第2話

文字数 3,403文字

 男が店に入って来ると、帳場に座っていた大番頭の惣佐衛門が立ち上がり、軽く頷いて奥座敷へと促した。その光景を見ていたさえは、少しばかり違和感を感じていた。
 惣佐衛門が男に話し掛ける。
「ましらの、久し振りだね」
「へい。暫く上州の方へ身を隠していました」
「そうか。すると、そろそろ仕事があると感じての江戸入りかい」
「お察しの通りで。前回の仕事から一年以上が過ぎましたから」
「仕事はお頭が決める事。いずれにしてもあんたが戻って来て良かった」
 二人は、井兵衛の居る部屋の前で立ち止まった。
「お頭、ましらの平吉さんが来やした」
「おう。中へ入りな」
 二人が中へ入ると、井兵衛が文を書いていた。
「平吉、久し振りだな。丁度良かった、ちりじりになっている者達に、江戸に集まるよう文を書いていたところだった。で、平吉仕事をしに江戸へ戻って来たのかい」
「その通りです。皆に文を書いていたという事は、そろそろ仕事をとお考えで」
「ああ。その通りだ。何時までも口入れ屋の井兵衛では生きる事に飽きてしまう。本職の黒衣(くろごろも)の伊蔵に戻る日もなくてはな」
「目星は付いているんですかい」
 ましらの平吉の問いに、
「幾つかあるが、まだ何処とは決めていない。まあ準備に半年、長くて一年は係るから、平吉はその間、うちの番頭をやって貰うとするか」
 と井兵衛は答えた。
「分かりました。惣佐衛門さん、どうか宜しくお願いします」
「ましらの、あんたならどんな仕事も出来るから心配無いよ」
 ましらの平吉と呼ばれた男は、左のこめかみに走る傷が物語るように、鋭く光る両目を閉じながら、首を垂れ両手を畳に付けた。
 さえは、この時奥の間に茶を持って行こうとしていた。それを見た女中頭のおまきが、
「さえちゃん。呼ばれないうちは奥の間に行っちゃだめよ。大事なお客さんや大番頭さんと一緒の時は尚更だから」
 とさえに言い含めた。
 さえは、客の男の人相風体に何かしら嫌な雰囲気を感じていた。それを確認し、確かめたくて茶を持って行こうとしていた。この店に来て早や一年になるから、おまきの言う事は十分に分かっていた。分かっていた上で、自分の好奇心の為に茶を持って行こうとしただけだった。
 さえは、好奇心の強い子だった。そして、自分の好奇心を満たす為には、なんでもする子だった。この一年は、仕事を覚えるのに忙しくて、なかなか好奇心を満たす事は出来なかったが、今は店の仕事は殆ど覚えたので、本来のさえになっている。
 奥の間から惣佐衛門と客の男が帳場へやって来た。惣佐衛門が、番頭の子吉と進太郎の二人に平吉を紹介した。
「親方の古くからの知り合いで、平吉さんだ。今日からうちで番頭として働いて貰うから宜しく頼む」
「宜しくお願いします」
 ましらの平吉が、神妙な面持ちで頭を下げた。離れた場所からさえはその姿を見て、少し怖いなと感じた。
 平吉の仕事ぶりは、この商売に何年も関わっていたのかと思わせる程、板に付いていた。きびきびと働く姿は小気味が良い。さえは、平吉への最初の印象を改めた。
 十日程経ったある日、お武家と思われる男が三人連れで店にやって来た。
「井兵衛さんは居るかね」
 この時、大番頭の惣佐衛門が出ていたので、平吉が応対に出た。
「どうぞこちらへ。今主人を呼んで参ります」
 平吉は三人のお武家を応接の間に通した。この時、じっくりと平吉の態度を見ていたら、案内したお武家が顔見知りだと気が付いたかも知れない。
「やあ、お三方、久し振りだな」
「お頭とここでは呼んでも大丈夫ですか」
「店の者がいない時なら構わないよ」
 井兵衛は手を叩き、女中を呼んだ。すぐに応接の間に来たのはさえだった。
「さえ。茶を頼む。それと菓子もな」
「はい」
 さえのきびきびした態度を見て、お武家風の客が感心した。
「気が利く子でね」
 井兵衛が答えると、ましらの平吉が、
「目端は利きますが、時々利き過ぎる事があります。何だかこちらの腹の内を見透かされているような気持になります」
「ははは。ましらの平吉程の者が十五の小娘に怯えるか」
「へい。お恥ずかしい話で」
 そこへ茶と茶菓子を持ってさえが座敷に入って来た。
「ごくろうさん。あとはこちらでやるから、呼ぶ迄は構わなくて良いからな」
「はい。分かりました」
 そう言ってさえは頭を下げて出て行った。まさかつい今しがた迄、自分の話で持ち切りだったとは分からずに。
「改めて、お頭ご無沙汰しておりました。ご健勝で何よりです」
「ありがとうよ。茂三郎さんも、それに平左と駒七も元気で何よりだ。三人共すっかりお武家姿が様になっている」
「最初のうちは慣れない武家姿で、いつ地が出ないか冷や冷やしたもんです」
「いや。本当に良く似合っているよ」
「ところで、お頭から江戸へ来いとの文を貰った時は、いよいよ来たかと胸が高鳴りました」
「うん。その事だが、下準備に今少し時間が掛かるから、その日が来る迄の間は、江戸でのんびりしていてくれ」
「何かお手伝いする事はありませんか。何でしたらこちらのお(たな)のお手伝いでも」
「そうしてくれるかい。何かあった時に三人に傍にいて貰えると心強い」
 そういう訳で、三人は武家姿のまま、井兵衛店(いへいだな)の食客という名目で、口入れの現場を手伝った。それから日を置かずして、井兵衛に何人もの客が訪ねてきた。今までも井兵衛に客は来たが、それらは皆、大店の番頭や店主、又はお武家で、明らかに口入れの仕事の事での面会だった。
 店の中の空気が少し変わった。実際にそう感じているのはさえだけのようだが。ある日、さえは井兵衛に呼ばれた。
「さえ、ここへ来てどれ位になる」
「はい。一年とちょっとです」
「あっという間だったな」
「はい」
「さえはここの店をどう思う」
「どう思うと言いますと……」
「ここでの仕事は好きか」
「はい。皆さんよくして下さいますから」
「うん。それはさえが何事も一生懸命やってくれるからだ。そこでだが、さえに打ち明けなければならない事がある」
「何でしょう」
「その前に、これから話す事を断らないと約束してくれ」
「はあ……」
「断ったらもううちでは働けなくなるぞ。それを承知の上で話を聞くか。はいという自信がなければ今断ってくれ」
「でも断るとお店を辞めなければいけないんですよね」
「そうだ」
 井兵衛はそう言うと、懐から二十五両の切り餅を二つ出し、さえの前に置いた。
「和戸の両親を楽にさせて上げられるぞ」
 さえは、じっと五十両の切り餅を見た。
「お前が毎月の給金から仕送りをしているのは知っている。見上げた心だ。まだ幼い妹がいるんだろ。この金をどう使おうとお前の自由だ。これから話す事に首を縦に振ってくれれば良い。たったそれだけの事だ」
 さえは暫く考えた。視線を自分の両手に落とし、唇を嚙みながら漸く、
「分かりました。親方にはお世話になってます。ご恩返しのつもりで、どんな事でも聞きます」
「よく言った。ではお前に頼みたい事を今から話す」
 そう言って井兵衛が居住まいを正した。
「さえ。私の本業を教える」
「はい」
「私の本業は盗賊だ。名前も井兵衛ではなく、黒衣の伊蔵が私の本当の名前だ」
「……」
「驚いたか」
「い、いえ……」
「盗賊だが、どこへでも押し込むという訳ではない。評判の悪い大店だけが私の目当てだ。取引先を取り込もうと悪い事を企む店。役人と手を組み、賄賂を使って阿漕(あこぎ)な真似をする商人。そういった店ばかりを狙う。今、うちの店に集まっている人間は皆私の手下だ。その仲間にさえも加わって欲しいんだ」
「私も押し込みに加わるんですか」
「いや。さえには特別な仕事がある」
「特別な……」
「今から教える両替商に女中として潜り込んで欲しいんだ。店の名前は近江屋という。両替商だけでなく、金貸しもやっていて暴利を貪っている。店の場所は宝町の大通り沿いだ」
「そこの店へ私が入り込んで何をすればいいんですか」
「うん。お前は私達が押し込む夜に戸の(かんぬき)を外しておいて欲しいんだ」
 さえは少し胸を撫で下ろした。もっと難しい事をやらされるかと思ったからだ。
「いつやるんですか」
「早くて一か月先か、遅くとも三か月先には押し込むよ。お前の仕事は一番大事な仕事だ。くれぐれも宜しくな」
「はい」
「近江屋へ女中として入るのは明後日だ。それまでに口入れの手配りをして置く。話は終わった。最後に言っておく。ここでの話が他言無用だ」
 そう言って井兵衛の話は終わった。
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