第8話

文字数 3,624文字

 明かりの消えた303号室の扉を軽く三回叩き返事を待つ。
 この時間なのだから寝ている方が普通なのだが、下の階の三浦秀子が悲鳴を聞いて目覚めたくらいだから、同じ階で二つ隣りの森本に聞こえなかった筈は無い。しかし事件発覚からおよそ二時間が経過していた。仮に起きていたとしても、既に就寝していることは充分に考えられる。
「……誰だ?」
 明かりが灯り男の声がした。森本のものだと思われる。かえでと清武は「失礼します」と返事をしながら扉を開けた。三浦秀子と同じく四人部屋で、右側手前のベッドで目をこすっている。会釈をしてから清武が話しかけた。
「お休みのところ申し訳ございません。自分たちは決して怪しい者ではありません」
 いや、絶対に怪しいだろう、という言葉を呑み込み、かえでは愛想笑いを浮かべながら会釈をした。
 右腕に包帯を巻き、肩から下げている。そこでかえでは仕事中に屋根から落下して骨折したという証言を思い出した。年齢は六十代後半と言ったところか。寝癖の付いたボサボサ頭で年の割には髪の毛はしっかりと残っていた。寝癖を左手で撫でながら、無精ひげの顔で二人を交互に見つめている。それからベッドサイドの棚から眼鏡を取り出すと、目を細めながら再び顔を向けた。恐らく老眼鏡だと思われる。
 二人は自己紹介を済ませ、「少しよろしいですか」と半身を起こしている森本の横に立った。それから三浦秀子の二の轍を踏まないように包み隠さず岡崎の事を述べた。どうせ夜が明ければ嫌でも患者たちの耳に入る。だとすればここで口外しても何も問題がないだろうというのが清武の判断であったらしい。
「……そうか。岡崎さんは殺されたのか」
 森本は神妙な顔で呟くように言った。それは岡崎に同情しているようにも、胸を撫で下ろしているようにも思える。
「岡崎さんとは仲が良かったのでしょうか。とてもショックを受けていらっしゃるように見受けられますが」安堵の色も見えなくもないが、むしろ悲しみの方が強く感じるのはかえでだけなのだろうか。
「仲が良かったとは言えんじゃろうな。面と向かって喧嘩する事は無かったが、お互いに顔を合わせないようにしていたのは間違いない。気になるじゃろうが理由は話したくない」
 二人の間に何があったのだろうか。あとで酒井典江にでも訊いてみることにする。
 黄色眼鏡を光らせながら清武は話を続けた。
「言いたくないことはおっしゃらなくても結構です。一番確認したいのは犯行時間とみられる十一時頃に怪しい人を目撃したり、物音が聞こえたりしませんでしたか? 岡崎さんにいる301号室はここからすぐそこです。何かが聞こえてきてもおかしくはありません」
 森本は、生憎じゃが、と首を振った。その時間は熟睡していたのだと語る。秀子の語ったカラスのような鳥に関しても何の情報も持ち得なかった。その様子は嘘をついているふうには見えなかったが、知恵の輪の件をぶつけてみると、狼狽を隠せないでいた。
「どうしてこれが? すっかり失くしたと思っておったのじゃが」
 スマホの画像を見るや否や驚きの声を上げる。岡崎のベッドの下にあった事を告げると、彼は一度も入った事がないと口を歪めた。本心のようにも感じるが実際のところは判断できない。しかし仮に森本が犯人だとすればどうやって岡崎を刺したのだろう。彼は右手が不自由だ。例え眠っているところを襲ったとしても、抵抗されれば反撃を喰らうに違いない。それに片腕では知恵の輪は出来そうもなかった。ではどうして知恵の輪を持っているかと訊いたところ、右腕が回復した時のリハビリに使うのだと返ってきた。やはり彼は嘘をついていないように思える。だとすれば誰かが罪を着せようとした可能性も否定できない。
 他の患者のことを聞いてみたが、大した情報は得られなかった。ただ、309号室の香川にだけは気をつけろという警告を受ける。理由を尋ねても彼は沈黙を守った。
 そういえば酒井典江も香川のことは何も語ろうとなしなかった。香川とは一体どんな人物なのだろうか。
 
 森本の病室を出た二人。
 今度は香川のいる309号室を目指すが、途中の小さなロビーで休憩を取ることにした。自動販売機の前に立つと、かえではホットコーヒーのボタンを押す。続けざまに別のボタンを押すと、ソファーに座る清武に、奢りよと手渡した。
「何だこれ。トマトジュースじゃないか。何度も言っているだろう。俺はヴァンパイアじゃない。それにヴァンパイアがトマトジュースを好むなんてのは漫画の中の世界だけと思うけどな。ジョークにしても悪趣味が過ぎる。どうせなら君のようなホットドリンクが良かった」
 缶を開けて美味しそうに飲むかえでを恨めしそうに睨みつけている。それでも喉の渇きを我慢できないのか、清武は一気に飲み干した。
「ありがとうの一言くらい言いなさいよ。これでもお小遣いは多くないんだから」
 だったら奢らなければ良いだろうと口論となるが、このまま無駄な時間を潰したところで何も得るものはない。
 休憩を終えた二人は再び香川のいる筈の309号室を目指して重い腰を上げた。

 309号室は静まりかえっていた。当然電気も付いて無く、ノックをしても返事が来ない。時間も時間なので諦めて立ち去ろうとしたが、ゴトッという物音が聞こえた。もしかして香川が起きているのかもと、もう一度ノックをするが、またしてもノーリアクションであり、明かりがつく気配すらなかった。このまま勝手に入っても良かったが、後々面倒なことになりかねないと、観念せざるを得なく、後回しを決める。

 そこで最後に長谷部美奈代の病室を訪れる事に。階段を下って二階に降りると通路を曲がって202号室の扉の前に立った。最初に通りかかった時に明かりが付いていたあの部屋である。
 今も照明が灯っており、先ほどと同様にページのめくる音がする。あれだけの騒動がありながら、美奈代というここの患者は動じなかったのだろうか。
 軽くドアを叩くと、すぐに「どうぞ」と返ってきた。うやうやしく足を踏み入れると、森本とは反対側になる左の手前に一人の女性がベッドの中で半身を起こし、ハードカバーを広げている。肩に触れるか触れないくらいのセミロングで、丸くはっきりとした瞳は愛らしいというよりもむしろ凛とした佇まいで、クールビューティーという表現がピッタリくるくらい。しかし左手首に紫色のリストバンドが見えた。おそらく傷を隠しているものと想像できる。見た目とは裏腹に、彼女も過酷な運命を生き抜いているのだと、感慨にふけるかえでであった。
 美奈代は確か大学生で、交通事故のために下半身不随で寝たきりなのだと典江が語ってたことを思い浮かべた。ベッドサイドにはこれまでの病室にはなかった折り畳める作りの車いすがあり、彼女の悲劇を物語っているかのようだった。
 岡崎のことを訊いてみるが、半ば予想通り何も知らないと答えた。入院して半年だが殆ど病室に籠り切りなので、岡崎に限らず他の患者ともほとんど接触がないらしい。
「ごめんなさい、ご期待に添える事が出来なくて。でも、悲鳴の正体が判明して少しホッとしているの。岡崎さんには気の毒ですけれど」
 岡崎の事を知らないという割には相当落ち込んでいるように映る。それは彼女の感受性によるものなのか、かえでの知らない何かがあるのか、判らずにいた。
「あの、ずっと起きていたんですよね、事件の発生前から。何か気づいたことはありませんか?」
 ダメ元で訊いてみるが、やはり覚えはないようだった。しかしかえではあえて質問を続けた。
「十一時半過ぎ。つまり悲鳴の聞こえた少し後にカラスのようなものを見ませんでしたか? 206号室の三浦さんがその時間に窓の外を飛んでいるのを目撃しているんですが」
 またその話かと呆れ返った様子で、清武はかえでを小突く。
「私も見ました。この辺は滅多に飛んで来ないので珍しいなと思いました。あれはたぶんカラスでは無くて鳩で間違いないと思います。でもカラスも鳩も夜行性ではないから不自然とは思いましたけれど」
「コウモリでは無かったですね」かえではなおも食らいつく。
「コウモリではありません。あれは絶対に鳩でした」
 がっくりと肩を落とすかえでを、残念でしたとばかりに嘲笑する清武。
「大変訊きにくいことで恐縮ですが、以前は市内にある総合病院に入院されていたとか。どうしてこんな山の中の病院に転院されたのですか? 設備もだいぶ違うでしょうに」
 今回の事件には関係なさそうであるが、気になることは訊かずにいられないといった清武は申し訳なさそうに尋ねていた。
「……特に深い理由はありません。こちらの方が落ち着くだろうし空気も良いからと両親が勧めてくれましたので」
 納得のいく答えである。
 他にもいろいろ聞きたいことがあったが、あまり長居しても悪いと思い、二人は失礼を詫びながら202号室を出ていった。
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