第15話

文字数 3,570文字

 火盗改めの頭が、松下安綱から井上正治に交代した日、惣佐衛門に伴われて、さえは日本橋本町の泉屋に、伊蔵は清水門外の役宅に呼ばれた。時は文化十三年十月二十五日だった。
「おおう、そちだそちだ。よう来た」
 泉屋へ行くと、長七郎がわざわざ玄関まで出迎えた。二人の手代をすぐに番頭に任せ、さえは長七郎が今にも手を差し出さんばかりに接した。
「さえと申したな。今日からこの店で奉公してくれ」
「はい。なんなりとお申し付け下さいませ」
 惣佐衛門は、
「さえ。頼んだぞ」
 と言って泉屋を後にした。長七郎はさえを女中頭に紹介し、お茶を淹れて来なさいと申し付けた。
 さえは女中頭に厨へ連れていかれ、茶を淹れて長七郎の部屋へ案内した。
「番頭頭さんはお客さんが来たりとか、帳場で用がある時以外は、この部屋にいるから覚えておいで」
 と、女中頭のおりくに言われた。
「失礼します」
 そう言ってさえは長七郎の部屋に入った。
 その頃、伊蔵は清水門外の火盗改めの頭の役宅へ行っていた。およそ二年ぶりに正治と会う為だ。二年ぶりの正治は以前に増して意気揚々としていた。
「久し振りじゃの井兵衛」
「はい。頭にはお変わりなくお過ごしのようで」
「そう見えるか」
「はい。なんだか火盗改めのお勤めに復帰するのが嬉しく思われているかのようです」
「うん。性に合っているのかも知れん。松下殿からはその方の働き、聞いておる。又以前のように力を貸してくれ。宜しく頼むぞ。」
「はい。出来る限りの事は致します」
 伊蔵は腹の中で正治に詫びていた。泉屋だけは譲れませんと。
「今、巷間では卑劣な押し込みが多くなっている。奴らは無慈悲にも女子供迄命を奪って居る。夜の市中巡察も行っているが、なかなか奴らをお縄に出来ていないのが現状だ。これ迄は、狙った店に手引きする者を送り込んで、それで押し込むのだが、最近は大胆にもいきなり押し込む輩が増えて来ておる。お主も充分に注意した方がいい」
「ありがとうございます」
「そういえば、松下殿が言っていた。お主は盗賊共のやり口を随分と詳しく知っておったと」
「たまたまでございます」
「まあいい。素直に褒められたと思うが良い」
「はい。ありがとうございます」
「ではこれで。また折を見て話そうではないか」
「お手柔らかに願います」
 正治の意味深な笑みに見送られ、伊蔵は帰宅の途についた。
 火盗改めの頭が変わったからと言って、伊蔵は計画を変えなかった。当初の予定通り、泉屋を狙う。ただ、正治の鋭利な嗅覚には十分注意した。
 黒衣の一党が三々五々と江戸に戻って来た。総勢十人。皆期待に胸を膨らませてやって来た。屋敷の奥座敷に皆を集め、今回は久し振りに仕事だと告げると、期待通りだった事から、一同一層喜びを募らせた。
「今回狙う店は、日本橋本町の両替商泉屋だ。既に手引き役としてさえを送り込んである。決行の目安は三か月から半年後だ。泉屋程の大店の場合、一年位掛けるのが常だが、機会が熟したと思ったら押し込む」
「お頭、さえとの繋ぎに誰かもう一人潜り込ませた方がいいのでは」
 人買いの辰が言った。
「確かに辰の言う通りだな。だれか繋ぎ役をやってもいいという者はおるか」
「私が行きましょう」
 手を挙げたのは、がえんの駒吉だった。
「では繋ぎ役は駒吉に頼もう。惣佐衛門。駒吉を泉屋へ潜り込ませられるか」
「はい。多分大丈夫かと」
 惣佐衛門は先に口入れした手代のうち一人を引き揚げさせて、代わりに駒吉を潜り込ませる事を考えた。
「盗んだ千両箱は船で運びたい。運ぶ先は日本橋左門町の隠家までとする。お主達も決行の日迄、いつも通りそこで寝泊まりしてくれ。以上だ。何か皆の方であるか」
 伊蔵が皆に尋ねる。皆に異論はない。
「よし。ではくれぐれも決行日迄粗漏がないように」
 惣佐衛門は早速駒吉を泉屋へ送り込む算段をした。伊蔵は、今頃さえはどうしているだろうと思った。自分はさえを便利使いしているのではないだろうか。そう思った。
 その頃さえは、忙しく立ち回っていた。さえが同僚達から疎まれる事なく溶け込めたのは、その働きぶり寄る所が大きい。皆、すぐにさえを気に入った。一つ教えれば十を知るではないが、間違いなく仕事をこなして行くさえに誰もが親身になった。そのうち、番頭頭の長七郎がなにかあればさえを呼び使う事が多くなった。だが、自分の用事にはさえを使うが、主人の織衛門の用事には使わなかった。というよりさえを織衛門の目に触れさせたくないかのような態度だった。当然、この態度は他の奉公人達の目に留まるようになる。さえは番頭頭の女にされると、噂が陰でささやかれ始めた。
 実際に、長七郎はさえを自分のものに出来たらと思っていた。井兵衛店で一目見た時から、そういう思いでさえと接していた。年からいけば孫にもあたるさえを、一女中ではなく、一人の女として見た長七郎。これまで女の噂が無かった。もう五十を半ば超え、女の噂が無かったというのは信じられないかと思うが、泉屋に十二歳の頃から丁稚奉公し、四十数年経った今、番頭頭に上り詰め、行く末は暖簾分けも叶う立場になる迄、仕事一筋で生きて来た証でもある。
 長七郎は、さえに別宅を構えてやろうかと思った。自分が今住んでいる処で一緒に暮らしても良いのだが余りにもそれでは露骨過ぎると思った。長七郎は自分の考えに酔った。さえと同じ空間を二人で過ごす事が出来れば最高だ。
 そんな事を考えていた時、井兵衛店から大番頭の惣佐衛門が一人の男を伴って店へやって来た。
「実は先に口入れしました手代の一人与三郎が、実家で不幸がり、郷里へ帰さねばならなくて、それで代わりになる手代をお連れした次第でして」
「これはこれはご丁寧に。うちは代わりの人間をいれて貰えるならそれで構いませぬ」
「では、この男を置いて行きますので、代わりに与三郎を連れて参ります」
「分かった。番頭に申し付けて置く」
 そう言われて惣佐衛門が帳場の前で待っていると、番頭に連れられて与三郎がやって来た。何が何だか分からないまま、身柄を惣佐衛門に渡された。
「じゃあ与三郎。戻るぞ」
 惣佐衛門に促され、与三郎は店を出て行った。代わりに残った駒吉は、番頭の一人に連れて行かれた。こうして駒吉は泉屋に潜り込む事が出来た。
 駒吉は慎重だった。さえも駒吉を認め、伊蔵からの指示だなと分かっていたが、大事を取って自ら接する事はしなかった。駒吉は不自然にならないよう、自然な形でさえと接する機会を探った。
 それは唐突に来た。番頭がさえに使いを頼んだ横で、駒吉が土間の掃除をしていたら、
「丁度良い。駒吉一緒に行ってくれ荷物があるから運んで欲しいんだ」
「分かりました」
 駒吉もさえも。内心ほくそ笑んだ。
「では行ってまいります」
 さえにうながされ、駒吉が後ろをついて行く形になった。店を出て暫くして漸く駒吉が話し掛けた。
「さえちゃん、久し振りだね」
「何年前になるかしら。それより駒吉さんも手引き役として入って来たの」
「いや。俺は繋ぎ役だ。俺を存分に使ってくれ」
「分かった。もうすぐなのかな」
「お頭の判断次第だな」
「そうね。それまでは粗漏なく女中の仕事を全うしているわ。でも一つだけ困っている事があるの」
「何だい。俺が聞いても良い話しかい」
「うん。番頭頭がやたらと私に執着しているの。何かにつけ仕事を言いつけては、私と二人きりになろうとするのよ」
「それはやっかいだな。何とか仕事の日迄は上手くあしらっておくしかないな」
「うん。もしもの時には駒吉さん助けてね」
「分かった」
 こうして二人は意思の疎通を図れるようになった。そして暫くの間、何事もなく過ぎて行った。
 その時がいよいよやって来た。それは、さえと駒吉が泉屋へ潜り込んで三か月が過ぎようとした頃だった。決行の日は、泉屋へ大名家への貸付金が入る日で、恐らく泉屋の蔵は一万両にならんとするだろう。駒吉は、用事が出来たと言って、泉屋を後にした。残ったさえは押し込みの時刻に表戸の閂を外さなければならない。一番肝心な仕事だ。心の準備は整っている。
 この日、珍しく長七郎が遅くまで帳場に残っていた。昼に入金された金額と証文の額が間違っていないかを、最後の帳簿合わせしていたのだ。必然的にさえも残された。
「さえ。悪いが茶を淹れてくれないか」
「はい」
 少しずつ時刻が迫って来る。さえは少し焦った。長七郎が自宅へ帰ってくれない事には、仕事が出来ない。
 長七郎が茶を飲み、一服つけてさえに向かい、
「さえ。もう時間が遅い。私ももうすぐ仕事が終わるから、さえも寝なさい」
「いえ。最後迄お付き合いします」
「そうしてくれるか。ありがたい。ならば最後にもう一杯茶を淹れてくれないか」
「はい」
 そう言って厨へ行くさえの姿を、長七郎は艶めかしい目で見つめていた。
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