第22話
文字数 3,434文字
さかえ屋の押し込み騒動は解決した。伊蔵の傷は幸いにも浅手で、鎖骨に傷を負った程度だった。医者から、傷口を縫い晒しできつく巻けば大丈夫だろうと言われ、そのようにした。
伊蔵は早くさえに会いたかった。佐古田が、もう少し傷が言えてから出立すれば良いのにと言ってくれたが、伊蔵はその好意を断り、帰宅の途についた。
「さえ、久し振りだったな」
「旦那様。お怪我を」
「うむ。捕り物でちょっとな」
さえは、この一ケ月余りの寂しさと、怪我をしている伊蔵を見て、感情が高ぶった。今にも抱きつきそうになるのを必死で堪えた。
「さあ、江戸へ帰ろう」
「はい」
伊蔵はさえの両親に頭を下げ、
「さえを預かります」
と言った。
「どうぞさえを宜しくお願いします」
さえの両親は深々と腰を折り、頭を下げた。
帰りは草加宿で一泊した。夕食の膳には、久し振りに酒を付けた。岡っ引き達は喜んだ。野田では禁酒を余儀なくされていたせいもあって、岡っ引き達の飲む早さが尋常ではなかったから、伊蔵は仕方なく二合徳利を二本目で終わりにさせた。案の定、翌朝は岡っ引き三人共二日酔いになって、虚ろな目をして起き出した。
二日酔いのふらつく足で後ろをついて来る岡っ引き達を、伊蔵とさえは放ったらかしにし、ずんずんと歩いて行く。さえが時折、心配そうに岡っ引き達を振り返って見る。
馬喰町の自宅に戻ったのは、夕方も丁度食事時の頃であった。伊蔵はさえを屋敷に残し、自分達は清水門外へ行って来ると言った。全てを理解しているさえは、笑顔を見せながら、
「お気を付けて」
と言って、伊蔵等を送り出した。
ついこの間、正治に野田へ送られたのに、会うのが久し振りのような気がした。正治も同様で野田での出来事をしつこく聞いて来た。
「又しても因果な運命よのう」
浅田象二郎との一件を話すと、そう言った。
「その傷はその時のか」
まだ晒しが取れない左肩を見て正治は言った。
「幸い真っ暗闇に近い状態でしたから、浅手で済みましたが、平常の状態だったら、命を落としていたかも知れません」
「さすがのお主も危うかったという訳だな」
「はい。紙一重でした」
「まあ、暫くは養生しておれ。お主にはまだまだ働いて貰わなければならないからな」
「私はいつでも働きます」
「うむ。よう申した。お主の働きが、この世の太平を生む。本来ならばお主も普段から十手を持っても良いのだが、目明し、岡っ引きは押し込みの捕縛の時ぐらいしか持たせてやれぬ。給金も儂からの少ない金で我慢して貰っている。それでもお主は良くやってくれている」
「単なる目明し風情に過分なお言葉、ありがたく思います
「儂はお主を頼りにしておる」
伊蔵はどう答えようか迷った。これ迄も、充分な言葉で労って貰っているその思いに答えねばと心に誓った。
「正治様にはっきりと申し上げたいのですが、私をそのように思わず、一介の庶民と思ってお付き合い願いたいのですが」
「火盗改めの一人として、お主は充分に評価されて然るべきなんだ。本当ならば大和田藩から正式に藩籍を抜き、与力か同心として働いて貰うのが筋なのだ。遠慮せず堂々と火盗改めの加納伊蔵だと言って歩け」
「ありがたきお言葉。返す返すものご配慮、心から感謝いたします。」
「給金もきちんと貰ってやる。だからそっちの方は少し待ってくれ」
金の話が出たので、伊蔵は余計畏まった。
「お金でしたら一生暮らして行ける分はございます。お金は必要ありません」
伊蔵は実際に金に困ってはいなかった。これまでの盗賊働きで得た金は、正治が生涯に稼ぐ金の何十年分もあったし、蓄えもその分多かった。
「そうか。伊蔵、これからも宜しく頼む」
「私めに出来る事であれば」
「うむ。儂はその方のそういう謙虚な処が好きだ。大言壮語しない所が武士らしい所か」
「いえ。武士でも大言壮語をする者はいます。寧ろ町民や農民の方が控えめです」
「口入れ屋の時の体験か」
「はい」
「今夜は夜回りに出るからこれで話は終わるが、今度ゆっくり飲もう」
「はい」
そう言ってこの日は、役宅を辞した。馬喰町の家に戻ったのはそろそろ木戸も締まるかという亥の四つ頃だった(今の午後十時頃)。帰るとさえはまだ起きていた。濯ぐに足濯ぎの用意をした。
「お風呂になさいますか」
「沸いておるのか」
「はい」
「ならば入ろう」
「食事の方は」
「軽く茶漬けを用意してくれ」
「お酒の方は」
「それも頼もうかな」
「はい」
さえは直接刀に触れないよう着物の袖で押し抱くように、伊蔵から刀大小を受け取った。左肩の傷はまだ抜糸出来ないでいて、引き攣った感じが残っている。
伊蔵はゆっくりと湯船に浸かった。傷口が痺れるように痛むが湯加減が丁度良かったせいもある、我慢できない事は無かった。外から湯加減はと、さえが聞いて来た。
「丁度良い」
さえはにこりと微笑みながら、風呂釜の前から厨へと身を移した。茶漬けは伊蔵の大好物である。梅干しをほぐして入れた茶漬けも好きだが、わさび茶漬けも好物だ。伊蔵のわさび茶漬けは。わさびを摺り下ろすものではなく、わさびを千切りにして醤油を掛け、仕上げに昆布茶を注いだものだ。
今日は、そのわさび茶漬けだ。きっと喜ぶだろう。厨と続いている居間に膳を運んだ。伊蔵が風呂から上がると、さえがまだ汗がでている体を拭いてくれた。甲斐甲斐しく動くさえを見ながら、伊蔵は今迄生きて来た中で、一番の幸せを感じていた。あせを拭かれたままでいると、洗いたての着物を後ろから着せてくれた。
今に用意されている膳を見て、伊蔵は嬉しくなった。
「わさびが手に入ったか」
「はい。そろそろ旦那様が野田から帰って来られるだろうと思って用意しました」
「では、早速頂くとするか」
「はい。今茶を用意します」
そう言ってさえは、沸かしたての茶で入れた昆布茶と醤油を持って来て、わさびの昆布茶付けを作った。一膳目をあっという間に平らげた伊蔵がお替わりを頼んだ。二膳目もきれいに平らげると、伊蔵は酒にすると言った。
「燗になさいますか」
「いや、冷やで構わない」
さえは二合徳利を持って来て、伊蔵に酌をした。普段伊蔵はそんなに酒を嗜まない。飲んでも一合か二合だ。さえはそれが分かっているから、二合徳利で酒を持って来たのだ。
酒を注ぐさえに、,
「料理も随分と腕を上げたな。さえは江戸へ来てもうどれ位になる」
と言った。
「かれこれ五年になります」
「するともう十九になるか」
「はい。あっという間の五年でした」
「いろいろあったが、本当に良くやってくれた。さえ、これからも宜しく頼むな」
「旦那様」
「もう盗人の仕事はせぬから、これからは安心して着いて来てくれ」
「はい」
その夜、二人は初めて結ばれた。
翌日、朝から清水門外の役宅へ行き、丁度居合わせた同心や与力達に何かないかを聞いてみたが、伊蔵が関わるような事は無かった。他の同心が何人かいて、そのうちの一人が知っている同心だったので、最近の動向を聞いてみた。その同心は伊蔵が正治から重宝されていて、過去の捕り物でも大手柄を挙げた事も知っていたので伊蔵の質問に細かく答えてくれた。
暫らくすると、正治がやって来た。余り表情が明るく無い。何処かで押し込みでもあったのか、と思った。
「皆、聞いてくれ」
そう言うと、きちんと座り直し、
「昨夜、日本橋茅場町の蔵前屋という両替商が押し込みにあった。賊の人数は八人。蔵から千両箱がごっそり盗まれた。ちなみに、死人やけが人は出ていない。今の話も命は大丈夫だった店の主から聞いたものだ」
「装束の色は何色か話してませんでしたか」
伊蔵が聞いた。
「黒っぽいとだけしか言わなかった」
「手引きの者は分かっているんですか」
「ああ。但し賊と一緒に逃げた」
「その手引きした人間はどれくらい前から店に入り込んでいたのですか」
「一年二ケ月前だとはっきりとした口調で話したよ」
ましらの平吉を考えて、伊蔵は話を聞いていった。どうも違うような気がして来た。尤も、身内同然の付き合いだった者に対し甘い観測になっているだけなのだが。
「伊蔵、どう思う」
「難しいですな。お調の方法としては、一年二ケ月奉公人として働いて居た奉公人から攻めてみるかですな。取引先や出入りの商人からやってみましょう」
伊蔵の申し出に正治は大きく頷き、
「全て儂が責任を持つから、伊蔵は他の同心や与力と共に、調べ回ってくれ。よいな」
と伊蔵達に言った。伊蔵達は蜘蛛の子を散らすかのように、一斉に動いた。
伊蔵は早くさえに会いたかった。佐古田が、もう少し傷が言えてから出立すれば良いのにと言ってくれたが、伊蔵はその好意を断り、帰宅の途についた。
「さえ、久し振りだったな」
「旦那様。お怪我を」
「うむ。捕り物でちょっとな」
さえは、この一ケ月余りの寂しさと、怪我をしている伊蔵を見て、感情が高ぶった。今にも抱きつきそうになるのを必死で堪えた。
「さあ、江戸へ帰ろう」
「はい」
伊蔵はさえの両親に頭を下げ、
「さえを預かります」
と言った。
「どうぞさえを宜しくお願いします」
さえの両親は深々と腰を折り、頭を下げた。
帰りは草加宿で一泊した。夕食の膳には、久し振りに酒を付けた。岡っ引き達は喜んだ。野田では禁酒を余儀なくされていたせいもあって、岡っ引き達の飲む早さが尋常ではなかったから、伊蔵は仕方なく二合徳利を二本目で終わりにさせた。案の定、翌朝は岡っ引き三人共二日酔いになって、虚ろな目をして起き出した。
二日酔いのふらつく足で後ろをついて来る岡っ引き達を、伊蔵とさえは放ったらかしにし、ずんずんと歩いて行く。さえが時折、心配そうに岡っ引き達を振り返って見る。
馬喰町の自宅に戻ったのは、夕方も丁度食事時の頃であった。伊蔵はさえを屋敷に残し、自分達は清水門外へ行って来ると言った。全てを理解しているさえは、笑顔を見せながら、
「お気を付けて」
と言って、伊蔵等を送り出した。
ついこの間、正治に野田へ送られたのに、会うのが久し振りのような気がした。正治も同様で野田での出来事をしつこく聞いて来た。
「又しても因果な運命よのう」
浅田象二郎との一件を話すと、そう言った。
「その傷はその時のか」
まだ晒しが取れない左肩を見て正治は言った。
「幸い真っ暗闇に近い状態でしたから、浅手で済みましたが、平常の状態だったら、命を落としていたかも知れません」
「さすがのお主も危うかったという訳だな」
「はい。紙一重でした」
「まあ、暫くは養生しておれ。お主にはまだまだ働いて貰わなければならないからな」
「私はいつでも働きます」
「うむ。よう申した。お主の働きが、この世の太平を生む。本来ならばお主も普段から十手を持っても良いのだが、目明し、岡っ引きは押し込みの捕縛の時ぐらいしか持たせてやれぬ。給金も儂からの少ない金で我慢して貰っている。それでもお主は良くやってくれている」
「単なる目明し風情に過分なお言葉、ありがたく思います
「儂はお主を頼りにしておる」
伊蔵はどう答えようか迷った。これ迄も、充分な言葉で労って貰っているその思いに答えねばと心に誓った。
「正治様にはっきりと申し上げたいのですが、私をそのように思わず、一介の庶民と思ってお付き合い願いたいのですが」
「火盗改めの一人として、お主は充分に評価されて然るべきなんだ。本当ならば大和田藩から正式に藩籍を抜き、与力か同心として働いて貰うのが筋なのだ。遠慮せず堂々と火盗改めの加納伊蔵だと言って歩け」
「ありがたきお言葉。返す返すものご配慮、心から感謝いたします。」
「給金もきちんと貰ってやる。だからそっちの方は少し待ってくれ」
金の話が出たので、伊蔵は余計畏まった。
「お金でしたら一生暮らして行ける分はございます。お金は必要ありません」
伊蔵は実際に金に困ってはいなかった。これまでの盗賊働きで得た金は、正治が生涯に稼ぐ金の何十年分もあったし、蓄えもその分多かった。
「そうか。伊蔵、これからも宜しく頼む」
「私めに出来る事であれば」
「うむ。儂はその方のそういう謙虚な処が好きだ。大言壮語しない所が武士らしい所か」
「いえ。武士でも大言壮語をする者はいます。寧ろ町民や農民の方が控えめです」
「口入れ屋の時の体験か」
「はい」
「今夜は夜回りに出るからこれで話は終わるが、今度ゆっくり飲もう」
「はい」
そう言ってこの日は、役宅を辞した。馬喰町の家に戻ったのはそろそろ木戸も締まるかという亥の四つ頃だった(今の午後十時頃)。帰るとさえはまだ起きていた。濯ぐに足濯ぎの用意をした。
「お風呂になさいますか」
「沸いておるのか」
「はい」
「ならば入ろう」
「食事の方は」
「軽く茶漬けを用意してくれ」
「お酒の方は」
「それも頼もうかな」
「はい」
さえは直接刀に触れないよう着物の袖で押し抱くように、伊蔵から刀大小を受け取った。左肩の傷はまだ抜糸出来ないでいて、引き攣った感じが残っている。
伊蔵はゆっくりと湯船に浸かった。傷口が痺れるように痛むが湯加減が丁度良かったせいもある、我慢できない事は無かった。外から湯加減はと、さえが聞いて来た。
「丁度良い」
さえはにこりと微笑みながら、風呂釜の前から厨へと身を移した。茶漬けは伊蔵の大好物である。梅干しをほぐして入れた茶漬けも好きだが、わさび茶漬けも好物だ。伊蔵のわさび茶漬けは。わさびを摺り下ろすものではなく、わさびを千切りにして醤油を掛け、仕上げに昆布茶を注いだものだ。
今日は、そのわさび茶漬けだ。きっと喜ぶだろう。厨と続いている居間に膳を運んだ。伊蔵が風呂から上がると、さえがまだ汗がでている体を拭いてくれた。甲斐甲斐しく動くさえを見ながら、伊蔵は今迄生きて来た中で、一番の幸せを感じていた。あせを拭かれたままでいると、洗いたての着物を後ろから着せてくれた。
今に用意されている膳を見て、伊蔵は嬉しくなった。
「わさびが手に入ったか」
「はい。そろそろ旦那様が野田から帰って来られるだろうと思って用意しました」
「では、早速頂くとするか」
「はい。今茶を用意します」
そう言ってさえは、沸かしたての茶で入れた昆布茶と醤油を持って来て、わさびの昆布茶付けを作った。一膳目をあっという間に平らげた伊蔵がお替わりを頼んだ。二膳目もきれいに平らげると、伊蔵は酒にすると言った。
「燗になさいますか」
「いや、冷やで構わない」
さえは二合徳利を持って来て、伊蔵に酌をした。普段伊蔵はそんなに酒を嗜まない。飲んでも一合か二合だ。さえはそれが分かっているから、二合徳利で酒を持って来たのだ。
酒を注ぐさえに、,
「料理も随分と腕を上げたな。さえは江戸へ来てもうどれ位になる」
と言った。
「かれこれ五年になります」
「するともう十九になるか」
「はい。あっという間の五年でした」
「いろいろあったが、本当に良くやってくれた。さえ、これからも宜しく頼むな」
「旦那様」
「もう盗人の仕事はせぬから、これからは安心して着いて来てくれ」
「はい」
その夜、二人は初めて結ばれた。
翌日、朝から清水門外の役宅へ行き、丁度居合わせた同心や与力達に何かないかを聞いてみたが、伊蔵が関わるような事は無かった。他の同心が何人かいて、そのうちの一人が知っている同心だったので、最近の動向を聞いてみた。その同心は伊蔵が正治から重宝されていて、過去の捕り物でも大手柄を挙げた事も知っていたので伊蔵の質問に細かく答えてくれた。
暫らくすると、正治がやって来た。余り表情が明るく無い。何処かで押し込みでもあったのか、と思った。
「皆、聞いてくれ」
そう言うと、きちんと座り直し、
「昨夜、日本橋茅場町の蔵前屋という両替商が押し込みにあった。賊の人数は八人。蔵から千両箱がごっそり盗まれた。ちなみに、死人やけが人は出ていない。今の話も命は大丈夫だった店の主から聞いたものだ」
「装束の色は何色か話してませんでしたか」
伊蔵が聞いた。
「黒っぽいとだけしか言わなかった」
「手引きの者は分かっているんですか」
「ああ。但し賊と一緒に逃げた」
「その手引きした人間はどれくらい前から店に入り込んでいたのですか」
「一年二ケ月前だとはっきりとした口調で話したよ」
ましらの平吉を考えて、伊蔵は話を聞いていった。どうも違うような気がして来た。尤も、身内同然の付き合いだった者に対し甘い観測になっているだけなのだが。
「伊蔵、どう思う」
「難しいですな。お調の方法としては、一年二ケ月奉公人として働いて居た奉公人から攻めてみるかですな。取引先や出入りの商人からやってみましょう」
伊蔵の申し出に正治は大きく頷き、
「全て儂が責任を持つから、伊蔵は他の同心や与力と共に、調べ回ってくれ。よいな」
と伊蔵達に言った。伊蔵達は蜘蛛の子を散らすかのように、一斉に動いた。