【11-2】強略の始まり(2)

文字数 2,395文字

千葉静香(ちばしずか)は、いつものように永代通りを学校に向かって歩いていた。
しかしその目線は、ずっと左手に持ったスマホの画面に向けられている。
画面上には友達から引切り無しにSNSのメッセージが届くため、それをチェックしてすぐさま返事を返さなければならないからだ。

時折後ろから歩いて来た、サラリーマン風の親父が、舌打ちしながら静香を追い越して行く。
しかし静香は顔も上げない。
そんな奴は、加齢臭をまとったハゲ親父に決まっているからだ。

朝っぱらから、そんな不愉快なものを目にするのもおぞましい。
そもそも自分は誰にも迷惑なんかかけていない。
――急いでいるのはそっちの勝手でしょ。そんなに早く会社に着きたいなら、黙って追い越していけばいいだけの話じゃない。
そんなことを一瞬考えたが、静香はまたスマホの画面に没頭し始めた。

SNS上の話題がどんどん変わっていくので、さっさと読んで返事をしないと付いていけない。
学校に着いてから友達に、
「何ですぐに返事返さないのよう?静香、付き合い悪りい」
などと非難されるのは真平だ。

そもそもこれくらいのスピードについていけないようでは、グループから外されてしまう。
それだけは何としても避けなければならなかった。
外されるだけならまだしも、確実にシカトされるからだ。
そうなると学校に居辛くなってしまう。

視線と指先だけを忙しなく動かしながら歩いていると、すぐ前に立ち止まっている誰かの背中にスマホが当たった。
――何よ?信号?
そう思って心もち顔を上げた時、彼女の目の前を何かが物凄い勢いで通過していった。

静香の思考が追いつけないほどの速さでそれが通過した後、目の前に立っていたはずのスーツ姿の男が消えていた。
――今のなんだろう?
その時、右手に強烈な痛みが走った。
静香が視線を落とすと、右手が手首の先からなくなっている。

――私のスマホ!
反射的にそう思った瞬間、左側から何かがぶつかってきて彼女を包み込んだ。
そして静香は消滅した。

***
「とも君、早く着替えなさい。バスに置いて行かれるわよ」
村﨑絵海(むらさきえみ)は、朝の子供向けテレビ番組に夢中になっている息子の智也(ともや)に、いつもの朝の台詞を投げかけた。
真夏のこの時期は、夫の貴之が毎朝6時過ぎには職場に出ていくため、この時間帯は幼稚園に送り出すまでの間、息子の智也と二人きりだ。

智也は今見ている朝の番組が、殊の外お気に入りで、始まると夢中になってテレビにかじりついてしまう。
結果、中々通園の支度をしないので、いつもバスの送迎時間ぎりぎりになってしまうのだ。

そして絵海にせかされ、膨れっ面でしぶしぶ支度を始める。
いつもの朝の村崎家の光景だった。

絵海たちが済む都営住宅は江東区にあり、居住面積はさほど広いとは言えないが比較的新しい建物で、家族三人で暮らすには十分満足のいくレベルだった。
欲を言えば一戸建てに住みたいと思うのはやまやまだが、東京の住宅事情と夫の収入を秤にかけると、かなり郊外まで行かなければ果たせぬ夢だった。

夫の貴之は国立感染症研究所に、主任研究官として勤めている。
主任とは言え公務員であるから、同年代の一部上場企業に努める会社員などに比べれば、収入は決して高くない。

その上早朝から出勤して深夜に帰宅することも度々の夫に、郊外から新宿区にある戸山庁舎までの毎日の通勤を強いるのは、絵海にはとてもできなかった。
近頃では母の富子が失踪して以来、殆ど家から出なくなってしまった父の勇が心配で、頻繁に様子を見に、月島にある実家に出かけている。
そのことを考えると、結果論ではあるが郊外に引っ越さなくてよかったと思う。

母の消息は未だに判っていない。
絵海の知る母は、父を一人置いて書置きもせずに家を空けるような人ではなかったため、恐らく一連の失踪事件に巻き込まれたのだろうと、暗い想定に至ってしまうのはいつものことだった。

何故母がそのような事件に巻き込まれてしまったのか、その理由が絵海には全く分からなかった。
事件の捜査は完全に暗礁に乗り上げているという。
最近ではめぼしい進展もないらしい。
ここ数日間は新たな事件も発生していなかったので、事件がテレビや新聞で取り上げられることも少なくなってきた。

「お母さん、できたよ」
そう言いながら智也が得意げな顔で前に立ったので、曲がった園児服の襟を直してあげると、軽く背中を押して彼を急かした。

玄関で智也に靴を履かせ自分もサンダルをつっかけると、ドアを開けて智也を先に外に出す。
ここまでは毎朝繰り返してきたルーチンだったが、絵海にとっては子供を持つ母としての、幸福感を感じさせる瞬間の一つでもあった。

そしていつものように玄関のドアを開け、智也を連れて外に出た絵海は、そこに今まで見たこともない光景が展開されているのを目にすることになる。
何本もの巨大な水流が、道路上をまるで大蛇がのたうつように動き回っていたのだ。
そして逃げ惑う人々を襲い、次々と飲み込んでいる。

その水流は一頻り動き回った後、道路上に生えている大きな突起物に吸い込まれていくようだった。
そしてそこから再び飛び出して、人々を襲撃することを繰り返しているのだ。

束の間呆然として、その凄惨な光景を眺めていた絵海は、近くで上がった大きな悲鳴によって我に返ると、反射的にそちらに目を向けた。
そこには智也が通う幼稚園の通園バスが停車していた。

そして今まさに、新たに飛び出した水流が、地上をのたうつようにしてバスに近づいていくのが見えた。
次の瞬間それはバスにぶつかり、その部分だけ抉り取られるように消滅していた。

絵海は恐怖のあまり腰にしがみついている智也の手を引っ張ると、反射的にドアを開け部屋の中に駆け込もうとした。
その時背後から音が響く。

絵海が智也を庇って後ろから抱きかかえたその瞬間、彼女の体を衝撃が包み込んだ。
――この子を…。
急速に消滅していく意識の中で、絵海は思った。
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