮上してきた。一体どんな根拠があるのだろう。
 大迫は、あくまでも噂だが、と念を入れたところで――、
「彼女の夫は会社をリストラされたが、どうやらそこの社長が岡崎さんらしい。どんな理由があったかまでは想像に難くないところだが、岡崎さんの事を逆恨みしていると聞いた事がある」そんな過去があったかとかえでは考えを巡らせる。大迫は「ここに入院したのは偶然だろうが、その事を知った時の三浦さんは、それはもう怒りに震えていたと看護師の誰かが言っていた」と情報源をぼやかした。はっきりとは言わないが、十中八九、酒井典江によるものだろう。
「ちなみに香川さんも容疑者から外せない。さっきも言った通り、彼は一度キレると手が付けられないんだ。ふとしたきっかけで岡崎さんに手を掛けても何ら不思議ではない。先ほども話したがここの病院では鍵の掛けられる病室が無くて、言わば野放し状態なんだ。獣を放し飼いしているのと同じだよ」
 とんだ爆弾を抱えているものだと同情せずにはいられなかった。もし香川が犯人だとすれば、これはもうかえでたちの手には負えない。警察に突き出すかどうかはさておき、さっさと専門のクリニックにでも転院させるしかないと思われた。
「長友さんからも話を聞きたいのですが」清武は膝を軽く叩きながらカップを置いた。いつの間にか飲み切ってしまっていたようである。
「駄目だと言ってもどうせ聞かないだろう? 彼女はショックのあまり情緒不安定になっておる。一応、精神安定剤を飲ませてあるが出来るだけ興奮させないように」
 二人はホットミルクの礼を告げると、ひと仕事済んだとばかりに欠伸をしてベッドに横なる大迫を尻目に宿直室を後にした。
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