第18話

文字数 2,034文字

 二階に着くと、ナースステーションに向かう前に自動販売機でドリンクを買った。今度は二人ともスポーツ飲料である。さっきから階段を行ったり来たりで、いい加減に喉がカラカラであったためだ。一気に飲み干すとゴミ箱に放り込み、足を動かそうとしたところ、そのタイミングで車椅子に乗った長谷部美奈代が長友しのぶに押されながら現れた。彼女たちは、はっとした表情で動きを止めた。
 清武は二人を交互に見ながら少しおどけて言った。
「一体どうしたんですか? こんな夜更けに。もっとも他人の事をとやかく言える立場では無いんですが」
 しのぶは硬い表情で口を結んでいる。美奈代は静かに口を広げた。
「何だか眠れなくてお願いしたんです。少し散歩がしたいと。散歩と言っても車いすを押してもらっているので正確にはしのぶさんがお散歩しているようなものですけれど」
 膝に掛けてある毛布を握りしめながら、美奈代は不安な色で染まっている。しのぶも何処か切なげな仕草をして、何かと葛藤しているようにも映った。
「そうでしたか。あんな事があったのですから、気持ちは理解できます。しかし、殺人犯がうろうろしているかもしれません。出来るだけ早く病室に戻られた方が得策かと思いますよ」
 香川の件は口にしない。しのぶがどこまで話しているのか判断が付かないからだろう。清武の気づかいに感心しながらも、大迫の顔が浮かんでくると急に足が震える。
 美奈代はか細いながらも毅然とした声で言った。
「ええ、承知しています。もう少し廻ったら病室に戻りますから。お気遣いありがとうございます」
 そう言って二人は会釈をすると、カラカラと音を響かせながら廊下の角を曲がっていった。
「彼女、香川さんのことを知っているのかしら」
 首を傾げるかえでに清武は返事をためらう。
「……さあ、何とも言えないな。しのぶさんがどこまで話しているかにもよるけど、彼女にしてみれば逆に安心しているかもしれない。不謹慎かもしれないが、厄介事の一つが消えたんだからな」
 言われてみればそうかもしれない。確かにタイミングとしては最悪かもしれないけれど、いつ暴れるか知れない香川が亡くなったことで、ネガティヴ要素が一つ減ったと言えるかもしれなかった。だが去り行くときのしのぶの表情は冴えなかった。彼女にしてみれば、例え重度のうつ病であろうと、一人の患者であることに変わりはない。彼女にとってみれば岡崎にしても香川にしても責任を感じずにはいられだろう。

 とにかく大迫と話をしなければ事は始まらない。
 ナースステーションまで移動し、宿直室の前に立った。軽くノックをしてみるが返事は来ない。またどこかへ行っているのも知れないが、それがもし資料室であるならば、窓ガラスが割れている事態に動揺して証拠の隠滅を図ることも予想される。それでもここを離れるわけにはいかない。仮に無実だとしてもファイルの真相を問いただすまでは、どこまでも追及せねばならなかったからだ。
 ノブを回して中に入る。さっきと同じく明かりが消えており、ベッドで誰かが横になっているのが判った。スイッチを入れると、そこに大迫が浮かび上がり、熟睡しているのかもと声を掛けてみたが全く動く気配すらない。ひょっとして狸寝入りなのではと疑いながら近づいてみると、息を呑まずにはいられなかった。
「まさか……死んでいるの?」
 大迫は目を見開きながら、焦点の合っていない瞳を濁らせていた。半開きの口からは唾液と共に異臭のする吐瀉物を流している。清武は手袋を外して脈を計るが、静かに首を振り続けた。
「……これは毒物による中毒死だろう。断定はできないがヒ素である可能性が高い。これでも普通の人間より鼻が利くんでね」
 ここでいう『鼻が利く』とは、慣用句である『勘が鋭い』という解釈ではない。そのまま嗅覚が優れているとの意味である。恐らくはヒ素と思われる匂いを感じ取ったのだろう。もちろんこれも慣用句ではなく嗅覚での話。ややこしいったらありゃしない。
「だとすれば自殺かしら。岡崎さんを殺した上に香川さんまで死なせてしまった。先生も自分の過ちを悔いていたのかもしれないわ。極悪非道のやぶ医者に見えても、案外、良心の呵責に苛まれていたとは考えられないかしら?」
 眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら、清武は重い唸り声をあげた。
「だとすれば酒井典江に訊くしかない。それに大迫先生が死んでいる事実を伝えなければならないだろう。彼女が自殺するとは思えないが、長友さんを待っている訳にはいかないだろうし」
 それから清武は皮膚の変色具合からおおよその死亡時間を割り出した。今から一時間半ほど前の午前三時過ぎだと推定された。かえでたちが屋上に登った頃の時間である。
 三人目の死者となる大迫のまぶたを閉じ、両手を合わせながら黙とうすると、二人は典江の休んでいるはずの休憩室へ足を向けた。少しだけ後悔をするかえでは、どうせなら瞳の色を確認すべきだったと地団太を踏んだ。
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