第13話

文字数 2,788文字

「ご心配をおかけしました。おかげさまでもう大丈夫です」
 開口一番、長友しのぶは二人を見つけるなり椅子から立ち上がると、会釈しながら微笑を浮かべた。かえでと清武は、それでもやつれているように見える彼女を気遣って、座るように促す。ナースステーションに酒井典江の姿はない。もちろん大迫もであるが、彼は宿直室でサボり――いや待機しているのだろう。
「大変です。香川さんがいなくなりました」
 それからかえでが襲われたことを説明しながら首のあざを見せた。しのぶの診断によると男性の手に間違いないという。サイズからいって香川であることはほぼ確定だとの話であった。
「骨は折れていないと思うけれど、念のためにレントゲンを撮った方がいいわ。取りあえず安静にしていてください。私は香川さんを探しに行きますから」
 慌てて駆け出そうとするしのぶに清武は声を掛けた。
「大迫先生に知らせなくていいんですか? 相手は錯乱状態かもしれませんよ。患者さんの安全を守るためにも、先生に報告して一緒に探したほうが得策だと思いますが」
「そ、それもそうね」私としたことが、とでも言いたげに血相を変えながら宿直室へと向かうと、激しいノックを繰り返しながら大迫の名を呼んだ。
「先生、非常事態です。香川さんがまたいなくなりました。しかも奥村さんが襲われています」
 しかし待てど暮らせど返事が来ないらしく、どうやら熟睡しているらしいとの返事だった。これで宿直医が務まるのだから、医者と言ってもたかが知れている。もっとも今夜は思いがけずに殺人が起こり、検死という任務をこなしたのだから、疲れが出ても仕方が無いともいえる。酒井典江の事を尋ねると、先ほど202号室の長谷部美奈子からナースコールがあり、そちらに向かっているとの事だった。
「私が探してきます。酒井と合流して、手分けして病院内を捜索しますので、あなたたちはここにいてください。」 
 了解しました、とはいかない。他の患者が、かえでの二の舞にならないようにと説得をして捜索組に加わることになった。しのぶにとってしても男手が必要だと判断したのだろう。かえでも一緒に行きたいと主張したが、清武と師長の指示でその場にとどまるようにと釘を刺され、仕方が無いと渋々首を縦に振った。

 一人残されたかえでは、首を押さえながら手持ち無沙汰でつらつらとナースステーション内を歩いてみる。一回りした後で大迫が待機している宿直室をノックしてみるが、やはり返事は来なかった。
「まさか死んでいたりして」独り言を呟く。
 これがミステリー小説ならば当然考えられる展開だ。眠っていたと思われる人物が、後になって死体で発見されるというお決まりのパターンである。
 緊張で震えながらドアノブを回してみる。鍵が掛かっていない為か、ドアはすんなりと開いた。中は真っ暗で物音は何も聞こえて来ない。もし眠っているのであれば、いびきならずとも寝息くらいは聞こえてきそうなのにも関わらず、耳を澄ましても鼓膜が振動することは無かった。
 唾液を呑み込みながら壁のスイッチを押したところで、背後から声が掛けられた。
「君、何をしておる」急に話しかけられて腰が抜けそうになった。
 振り返ると大迫が腕を組みながら仁王立ちをしていた。目玉をむき出しにしながら顔を高揚させている。しかし、どうしてここにいるのだろうと、首を捻らずにはいられない。宿直室の中で待機している筈では無かったのか。
「あの、香川さんがいなくなったんです。今、清武さんと長友さんが捜索に出ています。途中で酒井さんとも合流すると言っていました。長友さんが先生にも知らせようとしたのですが、返事が無くてお休み中かと思ったようです」
 大迫は驚いたリアクションを見せることなく、
「そうか、だったら彼女たちに任せれば良い。仮に逃げたところで周辺には何も無いのだから、朝までには戻って来るだろう」
 例えそうだとしても現に襲われているのだから、放っておくのは余りにも無責任と思わざるを得なかった。
「ところで今までどこにいらしたんですか? 長友さんはこの部屋にいると勘違いしていたみたいですけれど」
「彼女にはちゃんと声を掛けた。資料室にファイルを確認しに行くからと。おそらくまだショックから立ち直っておらず、忘れていただけじゃないのかな」
 果たしてそうだろうか。典江はしのぶのことを真面目でしっかり者であると評していた。いくら岡崎さんの殺害現場を目撃したショックが残っていたからと言って、大迫の事を忘れるものだろうか。
 浅黒く変色した首のあざを訊かれたので正直に打ち明けることにした。大迫は軽く触診したのちに長友と同じ診断を下した。やはり大したことは無いが、念のためにレントゲンを受ける様にと勧められ、そこで初めて保険証の入ったパスケースを持ってきていないことを思い出すと、落胆をあらわにした。治療を受けられないからではない。一緒に運転免許証も入れていたからだ。愕然として腰が抜けそうになるのだった。
 棚にある置時計を見ると時刻は二時二十二分。アナログだから判りづらいがゾロ目であった。この病院に着いてから三時間半ほど経った計算になる。他に用がなければ出ていくようにと促され、振り向いて僅かに開いたドアに手をかけた途端に清武の声が聞こえた。
「おい! 誰かいないか? ヴァンパイアハンターは何処へ行ったんだ?」
 すると大迫は質問を投げかけた。
「ヴァンパイアハンターってなんだ? もしかして君のことか?」
「いいえ。私にも何のことだか」
 首を曲げて惚けるしかなかった。本当のことを言ったところで、どうせ信じてはくれないだろう。
 開いているドアに気付いたのか、清武は直ぐに入ってきた。息を切らしているところを見ると、どうやらここまで走ってきたようである。その様子から尋常ではない雰囲気がひしひしと伝わってきた。
「先生、香川さんの死体がありました。裏口の横です。一緒に来てください」
「何? 判った、すぐに行く。奥村君はここで待っていなさい」
 ハンガーからグレーのコートを取り出すと、白衣の上から羽織る。引き出しから手袋を取り出して装着しながら宿直室を出た。かえでも後に続こうとするが、大迫はそれを許そうとはしない。
「どうしてダメなんですか? 私も行かせてください」
「君の話では長友君たちも香川さんを探しているんだろう? 彼女たちが戻ったら裏口にいると伝えて欲しい。検死を終えたらすぐに戻って来るから、その時に詳しく説明すると。判ったかね?」
 またも置いてけぼりを喰らう羽目になったが、大迫の言葉も納得がいかない訳でもない。
「お留守番お願いしますよ。ハンターさん」清武は親指を立てながらウインクをした。ベーっと舌を出すと頬を膨らませながら宿直室の扉を閉めたかえでは、ステーション内の丸椅子に腰を下ろす。
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