第7話

文字数 2,625文字

 ますは一番近い206号の三浦秀子の病室を訪ねてみることにした。幸いなことに明かりが灯っている。あれだけの騒ぎがあったのだから当然と言えば当然だと言えよう。
「失礼します。少しよろしいですか?」ノックの返事を確認してから清武は扉を開けた。かえでも後から続く。部屋の広さは岡崎の301号室と変わりないが、四人部屋となっており、その分、一人ひとりのスペースは限られている。入って左奥の窓際に女性の姿があって、彼女こそが三浦秀子と思われた。
 彼女はベッドの中で上体を起こしながらテレビを見ていた。音がしないところを見ると、多分イヤホンを使っていると考えられる。彼女は振り向くと驚きの表情を見せ、イヤホンを外しながら、慌ててテレビを切った。きっと回診と思ったのかもしれない。二人を見て慌てたところを見ると、どうやら看護師たちには公然の秘密であったらしく、知らない人物が現れて注意されるかもとテレビを消したのだろう。
四十代後半とみられる秀子は血色も良く、どこも悪くないように見える。先ほど典江は彼女のことを保険金目的の偽装入院だと語っていたが、どうやら眉唾ではないらしい。
「あなたたちはどちら様ですの? しかもこんな時間に。判ったわ。あなたたち新しい患者さんよね。救急車の音は聞こえなかったけれど、急患で運ばれて来たのかしら。ひょっとしてさっきの悲鳴と何か関係あるんでしょう? もしかして森本さんに襲われたとか」
 森本という患者は余程スケベで有名らしい。それにこの三浦秀子という患者も矢継ぎ早にいろいろ訊いてきて答える暇がなく、相当のゴシップ好きと見える。もしかしたら彼女自身も森本の被害にあっているかもしれないと、かえでは軽く頷いた。
「残念ながら自分たちは患者ではありません。それに先ほどの悲鳴は長友婦長によるものです。詳しくは言えないのですが、岡崎さんのことで何かご存知かと思いまして」
 すると秀子の顔が曇った。明らかに動揺している模様である。
「……岡崎さんについてはよく知りません。階も違うし、滅多に顔を合わせませんから」
 しかし秀子の顔色は優れない。滅多に会わないと言っておきながら、名前を訊いただけで病室が三階であることを知っている素振りを見せた。明らかに何かを隠している模様である。
「ここだけの話ですが、岡崎さんは先ほど亡くなりました」
 おいおいそんなこと勝手に話していいのかよ、と、かえでは清武の腕を引っ張るが、気にする様子もなく秀子の顔をじっと見据えている。
「……そう。死んだの――」
これで肩の荷が下りたと言わんばかりの形相で、秀子はため息を吐いた。さっきまでよく知らないと言っていたにもかかわらず、判り易いほど反応が深い。
「岡崎さんの事をご存知ですよね。別にあなたを疑っている訳ではありませんが、正直に話してもらえますか。あなたの知っていることを」
「私を疑っている訳ではない? 岡崎さんは病死じゃなかったのかしら」
 清武はしまったという顔をした。これでは殺人が行われていたことは言わずもがなである。かえでは取り繕うとしたものの、何とフォローして良いか判らずに戸惑っていた。
「……誰かに殺されました。今から一時間半ほど前の十一時頃に。こうなっては仕方ありません。正直に訊きますが、岡崎さんに恨みを持っている人に心当たりはありませんか?」
 清武は正直に話すものの、かえでと同様に戸惑いを隠せなかった。
「さあ。お気の毒とは思いますが、私には判りかねます。他の誰かに訊いてください」
 だが、はいそうですかと引き下がるわけにはいかない。秀子は安心しきっているように見える。その安堵ぶりが却って犯人ではないかと思えるほどに。
「ちなみにですが、その時間帯に何か変わったことはありませんでしたか? 例えば物音を聞いたとか、誰かを見かけたとか」
「窓の外をコウモリが飛んでいたとか」かえではまたも口を挟む。まだヴァンパイアだと疑っていることに清武は腹を立てているらしく、余計なことは言うなという目でかえでを嗜めた。
「何も気づきませんでした、その頃は休んでいましたから。さっきの悲鳴を聞くまでは、ですけれど。それにコウモリではありませんが、鳥が横切った事は憶えています。悲鳴が聞こえてしばらくしてからです。多分カラスか何かだったと思いますが、暗くて判別できませんでした」それから秀子はこの辺は野鳥が珍しく、殆ど見かけることはないと付け加えた。夜中であればなおの事とも。
 その後もいくつか質問を繰り返すも、これといった収穫を得る事は出来ずにいた。
「最後にひとつだけ。岡崎さんは知恵の輪が趣味だったことはご存知でしたか?」
 ベッドわきに落ちていたことを思い出したとみえる清武は、念のためにと言った風で尋ねていた。すると意外な情報がもたらされた。
「えっ? 岡崎さんもそうだったんですか?」
「岡崎さん“も”ということは他に誰か心当たりがあるんでしょうか」
「ええ。確か森本さんが趣味で凝っていらっしゃると誰かから聞いた事があります。何でも大工さんだから手先が器用で昔から得意だと」
 これは貴重な証言である。あの知恵の輪は森本の所有物である可能性が出てきた。彼が犯人ならば犯行時に落としたのかもしれない。
 それから他の患者についても質問してみたが、大した収穫を得ることが出来ず、夜分に失礼しましたと丁寧に頭を下げて、二人は秀子の病室の扉を閉めた。

エレベーターを通り過ぎて階段へと向かう途中で清武は話しかけてきた。
「今度は森本さんの病室に行ってみよう。知恵の輪の件を確認しないと」
「でも、病室の床はコンクリートだったでしょう? もし森本さんが落としたのならば、音が響いてすぐに気が付きそうなものだわ」
「その時は興奮していて気づかなかったのかもしれない。どちらにしても話を聞く必要があるからな」
 踊り場を通過して三階へと戻る。どうしてエレベーターを使わないのかと問いただすも、清武は「無駄な電力を使うのは気が引ける。ただでさえ自分たちは招かれざる客なのだから。それに運動にもなるし」と、けんもほろろであった。彼の口から運動などという言葉が出きたのは意外である。蒼白いひ弱そうな“なり”をしているから、てっきり運動とは無縁の生活をしているのかと思えたからである。考えてみれば清武は整体師だと言っていた。もしその話を信じるのであれば、体力作りに余念がないのも納得のいくところではあるが。
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