第14話

文字数 3,319文字

 清武たちの姿が見えなくなったころに、別の二人の足音が聞こえた。
 長友しのぶが酒井典江を連れて戻って来ると、「香川さんは何処にもいなかったわ」とあきらめムードで清武の所在を尋ねてくる。
 かえでは事の顛末を二人に話した。香川の死体が裏口付近で発見されたと。出来るだけ冷静を努めたつもりであったが、どうしても語気が強めになる。
 予想だにしなかった事態を受けて、二人は動揺を抑えきれない様子だった。しのぶは身を震わせ嗚咽を漏らし、典江は口を丸くしながら茫然と立ち竦んでいた。やがてオオカミの遠吠えらしき鳴き声が聞こえてくるが、気にする者はいない。
 どんよりとした空気の中、会話もないまま十五分ほど経過したところで、清武と大迫が肩を落としながらナースステーションへと姿を現した。
 大迫は看護師二人を休憩室に入れると、一緒に中へと消えていく。
 暗い顔の清武はウォーターサーバーの水を紙コップで注ぐと、ゆっくりとそれを飲み干した。彼は丸椅子に腰かけるとナースステーションを出てからの行動を事細かく語り出した。
「ここを出てからしのぶさんは典江さんと合流して二階と三階を、俺は一階と建物周辺を捜索する事になったんだ。彼女らが病室のある階を選んだのは、その方が患者に外部の者を接触させないための配慮に違いない。それから俺は一階に降りた先にある、受付前のロビーを中心に香川さんの姿を探した。しかし鍵が掛かっている部屋が殆どで、探索に五分もかからなかったよ。少なくともこのフロアにはいないと判断して、裏口の扉を開き外に出ると、さっきよりも雪が強くなっていた。こう見えても寒がりでね。そうそう、雪と言えばこの前さ……」
 話の逸れる清武に軌道修正を促す。
「雪のことはどうでも良いから。それで?」かえでは苛立たしくなり、声を荒げた。
「少し先に誰かがうつ伏せで倒れていたんだ。すぐに香川さんだと判った。雪が降り積もっていたけれど足跡がない。きっと屋上から飛び降りたんだと思う。恐る恐る近づいて既に亡くなっていることを確認すると、君も知っての通り大迫先生を連れて戻り、検死をしてもらったら、やはり転落死で間違いないとの診断だった。先生の見解では死亡推定時刻は今から一時間前の午前一時半過ぎ。君が襲われた時間の少し後だから、恐らく衝動的とはいえ、君に危害を加えたことを悔やんで自ら死を選んだに違いない。うつ病とは繊細で残虐な病なのかもしれないな」
 それから休憩室の扉が開くと、大迫が出てきた。憂鬱そうな顔をしながら、肩を落としている。
「……今度は酒井君が気を失った。今は長友君が診ておる。私もこれ以上動きたくないから、後は君たちの好きにするがいいさ。ここで待つなり、出ていくなり……さっきも言ったかもしれないが、八時になれば交代の看護師がやって来る。その時に通報してもらうから、少なくともそれまでに決断しなさい」
 かえでの心は決まっていた。逃亡するという選択肢はない。このイエロー眼鏡の男がヴァンパイアなのかはともかくとして、このまま事件を見過ごすことなど出来ようもない。清武も同じ思いであったに違いなく、相談するまでもないと、二人の足は自然と屋上へ向かっていった。
 三階からさらに上へと登ると、屋上への扉は壊されていた。横にはバールのような物が転がっている。普段は鍵が掛けられているのだろうが、たぶんこれでこじ開けたのあろうことは直ぐに察しがついた。
 屋上は雪がうっすらと積もっていた。清武の言った通り、雪が深々と降り続いている。吐く息はさらに白くなり、まるで火炎を振りまくゴジラのようであった。
 足跡が一組しか無いところを見ると、やはり自殺だとしか考えられない。香川が飛び降りたとみられる錆びついた白い手すりの周辺には何も無かった。きっと遺書を書く余裕すらも無かったに違いない。
 寒さに震えながら手すりにつかまり裏口を見下ろすと、薄ぼんやりと人が横たわっているのが目に飛び込んできた。香川に間違いないだろう。
 吹きすさぶ横風に耐えられなくなり、階段へと足を向けるが、そこで清武がしゃがみ込むと何かを拾いあげた。それはポケットに入りそうなほどのサイズの紺色のプラスチックケースであり、開くと意外なものが収まっていた。
「どうしてこれがこんなところに……」
 唖然とする彼の手には使用済みと思われる注射器があった。注射器と言えば医者であり、大迫の顔が即座に浮かぶ。やはり彼の物なのだろうか。
 中は空っぽで溶液の類は無い。一体何に使われたのか思案に暮れるかえでは、事件に関係がありそうな気がしてたまらなくなった。
 清武もそれに気づいたらしく、二人同時に声を上げる。
「もしかすると、香川さんに……」
 顔を見合わせると、大急ぎで階段へと向かう。しかし降りようとしたところで清武は足を止めながら扉を振り返った。
「どうかしたの?」かえでも踵を返し清武を見つめた。
「おかしな点がある。もし香川が衝動的に自殺しようとしてバールを使ったのであれば、それなりの騒音がしたはずだ。深夜だからかなり響いたに違いない。君は気絶していたから聞こえなかったかもしれないが、俺には何も聞こえなかったし、看護師の二人もそれに気づいた様子は無かった。それに患者たちが騒ぎ出しても不思議ではない」
「どういうこと? 音もたてずにドアをこじ開けるなんて真似なんて、出来ると思う?」
 そこで清武はポンと手を叩いた。
「判った。鍵は事前に壊されていたんだ。誰かの手によってな。――だとすると香川さんの自殺は誰かに誘導されたものかもしれない」

 エレベーターで一気に下り、裏口を開けた。間近で見る香川の顔は恐怖で顔を歪めている。体中に雪が積もっていて、このままでは埋もれてしまいそうなほどであった。清武は左の袖をまくり上げると、やはりと指を鳴らす。この時かえでは緊張のあまり寒さを忘れていた。
「見てみろ。ここに注射の跡がある。血の固まり具合から見て落下する少し前。恐らく一時ニ十分ごろに打たれたものだろう。だとすれば君を襲う直前だ」
 どうしてそんな事が判るのかとの問いかけに、清武はしまったとばかりに口を覆う。訝し気な視線を送りながら、かえでは聞かなかったことにして、これ以上問い詰めようとはしなかった。
「もしかして麻薬か何かかしら? 実はこっそりと持ち込んでいて普段から常習していたのよ。今夜はその量が多すぎて、それで気分が高ぶって私に襲い掛かった。特に理由なんて無かったのよ。たまたま一番先に目に入ったのが私というだけで」
 しかし清武は首を振った。
「それはあり得ない、考えるまでもないことさ。ここは病院だ。そんな危険な薬物が持ち込めるわけがないだろう? 仮に何らかの手段で持ち込んでいたとしても、医者や看護師たちが注射の跡に気付かない訳がない。しかも左腕の手首と肘の内側の間は注射を打つ場所として最もポピュラーな部分だ。医療関係者じゃなくても一目で判るだろう。それに麻薬の常習者は一度で済むはずがない。何度も場所を変えながら打ち続けるのがセオリーだ。それを見逃したとあっては、それこそ職員全員が辞表を出すしかないな」
 指でこめかみをかきながら、清武は深刻な顔を浮かべている。
「だとすれば、今夜が初めて?」かえでは眉間にしわを寄せ、疑問を口に出した。
「それしか考えられない。注射された薬物の中で可能性の一つとして挙げられる麻薬は、幻覚作用のある覚せい剤だろうな。しかもためらった様子がないことから、注射したのは医者か看護師。つまり大迫先生か長友師長だろう、それに?」
 すぐにピンときた。
「典江さんね! だとすればその三人の中に覚せい剤などの麻薬を隠し持っている人物がいて、香川さんに注射したのかも」
「ビンゴだ!」
 顔をほころばせながら裏口の扉を回す。ビンゴという言葉で最初に侵入する際にピッキングを使った事を思い出すと、かえではもし警察が裏口を調べたならば、否定するのは難しいだろうなと首をもたげた。
 受付のカウンターに戻り飾られていた白い花を抜き取ると、香川に手向けながら二人目の犠牲者となったうつ病の男に黙とうを捧げた。
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