第12話

文字数 2,191文字

 到着を知らせるチャイムが鳴り、扉が開き切るのを待たずして通路へ飛び出す。急いでトイレに駆け寄ろうとすると、待合所にかえでが倒れていた。トマトジュースを飲んだあの場所である。仰向けの彼女はリュックを下敷きにしてピクリとも動かない。眼鏡越しの黄色いフィルターをずらして確認すると、首元が浅黒く変色して誰かに絞められたことは確かであった。指の形からして背後から狙われたのだろうが、それが誰なのかを判別する事はままならない。最悪の事態を想定してゆっくり慎重に近づくと、僅かに胸が上下しており、呼吸をしているのが感じ取れる。どうやら気絶しているだけらしい。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ。なにがあったんだ!」
 両手で抱きかかえながら懸命に体を揺する。やがて目を開けたかえでは急に涙を浮かべた。
「……私、誰かに襲われたの。トイレを済ませてから一階に戻ろうとして、ここを通りかかった時によ」お花畑じゃなくていいのかよ、とツッコミはしない。大したことなくて良かったと少し安心して彼女をソファーへと座らせた。それから自動販売機でミネラルウォーターを買うと、キャップを捻ってから素早く渡した。
「……ありがとう。心配させてごめんなさい。襲ったのがあなたでないことは承知しているわ。だって噛みつかれていないもの」どこまでも疑いの晴れない清武であった。
「バカ言うな。もし俺がヴァンパイアだったら、君は今頃吸血鬼だろう? それともゾンビか? どちらにせよ今度は君がハンターに狙われる立場になるところだったな」
 咳き込みながらも半分まで飲み干したかえでは、少しだけ元気を取り戻したようで、一息ついてから笑顔を見せた。
「あなたのように? それも悪くないかもね。ゾンビはともかくとしてヴァンパイアなら正常のまま永遠に生きられるものね。誰かにくさびを打ち付けられるまでは」
「縁起でもないことを言うものじゃない。それに彼らだって寿命は人間と変わらないんだ。殺されるまでは無限に生きられるだなんて、ただのおとぎ話に過ぎないさ」
「どうしてそんな事が言えるの? やっぱり何か隠しているのね」
 ペットボトルを脇に置いて、もたつきながらまたも十字架とニンニクをリュックから取り出し、清武に向けるが、相変わらず反応を見せない態度にため息をつかずにはいられなかった。
「だからもう止めろってば。何度も言わせるなよ全く」
「言っとくけど、あなたを完全に信用したワケじゃないからね。でも安心して。仮にヴァンパイアだとしても、今は退治しようなんて思っていないから」十字架とニンニクをしまうと残りのペットボトルを飲み切った。
「十字架を向けたくせに? 聞いて呆れるよ」口を尖らせながらも心配げな色を見せる「ところで首の痛みはどうなんだ? 気絶した上にアザが残るくらいだから、相当強く絞められたんだろう? それに誰が君を襲ったのか心当たりは無いのかよ」
「痛みはもう平気よ。それにさっきも言ったけれど誰だか判らないわ。突然だったから男か女かもね」
「何か憶えていないか? 声を聞いたとか、感触はどうだったかとか」
 首をさすりながら思案に暮れると、かえでは何かを思い出したかのように突然両眼を見開いた。
「そういえば……微かだけど味噌の香りがしたわ。あれは間違いなく白味噌ね」
 白も赤も関係ないだろ、と言いかけたところで清武はある事実が脳裏をよぎった。
「判った、香川だ。彼は胸に味噌汁をこぼしていた。他に考えられない」
 急いで立ち上がると「ここにいろ」とかえでを留まるように促すが、それを振り切るように清武の腕を引いた。
「待って。もう大丈夫だから。あなた一人にはさせないわよ。特殊能力で香川さんをねじ伏せる瞬間を見届けるまではね」
「特殊能力ってなんだ? 噛みついて自分に輸血するってのか。だったらまずは香川の血液型を調べないといけないな。ちなみに君は何型?」
 清武は大笑いしながら香川の病室へと向かう。遅れを取るまいと慌てて後に続く。釈然としないまでも、確かにヴァンパイアの血液型ってどうなっているのか、思い悩むかえでであった。

 廊下の時計が二時を告げる。香川がいる筈の309号室には明かりが灯っていた。仮に彼がかえでを襲った犯人であるならば、まだ興奮状態なのかもしれない。油断してはならないと肝に銘じながらゆっくりと扉を開く。
 しかしそこに香川の姿は無かった。蛍光灯の光だけが凍える空間を支配している。こんな夜更けにどこへ行ったのだろうと頭を悩ませた。もっとも彼は深夜に徘徊して看護師たちを困らせていたという。かえでを襲ったのもさしたる理由があるとは断言できない。少なくともさっきの訪問で香川を怒らせるような発言は無かった筈だが、しいて言えば病院内で起こった相次ぐ不審死がまるで香川の仕業かのように表現したことが思い当たる。しかし、それほど気に障った様子では無かった……ように思う。
 どうせ病院内にいるだろうが、探し出す前にまずは香川のいなくなった件を報告するべきだと、ナースステーションを目指す。それに首を絞めた跡が本当に香川の物かどうか診断してもらいたいという趣旨もあった。まさかと思うが、他の誰かが香川の仕業に見せかけるために、敢えて味噌汁の香りを漂わせたかもしれないからだ。犯人の特定までは難しくとも、せめて男女の違いくらいは推測できるだろう。
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