【11-1】強略の始まり(1)

文字数 3,154文字

江東区、木場公園。
朝の散歩に出た熊崎義男(くまざきよしお)は、いつもの様にふれあい広場口から園内に入った。
そこから広い園内を、1時間程かけてゆっくりと散策するのが、彼の日課だった。

入ってしばらく歩いた時、熊崎はその場の風景が日常と異なっていることに気づいた。
いつものように園内には、熊崎同様に時間を持て余し気味の年配の散歩客や、健康おたくのジョギング族の姿がちらほら見受けられる。
しかしその一部が熊崎同様、立ち止まって騒いているのだ。
原因は公園のあちこちに生えている、見慣れない物体だった。

――あれは何だろう?
白と薄紫と茶褐色が混じり合った斑模様のその突起物は、地中から生えて来た筍の様な形をしていた。

しかしそのサイズは筍とは比べ物にならない大きさだ。
その丈は2mを優に超えているため、少し見上げるようにしないと先端が見えない程だった。
その規格外の突起物が園内のあちこちで、地面から生えているのだ。

もちろん昨日の朝、彼が公園を散策した時には、そんなものは1本も生えていなかったし、おそらく日中も生えていなかっただろう。
もしも生えていたら今頃大騒ぎになって、警察やら報道陣やらで、鈴なりになっているはずだからだ。

よく見るとそれの生え方には一定の規則があるらしい。
どうやら噴水広場の辺りから、放射状に延びた線上に、点々と一定間隔で生えているようだ。

熊崎はいちばん近いそれに近づくと、三色斑の外観をしげしげと眺めてみた。
葉の外側には、ぽつぽつと2cmほどの長さの棘状のものが生えている。
おそるおそる指先で棘を突いてみると、かなり硬い。

――外来植物かな?それにしても、こんな急に成長するかな?
熊崎が不審に思って首をかしげたその時、後ろから短い叫び声があがった。
驚いて声の方に振り返った先で繰り広げられていたのは、信じられない光景だった。

巨大な半透明の水流のようなものが、公園中をのたうちまわるようにして暴れている。
そしてその水流は公園内にいる人という人を、手当たり次第に呑み込んでいるのだ。
水流は一瞬だけ呑み込んだ人の色に染まるが、見る間に元の半透明に戻っていく。
そして呑み込まれた人は、大掛かりな手品のように、跡形もなく消え去っているのだった。

巨大な水流は1本だけでなく、広い公園のあちこちで人間を襲っていた。
よく見るとそれは、(くだん)の斑色の突起物の先から噴き出しているようだった。

一頻り人間を呑み込んだ後、水流は元の場所に吸い込まれていく。
そしてまた別の突起物から新たな水流が飛び出してきて、近くを逃げ惑う人々を容赦なく襲っているのだ。

熊崎が呆然とその光景を眺めている僅かの間に、見渡す限りの場所から人の姿が消えていた。
その時熊崎は唐突に自分が置かれた立場に思い至り、全身の細胞から溢れだして来る恐怖に襲われた。

彼がその場から逃げ出そうとしたその刹那、頭上から「ザザッ」という大きな音がした。
反射的に顔を上げた熊崎を、降って来た水流が呑み込んだのだった。

***
皆辺香奈子(みなべかなこ)は、清澄通りを清澄白河の駅に向かって急ぎ足で歩いていた。
毎朝のことだが、早くしないといつもの通勤電車に乗り遅れてしまうからだ。
次の電車に乗っても、会社の始業時間には間に合うのだが、何故だかその電車から乗客が急激に増え、乗っている間中、暑さと汗まみれの体臭に苛まれる羽目になる。

あと10分早起きすればこんなに焦ることもないのだが、どうしても睡魔には勝てず、結局いつも同じことの繰り返しなのだ。
懲りない自分がいい加減、嫌にもなるが、一方で起きられないものは仕方がないと諦めている部分もある。

しかし今日は、いつもよりやばい状況だった。
普段より1、2分部屋を出るのが遅れたため、最後は駅までダッシュしないと間に合わないかも知れない。

そう思いながら前だけを見て必死で歩いていた香奈子は、舗道上の何かにつまずくと派手に転んでしまった。
勢いよく転んだ拍子に地面に着いた左の掌は擦り剥け、右脚のストッキングも破れて血がにじんだ膝が透けて見えている。

「痛い。何よこれぇ」
痛みと羞恥心で怒りの声を上げた香奈子は、自分の足を引っかけた物を見て短い悲鳴を上げる。

そこには歩道を割って、何かが飛び出していたからだ。
そしてその突起物は彼女の目の前で舗道を割りながら見る見るうちに伸びていき、あっという間に見上げるほどの高さにまで成長したのだった。

呆然とその様子を眺めていると、今度はあちこちで人の叫び声が響き渡り始めた。
香奈子が声のする方を見ると、清洲橋通りの舗道に沿って、自分の目の前にあるのと同じ巨大な突起物が次々と生え出している。
それは舗道のかなり先の方まで続いているようだった。

自分が今歩いてきた方向を振り返ると、そこでも同じことが起きていた。
香奈子が転んだ地点に来るまでの間、そんなものは生えていなかった。
もし生えていたらとっくに気づいていた筈だ。

仮に彼女が気づかなかったとしても、道行く誰かが気づかない筈がなかった。
つまりこの奇怪な突起物は、彼女が通り過ぎた後に一斉に伸びたことになる。
しかも舗道に沿ってほぼ一直線にだ。

周囲の幾人かがそうしているように、香奈子も自分の目前に突然出現した、巨大な異物をしげしげと観察する。
それは白と薄紫と茶褐色の斑模様をした、巨大な葉が巻いて筍状になったような形態であった。

よく見ると葉の表面に棘のようなものが無数に生えている。
明らかに香奈子が知っているものとは、形状も色彩もサイズもかけ離れていたが、それは何かの植物の様に思われた。

痛む膝を引きずるようにして立ち上がった香奈子は、近くにいた会社員風の男と顔を見合わせた。
――これって何ですか?
互いの表情がそう物語っている。

その時後方から突然、人の絶叫する声が聞こえて来た。
咄嗟にその方向を見た香奈子の眼には、更に異様な光景が飛び込んで来たのだった。
遥か向こうの方から水柱が次々と噴き上がり、こちらに近づいて来るのだ。

それは舗道に生えた突起物の先から噴き出しているようだった。
それだけでなく上に向かって噴き上がったその水柱は、突然方向を変えて周囲の人を呑み込んでいた。
それは以前アメリカ映画で見た、南米に生息する大蛇が人間に襲いかかる様によく似ていた。

水柱はまるでそれ自体が意志を持っているかのように方向を変え、狙い澄ましたように歩行者たちに襲いかかっている。
水柱に襲われ、呑み込まれた人たちがどうなってしまったのか、ここからは確認できない。
しかし次々と噴き上がる水柱と共に近づいてくる悲鳴が、一切の楽観的な想像を許さなかった。

突然理性の糸が切れ、恐怖の叫び声をあげた香奈子は、前方へと一目散に駆け出した。
圧倒的な恐怖が、擦りむいた膝の痛みすら忘れさせている。
彼女はこれまでの人生で、経験したことがないようなスピードで走り続けたが、背後から水柱が立てているらしい轟音が、人々の悲鳴と混ざりあって、急速に近づいてくる。

香奈子が絶望しかけたその刹那、左前方に地下鉄の乗降口と、そこに駆け込む数人の人々の姿が見えた。
必死の気力を振りって乗降口に飛び込み、そのままの勢いで地下へ向かう階段に踏み込んだ。

あまりの勢いに、足を取られて階段を転げ落ちる。
――逃げ切れた。
香奈子は体のあちこちを階段にぶつけながらも、そう思って大きな安堵感を覚えた。

しかしその直後、彼女は自分の下半身に衝撃を感じた。
香奈子は宙を舞い、さらに階段を転げ落ちてく。

改札階のフロアに叩きつけられた香奈子は、朦朧とする意識の中で、周囲に立っている数人の会社員風の男女が、怯えた表情で自分を見ていることに気づいた。
その視線の先にある自分の下半身に目をやった香奈子は、自分の腰から下の部分が消滅していることを認識し、そのまま永遠に意識を失った。
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