第5話

文字数 3,251文字

 井兵衛店への押し込み騒動があってから、伊蔵と火盗改めの頭である正治は、時々会う仲になっていた。会おうと誘うのは、決まって正治の方だが、何かがあってのものではなく、ただ世間話をする程度だった。それでも伊蔵は喜んで会った。盗賊の頭と、火盗改めの頭の会話程面白いものはない。
「井兵衛は口入れ屋を営み始めてから何年になる」
「はい。かれこれ十年になります」
「大名家や旗本家にも奉公人を入れているらしいではないか」
「はい。お陰様で御贔屓にして頂いております」
「それらの屋敷で博打をやっているという噂は聞いた事はないか」
 火盗改めは、火付け盗賊の取り締まりの他に、賭博の取り締まりもやっていた為、この時も伊蔵から何か噂は得られないかという思いで問い質したのだ。
「今までの処そういう噂は聞いた事はありません」
「そうか。なら今後そういう噂を耳にしたら儂に教えてくれ」
 大名屋敷や旗本屋敷で隠れて博打をやっている、という噂を最近耳にする事から、正治は奉公人を入れている伊蔵の情報力に掛けたのだ。
 火付け盗賊改め方として任務に就いている正治は、町奉行とは別の組織で、武装強盗団ともいえる盗賊を取り締まるべく組織された集団である為、武力を有する集団の頭である。町奉行と同様、目明しも使う。だが、なかなか事前に押し込みがあるという事を知る事がなく、押し込みにあってから現場に駆け付ける事が多く、正治はその事に頭を悩ませていた。井兵衛店の時のように、事前に分かっていれば、簡単に一網打尽に出来るのにと、思う正治であった。
 こうして正治と親密になっていった伊蔵だったが、正治が盗賊の動向に過敏になっている事を知り、その事から当面は押し込みを控える事にした。
 井兵衛店押し込み騒動から一年が過ぎたある日。呉服問屋の大和屋から、紹介した奉公人が抜け出して来るという出来事が起きた。事情を聴いてみると、主人の儀兵衛の過度な暴力が使用人に及び、皆戦々恐々とした毎日を送っているという。ついこの間も少しだけ仕事を間違えた女中へ殴る蹴るの暴行を働き、大怪我を負わせたという。
「もう我慢出来なくて、それで抜け出して来ました。どうかあの店には戻さないで下さい」
「分かった。その事は任せなさい。お前さんの悪いようにはしないから」
 大番頭の惣佐衛門はそう言って若い奉公人を宥めた。惣佐衛門はこの件を伊蔵に話した。
「大和屋の噂は私も耳にしていましたし、奉公人の件だけでなく、商売上も余り良い噂は聞きませんでした。なので、今後は奉公人を入れずにおこうかと思うのですが」
「惣佐衛門さんの思う通りにして下さい。それより、うちが奉公人を入れなくなっても、他から入れてしまえば、同じ事は又起きます。この事を考えなければなりません」
「確かにそうですな。ならばどうされますか」
「大和屋に罰を与えなければなるまい」
「押し込みをですか」
「ああ」
「宜しいかと」
「では、いつも通りの手筈で」
「手引きは又さえにですか」
「そうだな。さえに又頼むと火盗改めに勘繰られたりしないかな」
「そうですね。そこは上手い理由を考えないといけませんね」
「今回はましらの平吉に頼むとするか」
「はい。それが宜しいようで」
 大和屋への押し込みが決定した。惣佐衛門は各地にばらばらになっている手下達に手紙を出し、江戸へ集まるようにした。
 ひと月とせず手下達が集まって来た。ましらの平吉も手代風な格好でやって来た。さえは手下達が集まって来るのを見て、押し込みが近いと察した。ある日、さえは伊蔵に、
「今回私は何をやれば良いのですか」
 と尋ねた。
「今回はさえは何もしなくていい」
「何故です。私ならやり方から何から全部分かっていますから、その方が都合が良い筈です」
「確かにそうだ。私も初めはさえを使うつもりでいた。だが火盗改めが出てくれば、何故同じ人間が押し込み先にいるんだという事になる。疑われるのは間違いない」
「そこは私が上手く話します」
「そこまで言ってくれてありがたいが、私の懸念は拭えない。それが綺麗に拭えたらさえにも手伝って貰うが、今の状況下ではさえを火盗改めに晒す訳にはいかない。了承しておくれ」
 そこ迄言われて漸くさえは納得した。伊蔵はさえの思いに感謝した。だが今回はさえを危ない目に合わせる訳にはいかない。納得したさえが部屋を出て行くと、伊蔵はさえの見せた健気さに両手を合わせたい気持ちになっていた。
 伊蔵はましらの平吉を部屋へ呼んだ。目的は、平吉に手引きを頼む為だ。
「平吉。大和屋へ奉公人として潜り込んで欲しいんだ」
「ヘイ。お安い御用で。ですが人は足りているんですか」
「大和屋では奉公人が虐げられて、抜け出しているものが多いようだ。よって常に奉公人を探している。ひと月もせずそなたが潜り込める筈だ」
「成る程」
「手筈はいつも通りで」
「分かりました」
 大和屋の番頭が井兵衛店へやって来たのはそれからひと月ばかりしてからだった。
「今回は若い者ではなく、年配の手慣れた者を紹介して欲しいのだが、丁度良い奉公人はいるかい」
 と、太和屋の番頭が言うと、大番頭の惣佐衛門が、
「今、丁度良い奉公人がいます。給金は年三両。手前どもに十両と支度金として三両が必要になりますが」
「構わない。その者を雇い入れよう」
「では今日の夕方までに太和屋さんへ行かせます」
「宜しく頼みます」
 呉服問屋の太和屋は本所松坂町にある。普通に歩けば日本橋から半刻程かかるが、ましらの平吉の足ならばその半分の時間で歩いてしまう。異名のましら所以たるところだ。
 太和屋では雑用から店全般の事まで、平吉はこなした。働き始めた初日から、既に何年も太和屋にいるような働きっぷりだ。主人の儀兵衛も、さすがに平吉には手を出す事は無かった。
 太和屋へ押し込む日が決まった。伊蔵は、手下達を左門町の隠家へ集めた。
「今回の仕事は金目当てというより、義憤からのものだ。よって前回の近江屋の時のように、大金を得られないかもしれないが、そこは了承してくれ。よいな」
 伊蔵の言葉に皆了承したと頷いた。
「目指す太和屋にはましらの平吉が、手引き役として残っている。やり方はいつも通り。決して人を殺めるな。縄で縛るだけだぞ。では決行の日は明日。くれぐれも明日迄は自重するように」
 伊蔵は皆に言い足りない事は無いかと思ったが、もう仕事は始まっているんだと言い聞かせた。
 当日夜。伊蔵達は本所松坂町の近く迄、船を仕立てて向かった。総勢九名を乗せたちょき船は、誰とも出会わず、目的地へ着いた。
 時は九つ半。伊蔵が太和屋の扉に手を掛けた。すうっと開いた。一同伊蔵に続いて屋敷内へ入って行った。入口の横で、ましらの平吉が佇んでいた。伊蔵と平吉が目で肯き合う。
 手下達が奥へ行き、奉公人達と主人夫婦を縛り上げていた。手の空いた者から蔵へ行き、金を盗りに行った。金は思った程多くはなく千両箱が二つだった。手筈通り平吉も縛り上げる。後は皆が無事隠家まで帰れるかどうかだ。
 ちょき船まで早足で皆向かう。漆黒の闇の中、黒衣の集団は、無事ちょき船を使って隠家へ戻った。
 一仕事の後は、皆気が逸っている。伊蔵もだ。隠家にはさえが待っていた。どんな事でもいいから仕事を手伝いたいというさえの気持ちをくみ、ならば隠家で皆の身の回りの事を宜しく頼むという事になった。
 さえは、酒の用意をしていた。気が逸っている時は、酒は逆効果ではないかと伊蔵は思ったが、寧ろ気持ちが落ち着いた。飲んで気が大きくなる者もなく、皆落ち着いた酒だった。
 翌日、ましらの平吉も戻って来た。火盗改めの調べはかなりしつこかったそうだ。それはそうだ。まだ太和屋に入って間もない人間が、手引きしたと疑われるのは仕方の無い事だ。一番聞かれたのは口入れ屋井兵衛との関わりだった。近江屋との事もあったから、火盗改.めにしてみれば、疑うのも無理からぬ事だった。
 伊蔵は火盗改めの頭である井上正治に呼ばれた。伊蔵は清水門外の役宅まで出向いた。
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