【06-3】拡がる不穏(1)―3

文字数 2,450文字

「それより何かあったん?いつもより表情暗いよ」
渚に言われて我に返った光は、口に含んだばかりのビールを吹きそうになった。

幼稚園のことなので、渚に気取られまいとできるだけポーカーフェイスを装ったつもりだったのに、まったく通用しない。
渚は、ちょっと怖くなるくらい観察力があるのだ。
その凄さは、これまで付き合って来た8年間の間に嫌というほど見てきた。

誰もそんなことに気づかんだろうというようなことを、渚は当たり前のように見て憶えている。
ある意味便利なところもある一方で、結構こいつやばいな――と思わなくもない。
尤も渚に言わせると、光は超人的に勘が鋭いらしいのだが。

光は缶に半分ほど残ったビールを一気に飲み干すと、先日灰野優子(すみのゆうこ)から聞いた話や、当人がその日を境に消息不明になったこと、今日そのことで警察が幼稚園にやって来て、優子のことを根掘り葉掘り訊いていったことなどを、ぽつぽつと話した。

渚はその話を、終いまで黙って聞いていた。
そして、
「それで、その優子って子の話を聞いた日に、やっぱ一緒に家まで行くべきだったとか後悔してるわけだ。
あんたらしいっちゃ、あんたらしいけど、それって意味なくねえ?」
と、身も蓋もないご意見をド直球で投げつけて来る。

思わずカッとなった光は、
「何で意味ないんだよ」
と少し喧嘩腰で返す。
しかし渚からは、またも剛速球が返って来た。

「幼稚園児の送り迎えじゃないんだから、いい大人の付き添いなんて毎日してらんないでしょうが?
あんたも暇持て余してるわけじゃないんだし。

仮にその日一緒に帰って、その場所を通らなくたって、その子は多分別の日に絶対行ってたよ。
そういう意味では、早いか遅いかの問題だったんじゃねえの?

それに、その優子って子が、その日も同じ場所を通ったかどうかなんて分かんないでしょうが?
違う場所通ってて、何かに巻き込まれたかも知んねえし」

「何かにって、どういうことよ?」
「だからさ。あんたが優子って子から聞いた話自体が、全然分からない話じゃん。
その、後ろを歩いてて消えた人ってのが、本当に消えたかどうかも分からんのでしょうが?」
「まあ、そうだけど」

「だったら、優子ちゃんは別の事情で行方不明になったかも知んない訳だ。
それをあんたが、うじうじと悩んだって仕方ないって。

それに、そんだけ近所で何人も行方不明になってるんだったら、警察も真剣に探してんじゃねえの?
現にあんたの幼稚園に、何だっけ?そうそう、事情聴取とかに来たんでしょ?」

渚の問いに光は曖昧に頷いた。
「それであんた、警察にそのこと言ったん?
後歩いてた人が急に消えたって話」
「うん、一応優子から聞いた話は言っといたけど」

「それで警察は何て言ってた?」
「何てって。その、何て言うんだっけ?
そうそう、何か怪訝そうな顔してたけど。一応手帳にはメモってた」

「それって信じてねえな。多分」
「確かにそんな気もするな」
「あんたはどう思ってるの?その、優子ちゃんの話」
「どうってまあ、人間が急に消えるなんて、ちょっと考えられんけど。
でもあの子、嘘つく子じゃないし…」

「見間違いってこともあるんじゃねえ?」
「それはあたしも考えたけど。
優子の話って、妙にリアルだったんだよね」

「リアルねえ。
あたしが直接聞いたわけじゃねえから、何とも言えんが。
でも、一つだけ確実なことがある」
渚が断定的な口調でそう言ったので、光は思わず身を乗り出した。

「あたしやあんたの頭でいくら考えたって、分かるわきゃねえっとこと」
「はあ?それが結論かよ?」
渚は、何か文句あるか――という表情で、手にしたビールを一口飲んだ。

そして、
「だから悩むだけ時間の無駄だって。後は警察に任せるっきゃないでしょ」
と一方的に話に蹴りをつける。

「それよりあんた、そんなことで腹立てとったん?」
渚はそう言って強引に話題を転換した。
「あたしが腹立ててた?何でそんなこと分かるのよ?」
渚がいきなり図星を点いてきたので、光は少しおたおたしながら返した。

「だってあんた、ここに入って来た時、怒りの余韻を顔に湛えていたじゃん。
あれは光先生が怒った後に、少し冷めた時の顔だったな。うん」
「相変わらずキモい奴!何でそんなことまで分かるんだよ?」
実際怖くなるくらいの観察力だ。

しかし渚は、
「この世に蘆田光ほど分かりやすい奴はいない。
あんたの場合、全部顔に書いてあるの。
で、何があったか白状してみ」
と言って、興味津々の顔を光に近づける。

渚の答えに光は少しむかっ腹を立てて言い返そうとしたが、すぐに諦めた。
こいつには何を言っても言い負かされるのが落ちだ。
そして幼稚園からの帰りにストーカーの沢渡を見かけ、一発喰らわせてやったことを話した。

それを聞いた渚が、
「ギャー!ストーカー君。
名前何だっけ?そうそう沢渡だ。
あいつ、あんたにまだ付きまとってんの?
物好きにも程があるな」
と馬鹿受けしたので、さすがに光も言い返した。
「何が物好きなわけ?こっちはいい迷惑なんだけど!」

「だってあんた、何かっつうと木刀振り回す、暴力女に付きまとう奴の気が知れん」
「誰が暴力女だって?
あ・ん・たにだけは言われたくないわ!
今まで何人痴漢の股ぐら蹴り飛ばして来たのかな?渚さんは!」
「あれは正当防衛。
大体、許可なくあたしに触ってくる奴が悪い」

駄目だ、こいつには何言っても、言い負かされるだけだった。
光は言い返すのは諦めたが、その一方で、どうやら渚に遠回しに慰められていたらしいことに気がついた。
実際渚に話したことで、少し靄々した気分は晴れていたからだ。

――思いっきり遠回しだけどね。
そう思いながらも、まだ何か釈然としない嫌な気分が、光の心の底に(わだかま)っていた。
それは灰野優子が失踪した日に、久々に例の頭痛があったせいかも知れない。

あれ以来頭痛は起きていないが、何か良くないことが周りで起こりそうな、そんな焦燥感に似た感情がいつまでも消えずに残っている。
まさかそれが17年前に自宅のベランダから見た、あの夜の光球に関わりがあるとは、光に分かる筈もなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み