第3話

文字数 3,612文字

 やがて正面の自動ドア越しに覗いた受付前のあるロビーに出た。無人のフロアは不気味な程静まり返っていて、先ほど感じたお化け屋敷感はさらに増しており、いつヴァンパイアが現れても不思議ではない――と期待に胸を膨らませる。
 カウンターに飾られた名も知らぬ白い花々に心惹かれるも、それを横目に見ながらロビーの角を曲がると、そこにエレベーターがあった。しかし、無駄な音を出すわけにはいかないのでボタンを押すのをためらってしまう。
 すると都合の良いことに、エレベーターの横には階段が見え、そちらの方に足を向けた。

 一歩ずつ慎重に登り進めていく。コツコツとしたスニーカーの音がやけに大きく聞こえ、鼓動が否応なく激しくなるのを感じる。
 通常の倍以上の時間をかけて二階に到達すると、通路を覗き飲むように頭を出す。そこは入院患者のためと思われる病室が並んでおり、どの扉も真っ暗。
 消灯時間はとっくに過ぎているだろうから当然のように人の気配はなかった。だが、最初の角を曲がった先に、ひとつだけ明かりが見えた。中の様子を伺おうとして扉の前に立つ。すりガラスのため、室内の気配は知る由もないが、耳を澄ますと、時折ページをめくる音が聞こえてくる。入院患者の一人が夜更かしをして、本を読んでいるのだろうと推測された。扉のナンバーは202号とあり、ネームプレートには複数の名前があった。全員女性のようである。
 存在を悟られないよう早々に場を離れ、足音を鳴らさないよう、ゆっくりと廊下を進んでいく。
 
 突き当りにはさっきと別の階段があり、上階へと登る。
 三階に着くも、階段はさらに上に続いていた。が、この病院施設は三階建ての筈だから、おそらく屋上へと上がるためのものだろう。一度だけ見上げると、かえではそのまま廊下に足を踏み出た。
 二階と同じような光景が続くと、二つ目の角を曲がった先に白い光があった。突き当りの病室。扉は開かれており、はっきりとした白い明かりが目に飛び込んでくる。
 こんな時間に回診なのかと思い、壁の後ろに隠れながら病室の様子を伺っていると、やがて女性の怒鳴り声が聞こえてきた。
「誰ですか、あなたは!」
 一瞬、自分の事かと身じろぎしたが、声の主の姿は見えず、どうやら別の人に対しての発言のようだった。
 案の定、続けて男性の声。
 耳を澄ますと、押し問答のような会話が繰り広げられ、不審者がいることに間違いないと確信した。
 もしかするとその不審者こそヴァンパイアなのかもしれない。
 侵入早々、出くわすとはラッキーだと、いつでも取り出せるよう、かえではリュックを下ろし、ファスナーを開ける。十字架を握り締めながら、すぐにでも飛び出せるように身構えた。
「きゃあああ!」
 先程の女性らしき悲鳴が響き渡った。明らかに恐怖で震えきった声で、誰かに襲われているかのような必死さが伝わってくる。
 やはり現れたのかとダッシュしたかえでは、勢いよく301号と書かれた突き当りの扉をくぐる。そこには一人の看護師らしき白衣の女性が、尻もちを突きながら恐怖に蒼ざめた顔で奥を指さしていた。
「大丈夫ですか? 一体何が……」あったのですかと駆け寄るが、女性の指の先に視線を向けるや、かえでよりも頭一つ高そうな、蒼白い顔の男が佇んでいた。ヴァンパイアかどうかは別にして、彼こそが不審者に違いない。上下とも黒のスーツを着込み、黒色の手袋を両手にはめながら黒いマントを羽織っている。イエローレンズの丸い眼鏡をかけており、半開きの口からは牙らしきものがチラリと覗いていた。
 その時かえではサイトで閲覧した情報が頭をよぎる。ヴァンパイアは常にサングラスか色付きの眼鏡をかけているらしい。それは日光を遮るためだと考えられた。格好といい黄色の眼鏡といい、想像していたヴァンパイア像にほぼ当てはまる。
 男の横にあるベッドには老人が横たわっていた。年のころはハッキリしないが、かなりの高齢だということは判別できた。老人は眠っているようにも見えたが、胸のあたりに何かが突き刺さっているのが判る。目を凝らしてみるとそれは小さなナイフのように思えて、黒に近い赤色のシミが広がっていた。
 一瞬息を呑むものの、ここで怯んでは女が廃ると、かえでは勝気な態度を見せる。
「あなたが刺したのね。隠したって無駄よ。あなたの正体はヴァンパイアなんでしょう? でも、この私が来た以上、好き勝手な真似は許さない」男に向かって勢いよく十字架をかざす。「これでも喰らいなさい!」
 じりじりと詰め寄るが、男は平然とし、怯む様子はない。
「違う、俺じゃない! 俺が来た時には、もう刺されていたんだ。それにヴァンパイアでもない。信じてくれ。お願いだ!」
 そんな言い訳など聞く耳を持たず、かえでは十字架を諦め、今度はニンニクと警棒を取り出した。左手でニンニクを構えながら、右手の警棒を勢いよく振り、それを伸ばす。
「じゃあその牙は何?」怯える羊を狙うオオカミのような視線で威嚇しながらゆっくりと近づいていく。
「これはただの八重歯だ。牙なんかじゃない!」男は首を振りながら否定した。
 ニンニクの匂いが充満した病室の中で、互いにけん制し合う二人。だが、またしても顔色を変えないところを見ると、まるで効果が無いように思えてくる。むしろニンニクの激臭が鼻を突き、かえでの方が気が滅入りそうになった。
 すると背後から足音が聞こえ、とっさに振り向く。ほどなくして一人の男性が扉から入ってきた。その人物は白衣を着ており、医者ということは一目で判断が付く。
「今の悲鳴は何だ!」
 白衣の男は目の前の光景にくぎ付けとなった様子で、黒縁眼鏡の奥の眼球を丸くしている。白髪頭で前髪部分がかなり薄くなっており、色白の肌には深いシワが刻まれていた。全身黒ずくめのこの怪しい男とは対照的ともいえる。
「君たちは何をしておる。面会時間はとっくに終了しておるのだぞ!」白い方の怒鳴り声が響き渡った。
「大迫先生。岡崎さんが……」言葉が続かない看護師は、足を震わせながら這いずるように病室を後にした。
「話はあとから聞く。二人ともそこを動くなよ」
 大迫と呼ばれた白衣の男は病室を離れ、やがて不規則な足音が聞こえた。さっきの看護師を気遣い、肩を担いでエレベーターまで向かっていくとみられる。患者に刺さっている刃物の件について触れなかったところを見ると、どうやら気が付かなかった模様だ。
 振り返るとさっきの黒スーツの男の姿が見えない。ドアは一か所しかないので、そこから出たとは考え難い。ベッドの奥にある窓に目をやると十センチほど開いていた。外は真っ暗で何も見えず、雲にかかった月明かりがほんのりと和らいだ光を放っている。動かしてみるも、窓はこれ以上開く気配がなく、おそらく自殺防止のために敢えてこれ以上開かないような構造になっていると思われる。だが、とても人間が出入りできる幅ではなく、ここから脱出したとは思えなかった。
 黒ずくめの男はどこに消えたのだろう。
 ベッドサイドには縦型の小さなクローゼットがある。中に隠れているのではないかと開けてみるも、パジャマ等が数点あるだけだった。
 目を離したのはたった一瞬。
 その間に煙のように消え去ったのは間違いない。夢でも見たのかと思案したが、その可能性は直ぐに打ち消された。かえでだけでなく、さっきの看護師や大迫と呼ばれた医師も目撃したのは確かだからだ。
 残る可能性は一つしかない。やはり彼こそがヴァンパイアだったのだ。
 ネット記事によると、ヴァンパイアはコウモリに変身できるとあった。きっと姿を変えて、窓から音もなく飛び立ったとしか考えられない。
 そう確信したかえで。今度はベッドで刃物に刺されている老人を遠巻きに眺めてみた。既に息が無いことは明白であり、胸に刺さった刃物は小型の果物ナイフらしく、どこにでもあるように感じた。思い切って近づき首筋を覗くが、噛まれたような跡はなかった。
 これ以上調べても時間の無駄だと判断を下し、かえでは遺体に手を合わせて病室を飛び出た。
 消えた黒スーツの男を追って廊下を走る。大迫医師に留まるよう指示されていたが、このまま残っていたところで、きっと今頃は警察に通報しているはずだ。いずれパトカーが駆け付け、手錠を掛けられるのは目に見えている。どうせ逮捕されるのであれば、いっそのことヴァンパイアを退治しておきたかった。それにこのままではかえで自身が殺人の容疑者とされてしまう可能性も否定できない。
 今ならまだ間に合うかもしれない。仮にさっきの男がコウモリに変身したのならば、とっくに遠くへ逃げ去っているだろう。だが、せめて方向だけでも確認する事が出来れば、後からでもアジトの場所が特定できるかもしれない。
 かえでは全速力で階段を駆け下り、ロビーを走り抜けてピッキングで開錠した通用口から外へと躍り出た。
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