第23話 完結

文字数 3,023文字

 残されたかえでは炎に包まれる病棟を前に銀色の雪に埋もれていく。暑さと寒さが交互に塗り重ねられ、やがて眠気が襲ってくると、スクラップと化した軽自動車に乗り込み、キーを回す。暖房がマックスになっていることを了解するが、一方でガソリンメーターは限りなくゼロに近い。あとどれくらい持つかは判らないが、すぐに止まることは無いと思われた。レバーに手を掛けシートを倒し、仰向けになりながらスマホを見ると五時十六分。依然としてアンテナは立っていない。
 降り積もったフロントガラス越しに揺れる炎が反射して、幻想的な光景が繰り広げられていく。何かが崩れ落ちる音が響くたびに体が震えた。誰かが通報してくれることを願いながら、まぶたを深く閉じて夢の世界に堕ちていく。

 ……そこには長谷部美奈代や長友しのぶ、それに大迫医師や酒井典江の姿があった。皆が微笑みを浮かべながら何かを祝うように拍手をしている。やがて三浦秀子、それに森本と香川がバースデーケーキを持って現れると、最後に岡崎が登場して照れながらロウソクの火を吹き消していく。
 闇に包まれてしばらく経ったかと思うと、いきなり清武が現れて首筋に噛みついてきた。何の抵抗も出来ずに意識が遠のいたかと思うと、体の異変に気が付いた。力がみなぎり、歯に異変を感じ、手で触るといつの間にか上下四本の牙が出来ていた。
「ようこそ、こちら側の世界へ。これからは仲間としてよろしく頼むよ」
 すると岡崎を始めとした八人が牙を剥きながら不穏な笑みを浮かべていた。
「違う! 私はヴァンパイアになんかなりたくない!」
 逃げようとして懸命に駆け出したが、何かにぶつかり見えない壁に阻まれる。これ以上進めなくなったかえでは、退路を閉ざされたまま、虚ろな目で怯えるしかなかった……。

 しばらくして鳴り響くサイレンが耳をつんざくと、現実の世界に引き戻されたかえでは勢いよく起き上がった。
 やがて三台の消防車が到着すると、燃え盛る炎に向かいながら消火活動に入っていく。間髪入れずにパトカーが五台到着して物々しい空気となった。
 車のドアを開けると、すぐさま警官に囲まれてパトカーの後部座席に乗せられ、毛布に包まりながら警察署まで向かう。事情を訊かれるも興奮して上手く口が回らない。
 やがて到着すると、誰もいない忽然とした玄関ロビーで女性警察官に事の顛末を話す。ようやく落ち着いたのか、相手が女性だったからかは判らないが、今度は滑らかに言葉が出てきた。

 おおよそ話し終えたところで、かえではさっきから気になっている疑問を尋ねてみた。
「……ところで誰が通報したんですか。やはり病院近くの民家の方?」
 しかし女性警官の返事は思いもよらぬものだった。
「いいえ。あそこからは病院は全然見えないの。もちろん通報も来てないわ。実を言うと怪しい男性の方が直接ここに来たのよ。薄気味悪いと言っては失礼かもしれないけれど、確か黄色い眼鏡をかけた全身黒ずくめ、その上マントまで羽織っていたわ。そういえば苦しそうにしていたし、左足を引きずっていたから、怪我でもしていたのかもしれないわね」
 驚きの色をあらわにしながら、その人物の所在を尋ねるも、さっきまでここで休んでいたが、いつの間にかいなくなっていたとのことだった。
 それを聞いた途端にスクっと立ち上がると、すぐに戻りますと警官が呼び止めるのも聞かずに表へと飛び出した。
「まだ遠くまでは行っていないはず」と、目をこらして地面を見渡すと、雪の上に僅かな血痕が点在しているのが目に入ってきた。
 後を追ってその血痕を辿るうちに、警察署の裏にある公園へと続いていた。すると、花壇の中の花々に埋もれながら、仰向けに倒れている清武の姿があった。
「あなたが知らせてくれたのね。てっきりもう会えないとばかり思っていたわ」
 膝の上に清武の上体を乗せながら、つい涙声になってしまう。
「……やみ雲に逃げ廻っていたら、急に尿意を催してトイレを探していたら、たまたまここに着いただけさ……まさかトイレじゃなくて本当のお花畑だとはな……やはり鳥目は厄介だ。逃げるなら昼間に限る」
 彼の声はか細くなり、元々蒼白い顔色が、さらに血の気が失せていくのが判る。このままでは決して長くは持たないと、かえでは直感した。
 するとダウンジャケットを脱ぎ去り、首元のセーターを広げた。左肩を露出させ、自らの首筋を弱り切った清武の口元に近づける。
「……何の真似だ……お前もヴァンパイアハンターを名乗るのなら止めを刺すが良いさ……覚悟はとうにできている……それとも俺をからかっているのか? ……つまらないジョークだ……笑えないな」
「今さら何を言っているの? やせ我慢なんかせずに早く噛みつきなさいよ。私の気が変わらないうちに」
 しかし清武は顔を背けて拒絶の色を見せた。その意思は固いように思える。気が付くと、かえでは声を枯らしながら涙を流し、唾を飛ばした。
「このままあなたを死なせないわ。こんな死に方じゃなくて、ちゃんと私が退治するまでは生きていてもらわなければ困るのよ!」
「……」
 清武は何も発しない。息も絶え絶えで、いつこと切れてもおかしくはないように思えた。
「もし、拒み続けるのであれば、自ら命を絶ちます。しのぶさんのように毒は持っていないけれど、死のうと思えば方法はいくらでもありますからね」
 大粒の涙がこぼれる。あらわになった肩を震わせ、むせび泣く声が公園中を支配した。いつの間にか雪も止んでおり、東の空は白みを帯びながら、やがて朝日が昇らんとする勢いだ。
「……覚悟は出来ているのか……どうなっても知らないからな」
 緑色の瞳を光らせると、かえでの首筋に牙を立てた。それなりの激痛を覚悟したが、清武の言っていた通り痛みは全くと言って良いほど感じない。それどころか今まで味わった事のないような不思議な快楽に興じた。性行為の経験のない、かえでだが、エクスタシーとはきっとこんなものなのかもしれないと、まぶたを閉じて心地よい瞬間に酔いしれる。

 気が付くと清武の顔があった。彼は済まなそうな表情で視線を合わせずにいたが、やがて血色の戻った甘い笑みを浮かべている。
「おかげで助かった。でも良いのかい? ハンターがヴァンパイアを助けるような真似をして」
「あなたの息の根は私が必ず仕留めるわ。それまではどんな理由があろうとも死なせるわけにはいかない」
 そう言ってかえでは頬が紅潮するのを感じながら瞳を閉じた。胸の鼓動は最高潮に高ぶっている。甘い吐息を感じると唇を重ねようと、徐々に近づいて来る気配を察知する。
「うわあああ!」
 突然の悲鳴に慌ててまぶたを開けると、清武は跳び上がって一目散に木陰へと駆け寄り、マントで顔を隠しながらうずくまってしまった。
「どうしたの?」
 突然の行動に戸惑いを隠せない。なぜこんな真似をするのだろうか。
「まさか私の血が合わなかったの? やっぱり血液型の問題?」
 東の山間から昇る朝日に照らされながら、かえでは怯える清武の傍らにしゃがみ込み、右の手のひらで背中をさする。
「……違う。実は太陽の光にだけは弱いんだ。夜型人間だからな」
 なるほど、十字架やニンニクには強くても、やはりヴァンパイアの血は争えないという訳か。
 
 木陰の中で、昇りゆく朝日を避けるようにしながら、再びまぶたを下ろした新米ハンターは、ゆっくりと鼓動する吸血探偵に、そっと肩を抱かれていた。
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