【07-2】警視庁刑事部参事官 伊野慧吾(2)

文字数 2,324文字

しかしSNSへのある投稿を契機にして、事態は一変することとなった。
それは深川署の捜査員が事情を聞いた、一人の失踪者の知人らしき人物が投稿したものだったようだ。

その内容は、今日刑事に事情を聴かれた――といった程度の他愛のないものだったのだが、その投稿に対して、自分も同じように事情を聴かれたというフォローが相次いだのだ。

それらの投稿は、江東区内で謎の失踪事件が続発しているという、かなり核心を突いたものへと発展し、やがて<江東区連続失踪事件捜査本部>などという、伊野たちからすれば噴飯物の名称の、まとめサイトが立ち上がるまでになった。

やがてそのサイト内では、有象無象による根拠も信憑性もない各種の妄説が提唱され、互いを非難・否定・中傷しながらヒートアップして行ったのだった。

やれ某国による集団拉致だの、カルト教団による誘拐洗脳だの、宇宙人によるアブダクションだの、挙句の果てには江東区に異次元に通じる回廊が現れたなどというSFじみた説まで登場した。

そしてそれらの中には、悪巫山戯(わるふざけ)としか考えられない、荒唐無稽な目撃談まで添えられていたのだ。

――グレーの作業着姿の男たちが、白昼堂々黒のワゴン車に人を引きずり込んだ。
――白服に白い被り物をした集団に人が囲まれ、連れ去られた。
――真夜中に突然目が眩むような光が射して、目の前を歩いてた人を連れ去った。
――歩道の脇から突然水の様なものが噴き出して、それに包まれた人が消滅した。

中には明らかに合成と思われる証拠写真まで添付されていたのだから、暇人の遊びにしても手が込んでいると言わざるを得なかった。
捜査員たちは、当然のことながらその様な妄説を取り上げることはなかった。

しかしその一方で、捜査員たちが聞き込みをすることによって、返ってサイト内の議論を助長しかねない懸念が示され、著しく捜査に支障をきたすという皮肉な現象が起こってしまったのだ。

そしてそのサイトの噂は、遂にマスコミの知るところとなり、間髪置かず過激な取材競争が開始されたのだった。

テレビのワイドショーでは連日のように失踪事件の特集が組まれ、著しく信憑性に欠ける証言であろうと、お構いなしに取り上げられた。

それに評論家や専門家を名乗る人物が尤もらしい論評を加える。
更にその論評に対して、コメンテーターと呼ばれる有名人たちが、視聴者の期待に応えようとして必死でコメントを絞り出し上乗せする。

そんな情景が毎日のようにテレビの中で繰り返され、ありとあらゆる情報が世間に向かって垂れ流されるようになったのだ。
そしてその混沌とした状況の行きついた先は、お決まりの警察批判だった。

伊野はそのような批判は鼻で笑って無視を決め込んでいたが、警視庁の上層部ではそうはいかなかったらしい。
支持率下降中の、政権与党からのプレッシャーもそれに加わって、現場への締め付けは日々厳しくなる一途だった。

伊野は、昨日も上司の草薙警視監に呼ばれ、すみやかに事態の収拾、すなわち事件の解決を命じられたばかりだ。

――言うだけなら簡単だわな。
彼は上司の命令に、心の中でそう毒づいた。

一方でそう命じた上司ですら、この事件がそう容易く解決するとは、露ほども考えてはいないのだろうとも思った。
曖昧模糊という表現が、ぴったりと当てはまる難事件だからだ。

警察官としての伊野の階級は警視長、役職は警視庁刑事部参事官である。
警視長という階級の上位には、警視総監と警視監の2階級しかないのだから、相当の高位と言えるだろう。

それでも警察組織という、堅牢な縦社会の中では、上位者からの命令は絶対に近い。
それは伊野の反骨精神と馬力をもってしても、容易に崩せるものではなかった。

組織の中で15年近く生きてきた伊野は、そのことを十分すぎる程理解していたが、その一方で組織の論理というものの下らなさや息苦しさに心底辟易としていたのだ。
そして自分がその様な組織の論理に嫌が上でも従わざるを得ない時があることが、彼の怒りを一層煽り立てているのだった。

加えてこの日は彼にとって物凄く憂鬱な面会の約束があり、彼の怒りは一層ヒートアップしていた。
面談の相手は、内閣官房の大蝶斉天(おうちょうなりたか)という男だった。

<天に(ひと)しい>などという、馬鹿馬鹿しいくらい大仰な名前を持つその男とは、大学の同窓である。
同じく同窓で、陸上自衛隊に所属する志賀武史(しがたけふみ)と3人で、周囲からは<猪鹿蝶トリオ>などと呼ばれ、はっきりと言えば敬遠されていた。
トリオ名の由来はもちろん、彼らの名字の語呂合わせだ。

東京大学という日本の最高学府に所属する、極めて優秀かつ純朴な学生たちの中で、伊野達三人は疑い様もない不純物だった。
しかも極めて毒性の強い不純物だ。

それぞれの生き方の方向性の違いはあるにしても、彼らはいずれ劣らぬ強烈な個性を持った異端者であった。
3人それぞれが、自分の好き勝手に振る舞い、周囲の迷惑など委細構わない連中だったのだ。

そういう連中が周囲から完全に分離して浮き上がってしまうのは、当然と言うよりも必然だっただろう。

その3人が互いに引き寄せあって徒党を組んだのだから、その結果は火を見るより明らかだった。
つまり周囲の学生や教職員からは、可能な限り関わってはいけない奴らとして、恐れられつつも疎んじられることになったのだ。

しかし伊野たち3人は、そのことに痛痒も感じていなかったし、周囲の迷惑など一向に気にすることもなかった。
それぞれが自分勝手な方法で充実した学生時代を謳歌し、国家公務員上級試験に合格すると、何の支障もなく卒業していった。

そして彼らが卒業した後、それぞれが所属する学部の教官たちが集まって、大規模な祝賀会が催されたという都市伝説が残されたのだった。
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