第3話

文字数 3,589文字

 さえが近江屋の女中として働くようになって十日程経ったある日、口入れ屋井兵衛から丁稚の新之助がやって来た。
「おさえちゃん、これ親方から」
 と言って一通の文を渡した。さえは伊蔵の処で文字を教えて貰っていたので、簡単な文なら読める。
『なのかごよていどおりたのむこくげんはうしみつ』
 いよいよか。とさえは覚悟を決めた。
 近江屋は、伊蔵が話していたように、狡猾な手段で金を巻き上げていた。お店の仕事一切を井兵衛の店で学んでいたので、ちょっと帳場を覗き見すれば、何がどうなってどうなるかは一目瞭然で分かった。
 予定の日。さえは朝から気もそぞろだった。仕事が手に付かない。夕食が終わり、各自が各々の部屋で繕い物等していた。近江屋では奉公人が部屋で夜遅くまで起きているのを禁じていた。理由は、灯りの油代にお金が掛かるからという事からだった。こんな事も伊蔵の店とは大違いだった。必然的に早く床に就く事になる。
 なかなか時間が経たない。相部屋の女中の寝息が聞こえて来た。刻限が来た。さえは厠へ行くふりをし、入口へ向かう。閂を外すのに手間取った。何とか閂を外し、戸をゆっくりと音が出ないようにして開けた。
 正面に、黒い衣装に頭巾を被った十人余りの男達が立っていた。
「さえ。ご苦労」
 伊蔵の声だった。
「お前だけ何もされないと後々疑われるから、悪いが縛るぞ」
「はい」
 人買いの辰が、
「暫しの我慢だぞ、さえ」
 と言って、さえを縛り上げた。
 伊蔵は他の者を連れて奥へと入って行った。何事かと使用人達が起きだして来るそばから、皆縛り上げた。そして、一番奥の部屋へ行き、近江屋の主人夫婦を縛り上げた。
「何をする、こんな事をしてただで済むと思っているのか」
 抵抗する近江屋の主人、嘉平治をぐるぐる巻きに縛り上げて、蔵の鍵のありかを聞き出した。この時、ましらの平吉がどすの効いた声で小刀で脅した。
 蔵の錠前を開け、中に山積みになっていた千両箱を皆で運び出した。この間、時間にして僅か四半刻だった。店の前には惣佐衛門が見張りをしていた。用意していた大八車に、蔵から運び出した千両箱を次々と積んだ。
「さあ、全部積み終わった事だし、みんな引き揚げるぞ」
「おう」
 丑三つ過ぎの通りを、伊蔵達は大八車で、用意していた隠家へ向かっていた。隠家は、近江屋のある宝町から近い、日本橋左門町に用意して置いた。何から何まで用意周到だ。
 全てが予定通り上手く行った。九割はさえのお陰だ。奪った千両箱を確認すると、全部で十箱あり、一万両の金が手に入った。伊蔵は、手下達に約五百両ずつ渡し、三千両を貧しい庶民の家々に投げ銭し、残りは自分の物にした。
 五百両という大金を手にした手下達は、投げ銭をする為にそれぞれ隠家を立ち去って行った。二千両余りの金を手にした伊蔵は、惣佐衛門と一緒に、明け方迄隠家にいた。
 翌朝、宝町周辺は大騒ぎになっていた。火盗改めが出動し、事件の様子を訊いて回っていた。当然、さえにも尋問があり、しつこい位にその時の模様を訊いて来た。
「どうしてお前は部屋でなく帳場の近くで縛られてたんだ」
「はい。厠で起きたんですが、入口の戸ががたがたと音がして、何だろうと見に来ましたら、戸が開いて黒ずくめの男達が雪崩れ込んで来たんです。そしたら声を出すと為にならないぞって言われて、縛られたんです」
「本当に戸が開いていたんだな」
「はい」
 この辺の言い訳は、伊蔵から言われ、その通りに話した。
「おかしいな。奉公人が最後に戸締りを全部やったと申しておる。嘘を吐くとそれこそ為にならないぞ」
「恐らく奉公人の人が閂をしっかり掛けていなかったのではないかと」
「尤もらしい話だが、お前この店に来てまだ間も無いという事だが、以前は何処で働いていた」
「口入れ屋の井兵衛店で働いていましたが、こちらの店が人手が欲しいという事で、一時働(いっときばたら)きに行ってくれと言われて来ました」
「あの口入れ屋か。なら出自は確かだな。分かった。お前を信用しよう」
 火盗改めの調べは終わった。
 この日から暫くの間は、黒衣の押し込みの話で持ち切りになった。特に、悪名高い近江屋がやられ、投げ銭が庶民の間では痛快だったようで、義賊とまで口にする程だった。
 押し込みから十日後。さえが井兵衛店に戻って来た。奥の間に行って伊蔵に挨拶をすると、伊蔵がさえに袱紗包みを差し出した。
「お前の取り分だが、どうする。私が預かってやろうか」
 さえは、二つ返事でそうして下さいと言った。
「必要な時は何時でも言うんだよ」
「はい。ありがとうございます」
「さえ。これからも同様な事を頼むと思うが、その時には宜しくな」
「はい。親方の為なら何でもします」
 さえも投げ銭の事は耳にしている。その行為が町民の間で義賊とまで持て囃されている事が、まるで自分がそう思われているようで心の底から嬉しかった。
 井兵衛店に戻って来たさえは、水を得た魚の如く、嬉々として働いた。その一番の理由は、親方の井兵衛こと黒衣の伊蔵が、自分を心の底から信用してくれている事から来る。
 伊蔵はさえに様々な事を教えた。井兵衛店に来てから、読み書きが出来るようになった。最近は惣佐衛門から算盤を教わり、帳簿付けも手伝えるようになった。まだ十六にもならないのに今では女中頭のおまきより仕事が出来るようになっていたし、何より伊蔵からの信頼が大きかった。
 近江屋の押し込みから半年程過ぎた夏の頃。成田屋という酒問屋が押し込み強盗に遭った。問題は、この押し込みが黒衣を名乗っての出来事だったのだ。しかも、住み込みの使用人五人と主人夫婦に子供二人が皆切られて絶命していたのだ。賊は千両箱を運び出すと、遺骸の上に黒衣を掛け、ご丁寧にも懐紙に黒衣参上と書き記した物を置いて行ったのである。
 僅か半年余りの間に、押し込みが続くとは示しが付かないと、火盗改めの者達は必死になって盗賊を追った。火盗改めの見解は、二軒目の押し込みは黒衣の名前を騙った別の者の犯行と判断した。この事件があってから、夜の見回りに人員を強化した。
 伊蔵は成田屋の事件に憤慨していた。罪も無い人間を殺めた事に憎悪を剝き出しにして、
「見つけたら皆殺しにしてやる」
 とまで言わせたのである。伊蔵の信条は、人を殺めない、傷付けないだ。これ迄幾度となく押し込みを働いて来たが、この信条にそって、手下を動かして来た。更には、貧しい家へ投げ銭する事も信条だった。
「惣佐衛門。話があるんだ」
「はい。お頭何でしょう」
「成田屋の件だが」
「うちらの名前を騙った不届きなやから達の事ですか」
 さすがに伊蔵とは長い付き合いだ。一を聞いて十を答える惣佐衛門だ。
「どうだろううちらで賊を地獄へ落としてやらないか」
「いいですね。やり方はどういう風に」
「この店を囮につかう」
「この店をですか」
「押し込みさせるんだ」
「押し込みを……」
「使用人達は、左門町の隠家に行って貰い、この店に押し込みをさせる。手引きは、そうだなやっぱりさえがいいか、今回はちょっと危険だが、あの子なら大丈夫だろう。賊に潜らせる方法だが、さえを使用人として賊に募らせる。使用人としてではなく、手引きの女中としてな」
「賊の見分け方は」
「賊は多分食い詰めた浪人の集まりだと思うが、何処かの店の人間に化けて来ると思う。だが幾ら上手く化けたとしても、浪人の臭いは消えない。そして、さえの手引きで賊はこの店にやって来る。後は賊を討ち取るだけだ。但し、奴らも大金を得たばかりだから、暫くは江戸にはいないだろう。だから半年、長くて一年後位に賊は江戸へ戻って来て、押し込む店を探す筈だ。うちがその店になるという訳だ」
「成る程。では又手下をこの店に集めるんですね」
「いや。火盗改めに来て貰う」
「火盗改めにですか」
 惣佐衛門はさすがにお頭は切れると納得した。
 伊蔵はさえを呼んだ。そして惣佐衛門に話した内容をさえにも話した。
「罪も無い人間が殺された。私の信条は殺さない、傷付けないというは知っているな。しかも私達の名前まで騙っている。さえ、成田屋の者達に代わって敵討ちをしないか」
「敵討ちですか。そりゃあ出来るものならしたいです」
「うん。それでさえにも又手伝って貰いたいんだが、いいかい」
「はい。なんでもやります」
「今度はこの店が舞台だ。この店に賊を招き、火盗改めに召し取らせる。さえの仕事は近江屋の時と同じだ。賊をこの屋敷へ誘うのだ」
「はい」
「今度は少し難しいぞ。相手は二本差しだからな。大丈夫か」
「ええ。やれます」
「よし。実際には半年か一年先の仕事になると思うが、時が来たら宜しく頼む」
 その日から、口入れの名簿にさえの名前が載った。何件もの商家が、さえを奉公人にしたいと言って来たが、惣佐衛門は全て断った。そんなある日、町人髷が不自然な男が店にやって来た。
 
 
 
 
 
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