第6話

文字数 4,034文字

 二人はナースステーションに向かう。場所はすぐに判った。先ほど二階を通過した時に確認してあったからである。
 倒れた看護師の事が心配となり、その上、事情を確認したいという思惑もあるが、もう一つの目的もあった。大迫の話では看護師は現在二人いる模様で、そのもう一人にも話を訊く必要があるとの判断もあったためだ。
 階段を経由して二階に降りると、曲がり角の先にナースステーションが見えた。カウンターから覗いてみると、そこには先ほどとは別の女性看護師がいて、ファイルをめくりながらポテトスナックを食べている。彼女こそが大迫の言っていたもう一人の看護師なのだろう。
「すみません。ちょっとよろしいですか」
 清武の言葉に看護師は面倒くさいと言わんばかりに目を細めながら顔を向ける。彼女はどっこいしょと腰を浮かせて二人の元に歩いてきた。二十代後半とみられる彼女はぽっちゃりとした体形で、はち切れんばかりの胸や腹は、いかにもナース服のサイズが合っていない印象である。動きにくそうだし医療従事者としては不摂生に思える。看護師には向かない気もするが、それほど人手不足なのだろうと考えられなくもない。胸のプレートを見ると酒井典江(さかい のりえ)とあった。
「もしかしてあなたたちが例の不審者たち? 大迫先生がおっしゃっていたわ。殺人の容疑者がいるから注意するようにと。やっぱり岡崎さんを殺したのはあなたたちなのかしら。まあ、私には関係ないけどさ」
 患者が殺されているにしては意外と淡泊な反応であった。もっとも病院なのだから患者の死に関しては頻繁までとはいかずとも、決して珍しいことではなさそうである。
「あなたの他にもう一人、看護師さんがいますよね。かなり怯えているみたいでしたから心配なんですけど」かえではカウンターに身を乗り出しながら言った。
「長友(ながとも)さんの事? 師長でしたら奥の休憩室で休んでいるわよ。先ほどまでは大迫先生もいらしたのですが、少し前に戻られたみたい。精神的なショックを受けただけで、どこも怪我をしていないみたいだからって」
 死体を見慣れた看護師長と言えども、さすがに殺害現場に出くわしたのは初めての経験だと思われる。衝撃を受けても当然だ。もっとも死体を平然と扱う大迫よりは、よっぽど人間的だと好感を持たざるを得ないのも事実であった。
「お会いしても大丈夫ですか? いろいろと話を聞きたいんですけど」
 すると酒井典江は厳しい目を向けた。
「今は駄目。ただでさえ興奮している上に、容疑が晴れない以上、殺人犯かもしれないあなたたちに会わせる訳にはいきません。いくら電話が使えないとはいえ、いざとなれば私が車を走らせますよ」
 毅然とした態度を見せて、典江はきっぱりとバツを示した。
 しかしこちらとしてもあっさりと引き下がるわけにも行かない。
「ではあなたから話を聞かせてもらってもよろしいですか? 時間は取らせませんので」
 渋々といった感じで彼女はナースステーションの中に招き入れた。壁際にあるウォーターサーバーを通り過ぎ、決して広いとは言えない場所で、見るからに安物の丸椅子に座らされると、典江は対面に腰を据える。揺れる肉に椅子が悲鳴を上げているように思えて仕方が無い。
「……で、何が訊きたいのかしら。判っているとは思うけれど私は殺していないわよ。もっともあなたたちの方が怪しいけどね。誰がどう見ても」
 痛いところを突かれるが、清武は怯むどころか逆に笑顔を浮かべている。
「そう思われても仕方ないと思いますが、俺たちは誰も殺していません。それは後から証明しますからぜひとも協力してください。必ず真犯人を挙げてみせます」
 そこまで言うかと清武を斜めに見据える。自分がどんな状況に置かれているのか、きちんと把握しているのだろうかと、かえでは疑惑の視線を向けた。
 かえでと清武は自己紹介したのちに典江のことを尋ねた。
「……ここの病院に来てからまだ四か月目くらいよ。以前は他の病院に勤務していたんですけど、何だか折り合いが悪くてね」
 どこの世界にも人間関係というのは深刻である。どんなに理想の職場であっても、そこで働く人と少しでも関係がこじれたりすれば、長くは続かないものである。この病院は彼女にとって居心地が良いらしく、独り暮らしのアパートからは遠いものの、ずっと勤務したいと語った。さっきまでポテトスナックをかじっていたところを見ると、どうやら勤務中のおやつを許される辺りがプラスポイントなのかもしれない。
「では殺された岡崎さんについて伺います。どういった経緯で入院されましたか?」
「さっきからまるで警察の取り調べみたいね。まあいいわ。本当は守秘義務があって他人には話せないんだけど、この際どうだっていい。どうせ警察が来ても同じ事訊かれるんでしょう? だったら予行練習として話してあげる。だけど他の人には私がしゃべったなんてこと、絶対に言わないでよ。もしバレたら後々面倒だから」
 そう断りを入れると、典江はとくとくと話し出した。岡崎は末期の胃がんで余命幾ばくもないこと。犯行時刻とみられる十一時少し前に中を覗いたら、寝息が聞こえていたこと。その前後は長友師長と一緒にナースステーションにいて共にアリバイがあることなど。
「……それに大迫先生も宿直室にいたわ。ほら、あそこよ」
 そう言って奥の扉を指さした。そこには二つの扉が並んでおり、彼女は左側を指していた。右側は恐らくだが、長友の居る休憩室なのだろうと推測される。
「ちなみに大迫先生は今もあそこに?」かえではあごに手を当てながら訊く。
「ええ。さっきも言ったけど婦長を診てからすぐに入られたわ」
 それから大迫医師の話を聞くと、彼はここの非常勤で、週に一度、夜勤担当医のアルバイトとして通っているらしいことが判った。ちなみに専門は泌尿器科。普段は市内にある大学病院に勤務しているらしいが、給料が安いから家族を養えないと言ってここの院長に頼み込んだらしい。彼には妻と二人の息子がいて、下の子が来年大学受験らしく、なおさら金が必要だと度々漏らしていたとの事であった。当然医学部を受験するのかと思いきや、どうやら文学部らしい。
「そういえば先ほど休憩室にいるとおっしゃっていました長友さんは、どんな方ですか?」
「師長はしっかりした真面目な方よ。フルネームは長友しのぶさん。多少融通の利かないところはあるけれど、誰にでも優しくいつも笑顔で接しているわ。もちろん患者さんだけでは無くて先生たちや私たち看護師にもね。女性らしい気づかいや責任感もあって尊敬できる人物だと思っているわよ」
 さっきの狼狽えぶりを見ると、とても想像つかないが、それほどまでに慕われる長友師長とはいったいどのような人物なのだろうか。
「他に入院患者はどれくらいいますか? 岡崎さん以外に」
 それから典江は四人の名前を挙げた。本来であれば五十人程の入院患者を抱えているらしいが、現在は正月休みでほとんどが帰省しているとの話だった。
「一番最近なのは206号室の三浦秀子(みうら ひでこ)さんね。先週に盲腸の手術をしてすぐに退院の予定だったんだけど、まだ経過が良くないらしいの。でも私から言わせてもらうと入院保険目当てで、すっかり治っているにもかかわらずに、わざと入院を長引かせているんじゃないかしら。絶対に誰にも言わないでよ」
 噂で聞いた事はあったが、偽装入院なんて実際にまかり通っているなんて思いもよらなかった。もっともこれは彼女自身の見解であり、三浦秀子は本当に体調が優れないのかもしれない。
「次に長いのは303号室の森本(もりもと)さん。下の名前は啓介(けいすけ)って言うんだけど、私は正直言って苦手。だって我がままだし、おしりを触ってくるのよ、隙あらばって感じで。他の看護師や長友師長も度々被害にあっているみたい。元々は大工さんらしくて、年甲斐もなく建設現場で作業している時に、屋根から落ちて右腕を骨折しているの。もう三週間ぐらいかしら。来月には退院できる見込みだけど、正直その日が待ち遠しいわ」
 森本は自分勝手でスケベらしい。どこにでも問題児はいるものである。
「次は長谷部美奈代(はせべ みなよ)さん。確か202号室だったから206号室の三浦さんの四つお隣ね。彼女は大学生だけど、一年ほど前に交通事故で下半身不随になったらしいわ。私も詳しくは知らないけれど、以前は市内の総合病院に入院していたらしいけど、半年ほど前にこの病院へ転院して来たみたいなのよ」
 交通事故で下半身不随とは気の毒である。しかしどうしてこんな山の中の病院に転院して来たのか気になるところだ。看護師長の長友しのぶであれば何か知っているかもしれない。しかし、この酒井典江という看護師は守秘義務があると言いながら、やたらと患者個人の経緯を述べる下世話な女である。この調子で普段から好き勝手に秘密を漏らしているに違いない。
「最後は309号室の香川哲成(かがわ てつなり)さんよ。彼は他の患者さんとは違ってちょっと特殊なの」
「特殊といいますと?」かえでと清武は同時に訊き返した。
「ごめんなさい。これだけは私の口からは言えないわ。長友師長か大迫先生に訊いて」
 そう言って典江は口をつぐむ。どうやらこれ以上の情報は引き出せそうもなかった。しかし香川という人物が気になって仕方が無い。彼にはどんな事情があるのだろう。
 ありがとうございましたと礼を告げると、典江は体を揺らしながら元いたデスクに戻った。それから先ほどのファイルの続きをめくり出すと、今度はチョコレート菓子の封を切る。一先ず入院患者と接触してみようという結論に至り、ナースステーションを出た。
 去り際に典江を覗いてみるが、彼女の見ているファイルは雑誌から切り抜いたとみられるグルメ記事のスクラップであった。てっきりカルテの類かと思っていただけに拍子抜けである。
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