【09-3】拡がる不穏(3)―3

文字数 2,996文字

立坑のところまで戻って来ると、向こう側からグエンと高橋が歩いて来るのが見える。
田中はその場におらず、どうやら外に出たらしい。

岡村は高橋に近づいて行って、小声で話し始めた。
グエンは高橋から離れて木村の方に来ると、
「木村さん、何かありましたか?」
と訊いてきた。

「そっちは?」
逆に木村が訊くとグエンは、
「かなり先まで行ったんですけど、さっきの管はずっと続いているみたいでした」
と首を傾げながら答えた。

「そうか、そんな遠くまで続いてたんか。
こっちもね、行き止まりの所まで行って、水溜りの底の方まで伸びてるみたいなんだよね」
言いながら木村は、背中にうすら寒さを憶えた。
グエンも困ったような表情を浮かべている。

すると話し合いが終わったらしく、高橋が近づいてきて言った。
「今日は一旦これで上がることにします。
それから、明日改めて来たいんですけど、そちらの都合の方はどうですかね?」

「明日っすか?
他の予定入っちゃってるんですよね。
シフト変更できるかなあ?
まあどっちにせよ、さっきの下水道局の人から、会社の方に正式に依頼してもらう必要があるんですけどね」

「ああそう。
じゃあ外でさっきの、ええと、田中さんだったっけ?
あの人に言えばいいのね?」
「そうです。
さっきまで、ここにいたんですがね。
上がっちゃったみたいですね」

「解りました。
それでもう一つお願いがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「さっき拾い上げたそれね」
高橋は管の切れ端を指して言った。
「持って帰りたいんだけど。
何か入れる物ないかな?」

そう言われて木村は少し考えたが、
「ポリ袋でよかったら、車にありますよ。いいですかね?」
と返した。
「ああ、それお願いします」

「じゃあ、グエン君。
車から厚めのポリ袋持って来て」
「解りました」と言って、グエンはきびきびとした動作で立坑の梯子を上り始めた。

「ありがとね」
高橋がその背中に声を掛ける。
――田中なんかより、よっぽど出来たおっさんだな。
木村は心中で思いながら高橋を見た。

5分もしないうちに、グエンが取って返して来て、手に持った袋を木村に手渡しながら言った。
「この大きさでいいですか?
念のためにワンサイズ小さいのも持ってきましたけど」

「こっちでいいんじゃないかな」
そう言って大きい方の袋を受け取った木村は、下に置いた管を拾い上げると、ポリ袋に入れ口を縛った。

そうしておいて高橋に、
「刑事さん、これでいいですかね?」
と確認する。
刑事は頷くと、「ありがとう」と言いながら袋を受け取ろうとした。

しかし、
「危ないんで、上まで持っていきますわ」
という木村の返事に、
「じゃあ、頼みます」
と素直に引き下がった。

4人が梯子を上って外に出ると、先程にも増して強い日差しが照りつけていた。
木村は手早くマンホールの蓋を元に戻すと、立ち上がって額の汗を拭う。
そして辺りを見回すと、その時になって田中がいないことに気づいた。

二人の刑事も気づいたらしく、
「あの下水道局の人、帰っちゃったのかな?」
と不審げに顔を見合わせる。

「グエン君、さっき上がって来た時に、田中さんいた?」
「多分、いらっしゃらなかったと思います」
「おっちゃんたち、さっきここにいた下水道局の人、どこにいったか知らない?」
木村は二人の警備員にも確認したが、両方とも首を横に振る。

「多分さっき下に降りたっきり、上がって来てないんじゃないかなあ?」
太った方がもう一人に確認するように言うと、年配の警備員も何回も首を縦に振って肯定した。

「上がって来てないって、そんな訳ないでしょう」
「本当だって。俺らマンホールの両方に立って警備してたから、出て来て他所に行ったんなら気づかないわけないって」
太った警備員は少し憤慨して、そう言った。
年配の方も肯いて同調する。

「いやあ、でもさあ。
僕らもしたで二手に分かれて合流したんだからさあ。
途中ですれ違ってたら、気づかないわけないって」
「そう言われてもなあ」
太った警備員は、なおも不満げに言う。

その時、
「田中さん、上がって来てないの?」
と高橋が訊いてきた。
そして木村の返事を待たず岡村の方を向くと、なにやら深刻な表情で頷き合う。

そして、
「あの、悪いだけど、もう一回下に行っていいかな?」
と、深刻な顔を崩さずに言う。
木村はその圧力に押され、「いいですよ」と答えると、再度マンホールの蓋を引き上げた。

「じゃあさ、私と岡村君と、もう1人下に降りて、1人は上に残って欲しいんだけど」
高橋がそう言うので木村は、
「グエン君、上で待機して。
もし田中さんが戻ってきたら、知らせて」
と指示を残し、再び立坑を降りて行った。
二人の刑事も彼に続く。

「木村さん、ここに残ってもらえる。
私らはもう一度様子を見に行って、帰ってくるから」
下に降りて来た高橋はそう言い残すと、先程の方向に歩いて行った。
歩きながら下水管の壁や、底の水を懐中電灯で照らして確認しているようだ。
岡村の方も反対方向に歩きながら同じように周囲を確認している。

やがて二人の姿が見えなくなると、木村は深い溜息をついて独り言ちた。
「途中に隠れるところはなかったけどなあ。反対側は行ってないから分からんけど。
管の底も、この深さじゃあ、落ちて溺れてるなんてことはないだろうしなあ」

そもそも田中が姿を隠す理由などない。
仮に何かそうしなければならない事情があったにせよ、わざわざ下水管に降りて来る必要などなく、外で警備員に一声かけて、どこかに行ってしまえば済むことだった。

かと言って、外の警備員たちが見逃しているとも思えなかった。
二人のあの立ち位置では見逃しようがない。
二人で示し合わせてサボりに行っていたと考えられなくもないが、そこまで疑い出したら切りがない。
「まったく、どこ行っちゃったんだろうなあ」

しばらくすると先に岡村が戻って来た。
一人で戻ってきたところをみると、田中はいなかったようだが、若い刑事の深刻な様子に、つい声を掛けそびれてしまった。

少し気まずい雰囲気になったところに、高橋が首を振りながら戻って来た。
そして岡村が同じように首を横に振るのを見ると、考え込むような仕草で立ち止まってしまった。

年配の刑事は暫くの間そうしていたが、やがて思い直したように顔を上げると、
「ありがとう。ご苦労さんだったね」
と木村を労った。

そして岡村に向かって、「戻ろうか」と声を掛けると、先に梯子を上り始める。
最後にマンホールから出た木村は、
「もう閉めちゃっていいですか?」
と、刑事たちに確認した。
高橋が頷いたので、蓋を戻す。

やはり外にも田中の姿はなかった。
高橋がグエンに確認したが、
「田中さんは戻って来られていません」
という、はきはきとした返事が返って来ただけだった。

高橋は岡村と小声で何事か相談していたが、やがて木村に向かって、
「今日はこれで引き上げることにします。
ご苦労さんでした」
と丁寧に言った。
「じゃあ、僕らは後片付けして帰りますんで」
木村の返事に二人は、同時に会釈を返してきた。

その時グエンが、
「刑事さん、これ忘れ物です」
と言いながら、下で回収した管を入れたポリ袋を差し出した。
それを受け取った岡村は、「ありがとう」と生真面目に礼を言う。

――結構いい奴そうだな。
木村はそんなことを思いながら、刑事たちがセダンに乗り込んで、現場を後にするのを見送った木村は、帰って社長に何て報告しよう――と漠然とした不安を拭いきれずに思った。
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