第17話

文字数 3,462文字

 伊蔵は決めた。それは盗賊を辞める事だった。もう充分働いた。それを惣佐衛門に伝えた。
「お頭の思うようになさっては」
「反対しないのか」
「その理由がありません。お頭はよくやってくれました。これからは自由に過ごされては」
「ありがとう。その言葉で私は救われる。さえにも伝えたいので、呼んでくれないか」
「はい。少々お待ち下さい」
 さえには感謝してもしきれない程働いて貰った。その労に報いてやらねば。そう伊蔵は考えていた。惣佐衛門に連れられてさえがやって来た。
「そこに座りなさい」
「はい。何でしょう」
「うん。私は黒衣の頭を辞める事にした」
「……」
「ついてはさえも、これからは真っ当な道を歩いて欲しいんだ。金はあるのだから茶屋でもいいし居酒屋でも開業出来る。何だったら故郷へ帰って田畑を買い、百姓を続ける事も出来る。好きな道を選ぶんだ」
「……」
 さえは考えた。答えがなかなか出ない。何故出ないか、自分で分かっていた。それは伊蔵の存在だった。
「どうしたさえ。いい話じゃないか。お頭がお前の事を大切に思っている証拠だぞ」
 惣佐衛門にそう言われたさえは、
「私、お頭と一緒が良いんです。お頭の傍に、これからもいさせて下さい」
 真剣な表情で言うさえに、伊蔵は驚いた。以前から、薄々さえの感情に気付いてはいたが、それは、娘が父親に甘えるような感情と思っていた。
「さえの気持ちは良く分かった。その件は又ゆっくり考えよう」
 そう言って取り敢えずはさえの感情を納めさせた。
「さえの事は後にして、惣佐衛門、今度はお主に話だ」
「何でしょう」
「この井兵衛店をお前に譲りたいのだ」
「え、私にですか」
「そうだ。お前がここを継いでくれれば何の憂いもない」
 この提案には惣佐衛門も驚き、暫し絶句した。
「これだけのお店を私が、ですか」
「そうだ。頼む引き受けてくれ」
「私の様な者に務まるとは思えませんが」
「何を言う。これ迄充分にやってくれていたではないか。お主が引き受けてくれないと、奉公人達が皆職を失う」
「お頭そんなあ。分かりました。そこ迄仰るのでしたらお引き受け致します」
「これで悩みの種の一つが消えた」
「惣佐衛門に最後の頼みがあるんだ」
「何でしょう」
「手下達にこの件を文で伝えて欲しいんだ。内容は私が盗賊を辞める事と、今後の事でもし相談があるなら受けると言う事。後、皆は今後好きな事をして構わない事。それと井兵衛店は惣佐衛門が継ぎ、預かっている皆の金は何時でも取りに来て良い。それらを伝えて欲しいんだ」
「分かりました。早速書いて飛脚に持たせましょう」
 惣佐衛門が部屋をでると、さえと二人きりになった。さえは緊張した。ほんの少しだけ二人きりになる事はあっても長い時間となると殆ど無い。思い切ってさえは聞いた。
「お頭はさえがお嫌いですか」
 さえは顔が紅くなるのを覚えた。伊蔵は視線をそらし天井を見上げた。
「嫌いではない。嫌いならさえにいろんな事を頼んだりはしない」
 さえの顔に笑みが零れた。
「さえは私に何を望む」
「何を……さえを好きだと思っていただけたら、さえはそれだけで幸せです」
 意を決して言った言葉に、さえは自分で酔った。
「嬉しいよ。さえにそう思って貰えて」
「本当ですか。本当にそう思って頂けるなんて……」
 伊蔵はこの辺で話を纏めなければと思った。さえに言い寄られて分かったのは、自分もさえが好きだと言う事実だった。このままだとさえとねんごろな関係になってしまう。それは避けねばと伊蔵は思った。
「さえ。この話は又後にしよう。今日はこれで仕事に戻りなさい」
「はい」
 さえは、少し物足りなさそうな表情を見せたが、素直に部屋を引き下がった。
 惣佐衛門が書いてくれた手下達への文の影響はすぐに表れた。真っ先に井兵衛店にやって来たのはましらの平吉だった。
「お頭、本当に足を洗うんですかい」
「ああ。本当だ」
「残された俺達はどうすればいいんですか」
「文にも書いてあったと思うが、何をするも各自の自由だ」
「俺達も堅気にならないといけないんですかい」
「それも自由だ」
「ならばお頭。黒衣の一党を俺が継いでもいいですか」
「平吉がか」
「へい。俺では貫目不足でしょうか」 
「そんな事は無い。お前でも充分にやれる仕事だ」
「ならば、おれに黒衣の一党を任せると、他の皆に文を送って下せえ」
「分かった。ただ黒衣を名乗る以上、人を傷つけない、人を殺めない、狙うのは悪事を働いて居る店のみ、この三つを守ってくれればいい」
「分かりやした。言いつけ通りに致しやす」
 こうして黒衣の一党は今後ましらの平吉が、率いる事になった。伊蔵は少しずつ身辺を綺麗にして行った。
 泉屋押し込みから三か月程経ったある日、伊蔵は正治の役宅である清水門外の屋敷へ出向いていた。
 家人に来意を告げると、すぐさま奥の書斎に案内された。縁側の戸が全部開け放たれていた。風が心地よい。正治の正面に座ると、伊蔵は、
「お話がありまして」
 と言った。
「その方から話とは珍しいのう」
「この度口入れ屋から足を洗おうと思いまして」
「何、口入れ屋を辞めるとな」
「後を継ぐ者もいますし、何の憂いもございませんので」
「そうか。辞めて何をする」
「暫くは若隠居を楽しみ、それも飽きてきたら、何か店屋でもやろうかなと」
「そこ迄考えておるのか。羨ましいのお。儂らのような宮仕えは嫌でもお役目から逃れられん。そうか。井兵衛店は他の人間が継ぐのか。評判の良い店だったのに惜しいのお」
「勿体無いお言葉。恐縮至極であります」
「その方に以前聞いた事があるが、昔は武士ではなかったのかの質問、今なら答えられるだろう」
「不意の質問、さすがに今は答えなければなりませんか」
「うむ。いろいろと勉強になるので後学の為にも教えて欲しい」
 伊蔵は気持ちを落ち着かせ、正治の質問に答えた。
「私は以前奥州大和田藩の勘定方を務めておりました」
「その勘定方を辞めるに至った理由は」
 正治は急かすように聞いて来た。
「はい。城中で刃傷沙汰を犯し、私は大和田藩を抜け江戸にやって来たのです」
「殺したのか」
「はい」
「仇討ちの者は」
「後に聞いた話では弟が一人いて、その者が私の仇討ちに。ですが江戸に出て来てもう十五年余りになりますが、そういう者と接してはおりません」
「その方、その弟というやからから仇討ちを迫られたらどうする。逃げるか、それとも迎え撃つか、どっちだ」
「応じると思います。私にはもう思い残すものはありませんから」
 この時、伊蔵はさえの顔を思い出していた。
「そうか。私の立場からどうとは言えないが、刃傷沙汰の理由はなんだ」
「はい。相手側の勘違いが原因でして。当時相手方に許嫁がいたのですが、その許嫁は私と近所で幼馴染でした。そういう事もあり、何かにつけその許嫁は私に相談事をしに来る位だったのです。その相談に来ていた時の様子が、あいびきだと思われ、許嫁を斬ったあと私に剣を向けて来たという訳でして」
「それは誠に悲惨な話だな。それでその後は武士を捨てたのか」
「はい」
「もう一つ尋ねたい事がある」
「はい」
「お主何流を使う」 
「大和田藩にいた頃、家中の道場で一刀流を学ばせて頂きました。小野派です」
「小野派一刀流か。一度竹刀を合わせよう」
「井上様には敵いません。きっと勝負にならないかと」
「やってみなければ分かるまい」
 そこへ家人がやって来て正治の耳元で何か囁いた。頷いた正治が、
「済まんが仕事だ。手配中の盗賊の一人がこちらの網に掛かった。今日はこれでお開きにしよう」
 そう言って正治は部屋を出て行った。遅れて伊蔵も部屋を後にし、廊下ですれ違った家人に挨拶をして、帰路に着いた。
 伊蔵は、正治に打ち明けた話の事を考えた。故郷の大和田藩を出奔してもう十五年になる。今の井兵衛店を出したのは八年前だ。盗賊の仕事をやるようになったのが七年前。その間、仇討ちの話をだれ一人として話した事は無かった。今日、正治に話したのは、きっと贖罪の意味もあったかも知れない。何故さえの想いに答えて上げられないのか。それはこれらの事があったからだ。
 井兵衛店から今は屋敷を近くの日本橋馬喰町に持った。部屋数は全部で三部屋で厨も一人暮らしには弄ぶ程広い。この屋敷へさえは毎日通って来ては食事や洗濯、掃除と全ての家事仕事をやって行く。井兵衛店は惣佐衛門が店主となり仕事に励んでいた。さえが毎日馬喰町の屋敷へ行けるのは、惣佐衛門の気遣いから来ている。こうして平穏無事に何事も済んでいると思っていたが、そこへ驚くべき出来事が起きた。
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