第1話

文字数 3,581文字

 人買いの辰は、さえを一目見て、これは上玉だと思った。すぐさま懐から巾着を出し、小判を懐紙に包み、さえの父親である弥吉に渡した。
 辰は、正面で小さく蹲るように座るさえに視線を送りながら、
「分かっているだろうが、その金は、この子に付いた値だ。言ってみりゃあこの子が稼いだ金とも言える。無駄にするんじゃねえぞ」
 そう言ってさえを促し、その場を立った。
 さえと呼ばれた少女は、人買いの辰にこうして売り飛ばされた。人買いの辰は、普通値を付けても三両がいいところで、今日のさえには珍しく五両の値を付けた。五両といえば、この頃の庶民が一年は暮らせる金額だ。
 辰が人買いになったのは、かれこれ十年前からになる。主に貧しい農家の次男坊や少女を買う。売り抜く先は、江戸の商家が主で、時には少女を遊女屋へ売る事があるが、遊女としては売らず、かむろや下働きとして売る。
「よう、さえは幾つになる」
「もうすぐ十四になります」
「そうか」
 さえの賢そうな眼差しを見ながら、辰は手を伸ばしてさえの頭を撫でた。
 辰とさえは、日光街道の和戸宿を昼過ぎに出たので、千住の宿で今日は泊りにする事にした。さえの足を考えての事だった。辰一人だったら足早に行けば、今日中に日本橋に着いただろう。
 夕方、千住の宿に着いた。辰とさえは、宿場の外れにあった商人宿に泊まる事にした。夕食に辰は熱燗を一本二合徳利で注文した。さえは、真っ白な銀シャリに目を丸くして、食べていいものかどうか迷っている。  
「食べな。ひえと粟しか食った事ねえんだな。これからは三度三度白いおまんまが食えるぞ」
「はい」
 辰に言われてさえは漸く箸を動かし始めた。夕食を終えた二人は、宿の風呂を借りる事にした。風呂上り、こざっぱりしたさえを見て、辰.は益々さえの事を気に入った。つるりと一皮剥けた肌は、瑞々しくいつまでも触れていたくなる衝動に駆られる。
 いけねえいけねえ。惑わされちゃならねえ。そう自分に言い聞かせる辰だった。
 翌朝、宿を出た二人は日本橋まで日光街道を歩いた。朝早めに宿を出たから、昼過ぎには日本橋に着くだろう。そこから四半刻も歩けば、日本橋木挽町に着く。その木挽町に口入れ屋『井兵衛』という店がある。そこが辰の行先だ。
「ごめん下さい」
 店先で案内を待つと、
「辰さんご苦労様です。さ足を濯いで」
 大番頭の惣佐衛門が下働きと思える丁稚に足濯ぎの盥を二つ持って来させた。さえも辰の隣で足を濯いだ。
「お頭は離れで?」
 この店の主人をお頭と呼ぶ人間は多くない。大番頭以外の使用人は皆親方と呼ぶ。その大番頭も、店の者や来客の前ではお頭とは呼ばず、親方と呼んでいる。その理由は追々分かる。
「ええ。辰さんのご帰還を首を長くしてお待ちですよ」
「では奥に顔を出すとしますか」
 辰はさえを促し、離れに向かった。
「お頭、辰です」
 離れ間の障子越しに声を掛ける。
「おう、入りな」
「はい」
 障子を開けた奥に、お頭と呼ばれている井兵衛が端座していた。一目見るとまだ三十代位にしか見えないが、実のところ今年四十になる。
「辰さんご苦労だったな。そこの女の子が今回の収穫かい?」
「はい。北葛飾の和戸宿で見つけた掘り出し物で」
「ははは。辰さんの得意の掘り出し物が出たね」
「どれ、名前は何という?」
「さあ、答えな」
 辰に促され、さえは自分で名乗った。
「顔立ちから賢さが滲み出ているな」
「幾らで買って来たんだい」
「はい。五両で」
「辰さんにしては奮発したものだね」
「これだけの上玉ですから」
「よし。うちで暫く下働きさせて、その後に何処か大店に潜り込ませようかね」
「はい。それが上策かと」
「辰さん、これが今回の分だ」
 そう言って井兵衛は懐から十両の金を出し、辰に渡した。
「それでは私はこれで。さえ。今日からこちらの人を実の父親と思って仕えるんだ。いいな」
「はい」
 はいと返事はしたが、さえは不安気な面持ちで辰を見た。
「安心しな。和戸にいた時よりも良い暮らしが出来るから」
 辰が去って井兵衛と二人きりになったさえは、僅かばかりの荷物をぎゅっと抱きしめた。その仕草を見た井兵衛はたまらず愛おしくなった。
「さえは縫物や勝手仕事は出来るかい?」
「おっかあに教えて貰いましたから、大丈夫です」
 さえは気に入って貰えるよう一生懸命答えた。
「そうか。じゃあ早速今日から仕事して貰おうか」
「はい。何でもします」
「うん。いい心掛けだ」
 井兵衛はそう言うと、手を叩き女中頭を呼んだ。
「今日からお前達と一緒にここで働くさえだ。宜しく頼むよ」
 そう言われた女中頭は、
「私はおまき。宜しくね、さえちゃん。一緒に来て」
 と言ってさえを促した。先ずさえの部屋となる奥の八畳間へ連れて行った。
「さあ、荷物をここに置いて。ここがあんたの部屋。三人部屋になるから、後で同じ部屋の人紹介して上げるね」
「はい」
「ここのお屋敷には、私とさえちゃんを含めて女中が八人いるの。奉公人は六人。番頭さんは、大番頭さんを入れて三人いるわ。皆の名前を覚えるのに最初は戸惑うだろうけれど、頑張ってね」
「はい」
 おまきはさえを伴って、屋敷の中を案内した。屋敷の中は、想像以上に広かった。部屋の間取りを覚えるだけでも大変だと、さえは思った。
 新たに始まったさえの一日は、早朝からの屋敷内の清掃で始まる。長い廊下もぴかぴかに雑巾掛けをする。店先や店の中は、小僧達の仕事だ。朝の清掃が終わると朝食の準備だ。さえ達が清掃している間に、女中頭のおまきと、古株の女中三人が朝食を作る。
 使用人達は、厨に繋がる板敷きの間で朝食を摂る。番頭以上の者は、親方と呼ばれている井兵衛と共に、板敷きの間に繋がる広間で食事を摂る。
 先ずさえが驚いたのは、朝食に干物だが魚が付く事だった。白米が眩しい。無我夢中で食べた。和戸の家にいた時は、正月ですら白米は食べた事がなく、いつも稗や粟の混じった粥の貧しい食事だった。使用人達の食事は早い。番頭や親方の井兵衛よりも先に食事を終えなければならないからだ。最初、さえはそれが分からず、一番最後まで食事をしていて、古参の女中のきよに叱られた。
「さえちゃん、私達使用人は、番頭さんや親方よりも先に食事を終えて、片付けの準備をしなければならないの。私達の事を見ていれば分かりそうな事でしょ」
「すみません」
「おきよさん。叱るのはそこまでにして。初めてで何も分からないんだもの。最初に教えなかった私達にも責任があるんだから」
 おまきが叱られて涙ぐみそうになっていたさえを庇った。おまきはさえをまるで自分の本当の妹のように可愛がった。おまきには、実の妹がいたのだが、三年前に流行り病で亡くなった。その妹とさえが重なって見えたのだろう。それ以上に、さえの仕事ぶりがおまきを感心させていた事もある。さえもおまきを実の姉と思い、何事も相談した。
 とにかくさえは物覚えが早い。一度教えた事は必ず覚える。人の顔や名前を覚えるのも早い。親方の井兵衛にさえの事を尋ねられた時に、これらの事を話すと、井兵衛はうんうんと頷きながら、
「他の子以上に目を掛けてやってくれ。うちで二、三年働いたら、他の大店にやるから」
 と言った。
「他所へやっちゃうんですか」
「ああ」
「そうですか……何だか勿体無い気がします」
「うちは口入れ屋だ。それが商売だからな」
「はい。分かりました」
「うちにいる間は教えられる事は何でも教えてやってくれ」
 確かに井兵衛の店は口入れ屋だ。だが、せっかく自分の処に入って来た使用人を、わざわざ使えるように仕立て上げて、他所へ売り飛ばす感覚が、おまきには理解出来なかった。この時、井兵衛の胸の内には、使用人達には想像もつかない思惑があった事など、当然誰にも分からなかった。
 井兵衛の店は随分と流行っていた。一般の商家だけではなく、大名家で(やっこ)を欲しがっていれば、斡旋したりする程で、それらの客からの信用は絶大だった。又、働き口を紹介して貰う者達にも、口入れ屋井兵衛なら安心だ。という噂が立ち、引きも切らさずやって来る。
 さえが井兵衛の店に来て一年が過ぎた。この頃にはさえは誰もが認める働き頭になっていた。一度でもやって来た客の顔と名前を全部覚える程で、これにはさすがの大番頭の惣佐衛門も舌を巻き、
「さえ。どうしてそんなに覚えられるんだい」
 と尋ねた事があった。返って来たさえの返事は、
「自分でも良く分からないんです。注意して見ていたら、ちゃんと覚えているんです」
 と言った。
「私なんか寄る年波で、昨日会った人間すら忘れてしまうというのに」
 そう言う惣佐衛門とて、ただの年寄ではない。少なくとも大番頭を務めるだけの才腕は持っているし、井兵衛から全幅の信頼を得ている。
 その客がやって来たのは、冬の雪解けも終わり、梅も満開になった季節だった。

 
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