第5話

文字数 3,626文字

 先程の看護師から大迫と呼ばれた医師が、ベッドに横たわったままの老人の瞳孔を調べていた。恐らく検死を行っていたのだろうと思われる。
「お前たち、今までどこに行っておった。てっきり逃げたとばかり思っとったぞ」
「俺は何もしていません。無実なんです」
 大迫は弁明する清武の言葉を退け、聞く耳を持たない素振り。
「ふん。こんな深夜に潜り込んでおいて、無実も何もあったものではないわ!」
 するとかえでは横から口を挟んだ。
「それは謝ります。しかし私は本当に何もしていません。話せば長くなりますが、ここを訪れたのは偶然なんです。この人はどうか知りませんが」
 いきなり矢面に立たされた清武は慌てて首を振った。
「俺も関係ないです。勝手に入ったことは認めますが、別に悪意があったわけではありません。信じてください」
「どちらにせよもう遅い。岡崎さんは戻らんからな」
 岡崎とは、やはりこの老人の事を指しているのだろうと思われる。大迫は再び老人に視線を戻すと、僅かに肩を震わせていた。
「……ところで警察の方には?」
 かえでは恐る恐るといった仕草で大迫の背中に問いかける。
「それが全く通じない。どうやら電話が不通のようだ。この病院全体な」
「電話が不通? 一体何があったんですか」
 清武は思わず訊き返した。
「さっぱり判らん。多分だが外にある大元の電話線が切られているのだろう。もっともオーナーである院長が電話代の支払いを渋っていなかったらの話だがな」
 かえでと清武は苦笑いを見せた。偽物のコメディアンのような軽いジョークに満足げな大迫は、さっきの言葉とは裏腹にどうやら二人を怪しんでいる気配は無さそうである。職業柄、死に対して鈍感になっているのかも知れない。
 電話のことが気になってスマホを取り出す。画面を見ると圏外になっていた。一瞬病院だから、使用できないようにするために、妨害電波か何かを流しているのかもと考えるも、すぐに首を振る。スマホの電波より妨害電波の方が遥かに強力だし、こんな山の中では携帯やスマホが通じなくても仕方が無いと思い直した。
「……他に外部との連絡手段はありますか?」清武は不安そうに腕を組みながら呟くように言ったが、大迫は黙って首を振る。かえでにしてみれば、殺人が起こった事実や、警察へ通報出来ないという観点よりも、むしろ清武自身がホッとしているように思える事の方が問題であった。やはり何かを隠しているに違いない。整体師だという話も眉唾ものであった。
「ここを車で十分ほど下った先に民家がある。民宿を経営しておって、そこまで行けば電話があるから、誰かに行かせるとしよう。とは言っても、今は私以外には看護師が二人しかおらんがな。私が行ってもいいんだが、医者は自分一人だけだから、留守にする訳にもいかないな。それに運転が不得手なもので、こんな夜更けにハンドルを握りたくはない。まあ、八時過ぎには交代の看護師が来るから、それを待ってものいいかもしれんが」
 人ひとり殺されているのに呑気なものだと思わないわけにはいかなかった。かえでは、自分が行きます、と申し出るも、「君は事件の容疑者だから、ここから出すわけにはいかない」と冗談めいた顔できっぱりと断られた。
「それであなたが検死しているんですか? 警察の代わりに」
 大迫は首を縦に振った。
「君たちも知っているかもしれないが、こういう場合は現場の保存が最優先される。通常であればの話だがな。だから本当は無断で触れてはならないんだが、いくら冬の最中とはいえ、死体というものは時間が経てば経つほど劣化が進み、判断が曖昧になる。医師である私が検死を行うのはむしろ義務というものだろう。私が殺していなければの話だがな」
 ブラックジョークを繰り出し大迫は苦笑いを見せた。その可能性がゼロではないだけに額面通りに受け取るわけにはいかないと判断し、かえではとっさに身構えた。
 一方の清武はというと自分の容疑を晴らすためか、検死の結果を尋ねている。大迫は腕時計を確認しながら淡々と答えた。
「私の見立てでは死後一時間ほど経過しておる。今は午前零時過ぎだから、十一時頃に息を引き取ったと考えるべきだろう。凶器は見ての通り胸のナイフだ。恐らくこの病棟で使用されている食事用の果物ナイフである事に間違いはない。調理場には鍵をかけておらんから持ち出すことは誰にでも可能だが、これといった特徴が無いので、もし指紋が採取できなければ、犯人の特定には結び付かないだろう。そんなミスをするとは思えんがな。誰の仕業かは知らんが、死因は心臓を刺されたことによる心肺停止で決まりだ」
 十一時といえばちょうどこの病院に到着した頃であった。その時、岡崎は誰かに殺害されたことになる。この病院に来るまでは他の車とすれ違っていない。ここまでの道のりは一本道で他に逃走経路は無いと思われた。それは犯人がこの病院内に居ることを示している。しかも侵入してから誰とも遭遇していないのだから、トイレや他の病室に隠れている可能性も否定できない。もっとも階段は二か所あり、その上エレベーターもあるのだから入れ違いになっても不思議はないと思われる。既に逃走を図っている可能性だってあるのだ。それに死亡推定時刻に関しても医者の言うことだから信じるほかはなかった。もっとも彼自身が言った通り、大迫が刺したのでなければの話だが。しかし依然として最も疑わしいのは清武であることに変わりはない。
「何か不審な点はありませんか? 争った跡があるとか、他に外傷があるとか」
「首筋に噛みつかれた跡があるとかね」
 清武の言葉にかえではひと言口走る。さっき確認はしているものの、念のために医者としての見解を訊きたいかえでは、自らを納得させたいがために口を出したのであった。大迫は一瞬眉をひそめたが、自らの主張を述べた。
「残念ながら争った跡も外傷もなかった。もっとも見える範囲だけだがな。いくら検死とはいえ、服を全部脱がせてまではやりたくない。死因や死亡時間が判っただけでも医者としての義務は果たしたと言えよう……当然ながら噛みついた跡も無かったよ。君が何を考えているかは知らんが、岡崎さんにSMの趣味があるなんて聞いた事が無い。隠していただけかも知れないがな」
 大迫は笑みをこぼし、欠伸をしながら背伸びをした。それから看護師が心配だと病室を後にすると、残された二人は岡崎と呼ばれた老人へ向き直り、共に合掌する。
 不意に閉じられているまぶたに触りたくなる衝動に駆られた。今、目玉を確認したら、瞳の色が黒ではないのかもしれないと思ったからだ。しかしそれははばかられた。死者に対しての冒とくになるだろうし、死体を触る事に抵抗がないと言えば嘘になる。それに勝手に触って、もし皮膚片でも付けば、DNA鑑定によってかえで自身が疑われるかもしれない。
「清武さん、お願いがあるんだけど……」
 腕を掴み甘えた声を出す。彼は手袋を嵌めているので痕跡が残る心配はないように思える。それに本格的に捜査が始まれば警察もこの男を疑うに決まっている。証拠が出さえすればすぐにでも逮捕されるのは自明の理とも言える程であった。
「まさかこの死体に勝手に触れというつもりじゃないだろうな。それは断る。ただでさえ疑われているんだから、これ以上、話をややこしくさせたくはない」
 バレていたのかと心の中で舌を出すと、かえでは何事も無かったかのごとく部屋を見廻した。
 改めて確認すると、この病室は元々大部屋なのを無理矢理個室にしたらしく、広さの割にはやたらと質素な作りだった。ベッドやクローゼット、ベッドサイドの棚やテレビの他には簡易的な応接セットがあるくらいで、恐ろしいまでの空間の無駄遣いと言える程であった。
 改めて持ち物を調べてみるも、クローゼットからは着替えしか見つからず、テレビの置いてある棚からもめぼしいものは見つからなかった。
 などと如何にもかえで自身が探索したような語り口調であるが、実際は殆ど清武が調べた結果である。かえでは手袋を持っていないことを盾に捜索を任せると、袖からあれやこれやと指示を出していただけであった。しかし何もしなかったわけではない。彼女の名誉のために断っておくと、今どき携帯の類を持っていない清武に変わり、スマホで現場を撮影した。
 しゃがみ込みながらベッドの下を確認していた清武が驚きの声を上げる。
「これは何だろう」
 彼は立ち上がって、折れ曲がった二本の金属棒が互いに絡み合っている物体をつまみ上げた。
「これは知恵の輪だと思うわ。きっとこの岡崎さんが生前に遊んでいたんでしょう」
 清武はそうかと頷くと、元あった場所に静かに置いた。一応シャッターを切っておく。
 これといった成果が得られぬまま、二人はその病室を後にした。開いたままの窓が気にならない訳でもなかったが、やたらと動かしてはマズいと思い、そのままにしておいた。
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