【08-3】拡がる不穏(2)―3

文字数 2,543文字

玉木勇は、深川警察署内の廊下に置かれた長椅子に座り込んで、呆然としていた。
勤め先のスーパーから、妻の富子が突然いなくなったのだ。
勇は自宅までパトカーで迎えに来た警官にここまで連れて来られ、近頃の富子の様子やら何やらを、根掘り葉掘り聞かれていたのだった。

しかし勇には、富子が失踪する理由がまったく思い浮かばない。
仮に勇に愛想を尽かしたのだとしても、仕事先から突然いなくなるような無責任なことは、富子の性格からすれば考えられなかった。
まして富子は、清掃中に突然トイレからいなくなったというのだ。

同僚の清掃員は、富子がトイレから出たことは、絶対ないと言い切っているらしい。
その時たまたま店の前に出ていた、スーパーの従業員も同様の証言していた。
その店員は富子たちとは顔見知りで、トイレ前の清掃をしていた時、その同僚と立ち話をしていたそうなのだ。

少なくとも富子が姿を消した際に、トイレの出入り口を通らなかったのは、確実なことのようだった。
だとするとトイレの窓からということになるが、わざわざ仕事中に、苦労してトイレの窓から姿をくらまさなければならない理由がまったく不明だった。

自分の意思で失踪するなら、他にいくらでも適当な機会はあったはずだ。
だとすれば、すぐに連想されるのが最近頻繁に起こっている失踪事件だ。
――中島に続いて、富子まで巻き込まれてしまったのか?!
警察の事情聴取が終わった後、勇は長椅子に座り込んで頭を抱えてしまった。

そこへ「お父さん」と、上から心配そうな声がかかる。
勇が顔を上げると娘の絵海(えみ)と孫の智也(ともや)、そして婿の村﨑貴之(むらさきたかゆき)が目の前に立っていた。
警察に着いた際に娘に電話したので、慌てて駆けつけて来たのだろう。
しかし貴之まで一緒にいるので勇は少し驚いた。

「おじいちゃん」と、いつものように智也が抱き着いてくる。
絵海はそれを制止しようとしたが、それを勇は眼で止め智也を膝の上に抱き寄せた。

「一体何があったの?」
絵海が心配そうに聞く。
「何がどうなってやがるのか、俺にもさっぱり解らないよ」
勇は力なくそう答えたが、それでも言葉を探し探し、今しがたまで警察から聞かされた状況を、絵海と貴之に語って聞かせた。

話している間中、膝の上の智也が心配そうに勇を見上げている。
絵海と貴之も沈痛な面持ちで聞いていた。

「それって、お母さんも失踪事件に巻き込まれたってこと?」
勇の話が終わると、絵海がおずおずと切り出した。
すでに目に涙を溜めている。

「そう簡単に決めつけない方がいい」
そう言って嗜める貴之に、絵海は強く反論した。
「だってお父さんの話からすると、そうとしか思えないじゃない。
お母さんが自分から失踪するなんて、ありえないわ」

「おいおい、喧嘩するなよ。智也が怯えるじゃないか」
勇はそう言って貴之と絵海を制したが、普段温和な二人が言い争うことなど、滅多にないことだと思った。
突然の事件で二人とも動転しているのだろう。
絵海たちに話したせいか、逆に勇の方は冷静さを取り戻していた。

「今のところ、警察でもはっきりしたことは解ってないんだ。
だから、俺らが早合点して言い争うこともないだろう。

母さんの心配してくれて、わざわざ来てくれて二人ともありがとうな。
智也もな。
婆ちゃんそのうち、ひょっこり現れるかも知れないし、ここにいても仕方ないし俺は家に帰るわ」

そう言いながら、勇は自分にそう言い聞かせているのだと思った。
本当は自分自身が居ても立ってもいられない心境なのだが、ここで待っていても仕方がないのも事実だ。

「貴之君も忙しいのにありがとな」
婿の貴之の方を見るでもなくそう言うと、勇は長椅子から立ち上がった。
別に貴之を嫌っている訳ではなく、むしろよく出来た婿だと思っている。
しかし、どうしても照れくささが先走って、まともに目を見て話せないのだ。

「お前達も帰りなさい。遅くなると智也が眠くなるしな」
何か言いかける絵海を制して、「またな」と智也の頭を一度撫で勇は、警察署の玄関の方に足を向けた。

「お父さん、車で来ているので送りますよ」
後から貴之がそう言ってくれたが、勇は手を振って断った。
今の状態で、娘一家と一緒にいるのが何となく気まずくて、億劫になったのだ。

「なあに、大した距離でもないから歩いて帰るよ。
心配しなさんな。
何か警察から連絡があったら電話するよ」
そう言うと勇は三人に背を向けて歩き出す。

「おじいちゃん、今度遊びに来てね」
背後から掛かった智也の声にも、振り向かずに手を振る。

外に出ると、蒸し暑い空気が一気に全身に纏わり付いてきた。
立ち止まり、暮れかかる空を一度見上げると、勇はとぼとぼとした足取りで家路に着いた。

――この喪失感は一体何なんだ?
歩きながら勇は思った。
体の中身を根こそぎ持って行かれた様だ。
後には玉木勇という抜殻だけが残されている。
その抜殻が、失ったもののあまりの大きさに呆然としているのだ。

――今更気づくとはなあ。俺の居場所は、富子だったじゃないか。
怒り、悔恨、悲嘆、焦燥、恐怖。止めどなく湧き出てくる負の感情を抑えきれない。
失くして初めて知るなどという生易しい話ではなかった。
自分の居場所が消滅してしまったという事実を、目の前に突き付けられたのだ。

勇はこれまでに経験したことがない程、不安定になっている自分を感じた。
このまま自分の心が壊れしまうのではないかという恐怖が沸き起こって来る。
――何でこんなことになってしまったんだ!?

もちろん事故や病気で突然身内を失くすことなど、誰にでも起こり得ることだろう。
だからと言って、こんな理不尽な離別を受け入れることなど到底出来ない。

その時勇は思った。
自分が刑事時代に関わった事件の、被害者の家族や友人、恋人たちは、今の自分と同じ思いでいたのだろうかと。

ある日突然、自分の大切な人と二度と会えなくなる――そんな状況に陥ってしまったら、その人たちはきっと今の自分のように、心の置きどころを見失ってしまうのだろう。
それは受けた者にしか分からない衝撃だと思った。

勇は立ち止まり、その場から動けなくなってしまった。
通行人たちが、彼の様子を怪訝そうに見ながら通り過ぎて行く。
――帰る場所がなくなったんだ。
勇は全身が震えるのを感じながら、いつまでも立ち尽くしていた。
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