【06-2】友の失踪(2)

文字数 2,889文字

さて、どうするかな――と、勇は月島署の玄関前に立ち止まって考える。
何気なく振り返ると、先程の若い制服警官が、怪訝そうな表情でこちらを見ていた。

苦笑した勇は駐輪スペースに移動して、止めていた自転車に跨った。
――中島の部屋にもう一度行ってみるとするか。
勇は心の中でそう決断した。

特に何かを期待している訳ではなかったが、家でぼおっと考え事をするよりも、動いている方が気が楽だと思ったからだ。
もちろん中島の消息は気になるし、心配でもある。

自転車を置きに一旦自宅に戻った勇は、家の中には入らず、そのまま最寄りの月島駅に向かった。
月島から大江戸線に乗って1駅目の門前仲町で東西線に乗り換え、南砂町で電車を降りる。
駅から10分ほど歩いた場所にある古びた5階建のマンションが、中島の住まいだった。

12年前に妻を亡くした中島は、それまで暮らしていた江戸川区の住まいを引き払うと、この賃貸マンションに引っ越してきたのだ。
その時点で既に二人の子供は独立していたので、前の家は一人暮らしには広すぎるというのが理由だった。

「この方が気楽でいいやね」
そう言って中島は笑っていたが、前の家には妻との思い出が多すぎて、寂しいのだろうと勇は思っていた。
勿論そんなことは、中島に一言も告げてはいなかったのだが。

マンションの部屋にはやはり鍵が掛かっていて、摺ガラスの向こうの室内は暗かった。何度か呼び鈴を鳴らしてみたが、返事はない。
――やっぱり戻ってないか。
そう思うと、不吉な思いが打ち消しても、打ち消しても、次々と湧いて来る。

勇はその場にいるのが急に居た堪れなくなって、逃げるようにマンションを離れた。
そのまま来た道を駅まで戻ったが、歩いている間中まったく考えがまとまらず、苛々が募るばかりだった。

駅に着いた勇は、そのまま家に帰ろうかと思ったが、思い直して東西線を反対方面に向かうことにした。
中島の勤め先に行ってみようと思ったからだ。

南砂町から荒川を越えて1駅の西葛西で電車を降りる。
駅から荒川方面に10分ほど歩くと、中島が務めている自動車教習所の建物が見えた。

教習所の中に入ると、教習生らしい男女でかなり込み合っていた。
当たり前のことだが、若い子の数が圧倒的に多い。
玄関を入って左手にある、案内カウンターに向かうと、勇は係の女性に身分と来意を告げた。

20代前半くらいの年に見えるその女性は、最初は勇の意図が分からなかったらしく不審そうな顔をしていたが、勇が中島の警視庁時代の同僚であることを告げると、
「し、少々お待ち下さい」
と言って、慌ててカウンターの奥の部屋に駆けこんで行った。

そして数分後に戻って来た時には、中年のやや草臥(くたび)れた男を伴っていた。
どうやら彼女の上司らしい。
「事務課長の徳永です」
男は、ずれたメガネの位置を直しながらそう名乗ると、勇に来意を尋ねた。

勇は自分が中島の元同僚で親しい友人だったこと、警視庁の元同僚から中島の失踪について照会があったことなどを手短に話すと、彼が最後に教習所を出た時の状況を知りたいと告げた。

自分の身分については、警視庁に照会してもらってよいと言うと、徳永は少し安心したらしく、勇を応接室に通してくれた。
ソファに腰を下ろした途端、徳永と名乗った男はべらべらと話始める。
かなりお喋りな性格のようだ。

「いやあ、私も今回の件は気をもんでいるんですよ。
なにしろ中島さん、無断で休むような人じゃないですから。

だから欠勤された日の朝に中島さんに電話したのも、その後で息子さんに連絡とったのも、実は私なんですよ。
心配でねえ。

まあ、そんなお年でもないですが、帰る途中に倒れることだって、ないとは言えないじゃないですか。
ああ中島さん、自転車で通勤されていたんですよ」

「自転車ですか?」
「ええ、そうです。健康のためだと仰って。
それで、もしかしてと色々と変なこと想像してしまって。
ほら、今暑い時期じゃないですか」

徳永がそこまで言った時に、ドアをノックして40代くらいの女性が入って来た。
両手でお茶を乗せた盆を持っている。

「失礼します」
女性はそうと言うと、勇と徳永の前に、氷の入ったお茶のグラスを置いた。

「すみません」
勇は女性に向かってぺこりと頭を下げる。
徳永は勇にお茶を勧めながら自分も一口飲むと、話を続けた。

「あの日は確か、金曜日だったと思います、ええ。
中島さんには、月水金の週3回来ていただいてたんですよ。
勤務時間は朝の8時からお昼の3時まででして。

あの日も、いつも通り8時少し前に出勤されて、仕事をされていて。
あの日は学生さんの夏休み期間中の集中コースの申込みで、皆ばたばたとしていまして。
気がついた時には、中島さんは退勤された後でした。ええ」

「何かその、中島にいつもと変わった様子とかはなかったですかね。
体調が悪そうだったとか」
――刑事時代の聞き込みみたいだな。
勇は徳永に訊きながら、内心苦笑する。

「そうですねえ」
と言って徳永は少しの間考え込んだが、
「いや、特に変わった様子はなかったですねえ。

それまで通り、お元気そうでしたし。
何かその、悩んでいるとか、そんな様子もなかったと思いますよ」
と、その時の様子を思い浮かべるように、斜め上を見る。

「そうですか。ところで昼の3時といえば結構早い時間帯ですが、帰りにどこか寄り道するとか、そんなことは言ってなかったですかね?」

「寄り道ですか。
うーん、そうですねえ。

そう言えば夏の始まりの頃に、このまま帰っても暇だから、小松川公園の辺りまで遠回りして帰るんだ――と仰っていたことがありましたねえ。
健康のためだと仰って。

暑い時期だから気を付けて下さいよ――と言ったんですけどね。
公園に出てる屋台で、アイスクリームを食べて帰るのが楽しみだとか」

「小松川公園――ですか?」
「ええ。ここからだと葛西大橋を渡って、荒川沿いにずっと上に行ったところにある、結構大きな公園です」

そう聞いて勇は考え込んだ。
無駄かも知れないが、行って見ようかと思ったのだ。

それを察したように徳永が、
「ひょっとして、あそこまで行かれるんですか?今日はお車で?」
と勇に訊く。

「歩きだと無理ですかね?」
勇がそう返すと彼は、
「歩くのはちょっと。かなり遠いですよ」
と言いながら、困ったような表情をした。

「そうですか」
勇はその返事に少し落胆した。

それを気の毒に思ったのか、徳永は、
「何でしたら、タクシーをお呼びしましょうか?
それだと10分か、15分くらいだと思いますよ」
と提案してくれた。
中々親切な男である。

「ぜひお願いします」
勇の返事に頷くと、徳永は気軽に立ち上がり部屋を出て行った。

そして数分ほどで戻ってくると、
「すぐに来てくれるそうです」
と、勇に告げた。
彼の言ったとおり、タクシーは5分もしないうちに到着した。

勇は玄関先まで見送ってくれた徳永に礼を言い、タクシーに乗り込むと、
「近場で悪いんだけど、小松川公園まで」
と、運転手に行き先を告げる。

「荒川沿いですね?」
中年の運転手はバックミラー越しに勇を見て言うと、後は無言で車を発車させた。
愛想が良いわけではないが、特に嫌そうな素振りでもない。
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